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海の孤島に嫁いだわたしを、竜王さまは完璧に愛してくださる。ただ一つ——夜、波音にまぎれて聞こえる『二つめの鼓動』の意味だけが、わからない

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/18


わたしが嫁ぐ相手は、海の向こうの、竜だという。


「セレナ。……許しておくれ」


出立の朝、父である王は、わたしの手を握って、そう言いました。


滅びかけたこの国を救う道は、ただ一つ。


海の孤島に棲む古い竜王と、王家の娘とのあいだに交わされた、遠い盟約。


その花嫁として、わたしが差し出される。


「化け物のもとへ、おまえを、やることになるとは」


「……いいえ、お父さま」


わたしは、できるかぎり、静かに、微笑みました。


「わたしが嫁ぐことで、国の皆が救われるのなら。……それは、きっと、しあわせなことです」


嘘ではありませんでした。


けれど、こわくないと言えば、それは、嘘になります。


竜。


人を喰らうとも、島ごと沈めるとも噂される、恐ろしい化け物。


わたしは、その腕に抱かれて、いのちを終えるのかもしれない。


そう、覚悟をして。


わたしは、たった一人、小舟に乗せられ、灰色の海へと、送り出されたのです。



孤島は、波の音に、満ちていました。


寄せては返し、返しては寄せる。


とく、とく、と、大地そのものが呼吸をしているような、絶え間ない、波音。


小舟が砂浜に着くと、その人は、もう、そこに立っていました。


濡れ羽色の髪を、潮風になびかせて。


深い海の色をした瞳で、じっと、わたしを見ている。


——ひと、だわ。


わたしは、思わず、目を見張りました。


化け物では、ない。


わたしの前にいたのは、恐ろしいほどに、美しい、一人の青年の姿でした。


「よく、来た」


低い、静かな声でした。


「わたしが、この島の竜。……レヴィアスだ」


「セ、セレナ・アルフェインと、申します」


わたしは、震える膝で、なんとか、礼をしました。


「本日より、あなたさまの、花嫁として……」


「花嫁、か」


竜王さまは、わずかに、目を細めました。


そうして、ゆっくりと、わたしのほうへ、手を伸ばして。


——ああ、喰われる。


わたしは、ぎゅっと、目を閉じました。


けれど。


その手は、ただ、そっと。


風に乱れたわたしの髪を、耳に、かけ直しただけでした。


「こわがらなくて、いい」


竜王さまは、言いました。


「わたしは、そなたを、傷つけない。……ひとつの髪の先も、な」


その声が、あんまり、静かで。


あんまり、優しくて。


わたしは、こわいのも忘れて、ぽかんと、そのお顔を、見上げてしまったのです。



竜王さまは、噂とは、何もかもが、違っていました。


島の館は、白い石と、貝の細工で飾られて、どこにいても、波音が聞こえる、美しい場所でした。


竜王さまは、わたしを、それはもう、大切に、なさいます。


朝は、いちばん熟れた果実を、自ら剥いて。


昼は、島の入り江を、手を引いて、歩いてくださって。


「セレナ。寒くは、ないか」


「いいえ」


「腹は、減っていないか」


「……ふふ。さっき、あんなに、いただいたのに」


わたしが笑うと、竜王さまは、少しだけ、決まりが悪そうに、目を逸らしました。


「……そうか」


こんなにも、静かで、不器用で。


こんなにも、優しい、化け物が、いるでしょうか。


わたしは、いつのまにか、嫁いできたことを、こわいとは、思わなくなっていました。


夜、寝台にはいると、竜王さまは、そっと、わたしを、腕に抱いてくださいます。


「眠りなさい」


「……はい」


広い胸に、頬を寄せると。


窓の外から、絶え間ない、波音が、聞こえてくる。


とく、とく、と。


寄せては、返す。


その音に、抱かれるようにして、わたしは、目を閉じました。



はじめて、それに気づいたのは。


嫁いで、ひと月ほどが、経った、夏の夜のことでした。


竜王さまの腕に抱かれて、まどろんでいたとき。


寄せては返す波音の、その、合間に。


——とく。


もう一つの、音が、しました。


とく、とく、と。


わたしの、胸の、奥のほうから。


まるで、そこに、もう一つ、心臓があるみたいに。


「……あら?」


わたしは、うっすらと、目を開けました。


「どうした、セレナ」


「いえ……なんだか、胸の奥で。……音が、聞こえた気が、して」


竜王さまの腕が、ほんの少し、こわばったのが、わかりました。


けれど、そのお声は、いつもどおり、静かで。


「波の音だろう」


そう、仰いました。


「この島は、どこにいても、海に近い。……夢と、まざったのだ」


「……そう、ですね」


きっと、そう。


夢うつつに、波音を、胸の音と、聞き違えたのでしょう。


わたしは、そう思って、また、目を閉じました。


けれど。


その夜から。


竜王さまに抱かれて眠るたびに。


波音にまぎれて、わたしの胸の奥から、"二つめの鼓動"が、聞こえるように、なったのです。


とく、とく、と。


夜ごと、少しずつ、はっきりと。



夏が、深まっていきました。


わたしは、この島での暮らしを、竜王さまを、心から、慕うように、なっていました。


けれど、時折。


竜王さまは、ふと、遠い目を、なさるのです。


その夜も、そうでした。


入り江の岩に並んで腰かけ、月の海を、二人で、眺めていたとき。


「レヴィアスさま」


わたしは、そっと、尋ねました。


「あなたさまは……どれくらい、長く、生きて、いらっしゃるの?」


竜王さまは、少しのあいだ、黙って。


やがて、静かに、答えました。


「数えるのを、やめて、久しい」


「……そんなに」


「竜は、老いない。……死ぬこともまた、めったに、ない」


波音が、寄せては、返します。


「わたしは、これまでにも」


竜王さまは、月を見たまま、言いました。


「幾人か、愛する者を、得た」


わたしの胸が、ちくりと、痛みました。


「みな、人だった。……そして、みな」


「……わたしを、置いて?」


「ああ」


たった一言。


けれど、その一言には、わたしには、とても、量りきれない、長い長い、淋しさが、こもっていました。


数百年を、たった独りで。


愛しては、看取り、看取っては、また独りに、戻って。


そんな時を、このお方は、生きてきたのです。


「レヴィアスさま」


わたしは、思わず、その手を、握りました。


「……ごめんなさい」


「なぜ、謝る」


「だって。……わたしも、いつか」


言葉が、喉に、つかえました。


「わたしも、いつか。……おばあさんに、なって。あなたさまを、置いて、逝って、しまうもの」


わたしのほうが、ずっと、先に、死んでしまう。


このお方を、また、独りに、してしまう。


そう思うと、涙が、こぼれて、止まりませんでした。


竜王さまは、しばらく、わたしを、見つめて。


それから、そっと、わたしの涙を、指で、ぬぐいました。


「……そのことなら」


低く、静かに、囁くように。


「もう、案じなくて、いい」


「え……?」


「そなたは、わたしを、置いていったり、しない」


波音が、寄せては、返します。


とく、とく、と。


わたしの胸の奥で、"二つめの鼓動"が、その夜、いっそう、はっきりと、脈を打ちました。



わたしは、その言葉の意味を、そのときは、わかりませんでした。


けれど、日を追うごとに。


わたしの体は、少しずつ、変わっていったのです。


朝、鏡を見ても。


季節が、いくつ、めぐっても。


わたしの姿は、嫁いできたあの日から、まるで、時が止まったように、変わらない。


肌は張り、髪は艶やかなまま。


老いる気配が、少しも、ないのです。


「レヴィアスさま」


ある夜、わたしは、勇気を出して、尋ねました。


「わたし……どうして、年を、とらないの?」


竜王さまは、わたしを、腕に抱いたまま。


とても、とても、静かに、言いました。


「わたしが、そうしたからだ」


「……そう、した?」


「そなたの胸で、夜ごと、鳴っている音を、聞いたことが、あるだろう」


——とく、とく。


あの、二つめの鼓動。


「あれは、な」


竜王さまの、大きな手が、そっと、わたしの胸に、あてられました。


ちょうど、心臓の、上に。


「わたしの、心臓の、音だ」


「……え?」


「竜の命は、胸の奥の、核に、宿る」


竜王さまは、囁きました。


「わたしは、夜ごと、それを、ほんの少しずつ、削って。……そなたの中に、溶かし込んでいた」


わたしは、息を、呑みました。


「二つの命を、ひとつに、融かすために」


とく、とく、と。


わたしの胸で、竜王さまの心臓が、脈を打っています。


「そなたの中には、もう、わたしの命が、半分、流れている」


「レヴィアス、さま……」


「だから、そなたは、老いない。……わたしと、同じだけ、生きる」


わたしは、ただ、その蒼い瞳を、見つめることしか、できませんでした。


「勝手なことを、したのは、わかっている」


竜王さまの声が、ほんの少し、揺れました。


「そなたに、断りも、なく。……二度と、独りに、なりたくない一心で」


「……レヴィアスさま」


「怒って、いいのだ、セレナ。……こんな、化け物のような、ことを」


化け物。


ああ。


このお方は、ずっと、そう、思っていたのです。


数百年の孤独を、たった独りで抱えて。


こんなにも、まっすぐに、わたしを、愛して。


それでも、自分のことを、化け物だと。



わたしは、竜王さまの、胸に、そっと、額を、押しあてました。


「……こわく、ないと言えば」


正直に、言いました。


「それは、嘘に、なります」


竜王さまの体が、こわばるのが、わかりました。


「でも」


わたしは、顔を上げて、微笑みました。


「わたし、うれしいんです」


「……うれしい?」


「だって」


とく、とく、と。


わたしの胸で、二つの鼓動が、ひとつに、重なって、鳴っています。


「これで、わたし。……あなたさまを、置いて、逝かなくて、いいんですもの」


竜王さまの、深い海の色の瞳が、大きく、見開かれました。


「あなたさまを、また、独りになんて。……もう、しなくて、いいんですもの」


わたしは、竜王さまの頬に、両手を、添えました。


「わたしのほうこそ。……ずっと、それが、こわかった」


こぼれた涙が、今度は、あたたかいものでした。


「レヴィアスさま。……わたしも。二度と、あなたさまと、離れたく、ない」


しばらく、竜王さまは、言葉を、失っていました。


やがて。


わたしを、痛いほど、強く、強く、抱きしめて。


「……セレナ」


その声は、はじめて聞く、震えた声でした。


「わたしは、そなたを、離さない。……永遠に」


「はい」


「もう、離れられない、体だ。……そなたも、わたしも」


「はい。……うれしい」


窓の外で、波音が、寄せては、返します。


とく、とく、と。


わたしの胸の、二つの鼓動と、寄り添うように。



それから、幾つの夏が、めぐったでしょう。


わたしは、あいかわらず、老いることなく。


竜王さまの隣で、しあわせに、暮らしています。


祖国は、竜王さまの加護のもと、豊かに、栄えました。


ときどき、あの小舟でわたしを送り出した父が、白髪の増えた顔で、島を訪ねてきては、変わらぬわたしを見て、涙ぐみます。


「セレナ。……おまえは、本当に、しあわせに、なったのだな」


「はい、お父さま」


わたしは、竜王さまの腕に、寄り添って、微笑みます。


「わたし、この世で、いちばん、しあわせな、花嫁のままです」


夜になると。


竜王さまは、今も、わたしを、そっと、腕に、抱いてくださいます。


「セレナ。……波の音を、聞いておいで」


「はい」


寄せては、返す、波音。


そして、そこに、まぎれて。


とく、とく、と。


わたしの胸で、二つの心臓が、ひとつに、鳴っている。


「あれは」


竜王さまが、囁きます。


「二つの命が、ひとつになった、音だ」


「……ええ」


わたしは、うっとりと、目を閉じました。


もう、こわくは、ありません。


このお方が、どれほど深く、途方もなく、わたしを愛して、この体に何を溶かし込んだのか。


——それでも。


いいえ。


だからこそ。


わたしは、このお方を、世界のだれよりも、深く、愛しているのです。


とく、とく、と。


今宵も、波音にまぎれて、二つの鼓動が、ひとつに、重なります。


永い、永い、時のなかで。


この音は、きっと、いつまでも、鳴りやむことは、ないのでしょう。

蜜月 憂です。今作は「竜王×波音」。数百年をたった独りで生きてきた不老の竜が、二度と最愛を喪わぬために、己の心臓を少しずつ溶かし込んで二つの命をひとつに融かす——その途方もない執着を、夜の波音と『二つめの鼓動』にのせてお届けしました。切なくて、ほの暗くて、それでも溺れるほど甘い。ヒロインは最後まで傷つかず、永遠に愛されて幸せです。ゾクッときゅんを、どうぞ。

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