海の孤島に嫁いだわたしを、竜王さまは完璧に愛してくださる。ただ一つ——夜、波音にまぎれて聞こえる『二つめの鼓動』の意味だけが、わからない
わたしが嫁ぐ相手は、海の向こうの、竜だという。
「セレナ。……許しておくれ」
出立の朝、父である王は、わたしの手を握って、そう言いました。
滅びかけたこの国を救う道は、ただ一つ。
海の孤島に棲む古い竜王と、王家の娘とのあいだに交わされた、遠い盟約。
その花嫁として、わたしが差し出される。
「化け物のもとへ、おまえを、やることになるとは」
「……いいえ、お父さま」
わたしは、できるかぎり、静かに、微笑みました。
「わたしが嫁ぐことで、国の皆が救われるのなら。……それは、きっと、しあわせなことです」
嘘ではありませんでした。
けれど、こわくないと言えば、それは、嘘になります。
竜。
人を喰らうとも、島ごと沈めるとも噂される、恐ろしい化け物。
わたしは、その腕に抱かれて、いのちを終えるのかもしれない。
そう、覚悟をして。
わたしは、たった一人、小舟に乗せられ、灰色の海へと、送り出されたのです。
*
孤島は、波の音に、満ちていました。
寄せては返し、返しては寄せる。
とく、とく、と、大地そのものが呼吸をしているような、絶え間ない、波音。
小舟が砂浜に着くと、その人は、もう、そこに立っていました。
濡れ羽色の髪を、潮風になびかせて。
深い海の色をした瞳で、じっと、わたしを見ている。
——ひと、だわ。
わたしは、思わず、目を見張りました。
化け物では、ない。
わたしの前にいたのは、恐ろしいほどに、美しい、一人の青年の姿でした。
「よく、来た」
低い、静かな声でした。
「わたしが、この島の竜。……レヴィアスだ」
「セ、セレナ・アルフェインと、申します」
わたしは、震える膝で、なんとか、礼をしました。
「本日より、あなたさまの、花嫁として……」
「花嫁、か」
竜王さまは、わずかに、目を細めました。
そうして、ゆっくりと、わたしのほうへ、手を伸ばして。
——ああ、喰われる。
わたしは、ぎゅっと、目を閉じました。
けれど。
その手は、ただ、そっと。
風に乱れたわたしの髪を、耳に、かけ直しただけでした。
「こわがらなくて、いい」
竜王さまは、言いました。
「わたしは、そなたを、傷つけない。……ひとつの髪の先も、な」
その声が、あんまり、静かで。
あんまり、優しくて。
わたしは、こわいのも忘れて、ぽかんと、そのお顔を、見上げてしまったのです。
*
竜王さまは、噂とは、何もかもが、違っていました。
島の館は、白い石と、貝の細工で飾られて、どこにいても、波音が聞こえる、美しい場所でした。
竜王さまは、わたしを、それはもう、大切に、なさいます。
朝は、いちばん熟れた果実を、自ら剥いて。
昼は、島の入り江を、手を引いて、歩いてくださって。
「セレナ。寒くは、ないか」
「いいえ」
「腹は、減っていないか」
「……ふふ。さっき、あんなに、いただいたのに」
わたしが笑うと、竜王さまは、少しだけ、決まりが悪そうに、目を逸らしました。
「……そうか」
こんなにも、静かで、不器用で。
こんなにも、優しい、化け物が、いるでしょうか。
わたしは、いつのまにか、嫁いできたことを、こわいとは、思わなくなっていました。
夜、寝台にはいると、竜王さまは、そっと、わたしを、腕に抱いてくださいます。
「眠りなさい」
「……はい」
広い胸に、頬を寄せると。
窓の外から、絶え間ない、波音が、聞こえてくる。
とく、とく、と。
寄せては、返す。
その音に、抱かれるようにして、わたしは、目を閉じました。
*
はじめて、それに気づいたのは。
嫁いで、ひと月ほどが、経った、夏の夜のことでした。
竜王さまの腕に抱かれて、まどろんでいたとき。
寄せては返す波音の、その、合間に。
——とく。
もう一つの、音が、しました。
とく、とく、と。
わたしの、胸の、奥のほうから。
まるで、そこに、もう一つ、心臓があるみたいに。
「……あら?」
わたしは、うっすらと、目を開けました。
「どうした、セレナ」
「いえ……なんだか、胸の奥で。……音が、聞こえた気が、して」
竜王さまの腕が、ほんの少し、こわばったのが、わかりました。
けれど、そのお声は、いつもどおり、静かで。
「波の音だろう」
そう、仰いました。
「この島は、どこにいても、海に近い。……夢と、まざったのだ」
「……そう、ですね」
きっと、そう。
夢うつつに、波音を、胸の音と、聞き違えたのでしょう。
わたしは、そう思って、また、目を閉じました。
けれど。
その夜から。
竜王さまに抱かれて眠るたびに。
波音にまぎれて、わたしの胸の奥から、"二つめの鼓動"が、聞こえるように、なったのです。
とく、とく、と。
夜ごと、少しずつ、はっきりと。
*
夏が、深まっていきました。
わたしは、この島での暮らしを、竜王さまを、心から、慕うように、なっていました。
けれど、時折。
竜王さまは、ふと、遠い目を、なさるのです。
その夜も、そうでした。
入り江の岩に並んで腰かけ、月の海を、二人で、眺めていたとき。
「レヴィアスさま」
わたしは、そっと、尋ねました。
「あなたさまは……どれくらい、長く、生きて、いらっしゃるの?」
竜王さまは、少しのあいだ、黙って。
やがて、静かに、答えました。
「数えるのを、やめて、久しい」
「……そんなに」
「竜は、老いない。……死ぬこともまた、めったに、ない」
波音が、寄せては、返します。
「わたしは、これまでにも」
竜王さまは、月を見たまま、言いました。
「幾人か、愛する者を、得た」
わたしの胸が、ちくりと、痛みました。
「みな、人だった。……そして、みな」
「……わたしを、置いて?」
「ああ」
たった一言。
けれど、その一言には、わたしには、とても、量りきれない、長い長い、淋しさが、こもっていました。
数百年を、たった独りで。
愛しては、看取り、看取っては、また独りに、戻って。
そんな時を、このお方は、生きてきたのです。
「レヴィアスさま」
わたしは、思わず、その手を、握りました。
「……ごめんなさい」
「なぜ、謝る」
「だって。……わたしも、いつか」
言葉が、喉に、つかえました。
「わたしも、いつか。……おばあさんに、なって。あなたさまを、置いて、逝って、しまうもの」
わたしのほうが、ずっと、先に、死んでしまう。
このお方を、また、独りに、してしまう。
そう思うと、涙が、こぼれて、止まりませんでした。
竜王さまは、しばらく、わたしを、見つめて。
それから、そっと、わたしの涙を、指で、ぬぐいました。
「……そのことなら」
低く、静かに、囁くように。
「もう、案じなくて、いい」
「え……?」
「そなたは、わたしを、置いていったり、しない」
波音が、寄せては、返します。
とく、とく、と。
わたしの胸の奥で、"二つめの鼓動"が、その夜、いっそう、はっきりと、脈を打ちました。
*
わたしは、その言葉の意味を、そのときは、わかりませんでした。
けれど、日を追うごとに。
わたしの体は、少しずつ、変わっていったのです。
朝、鏡を見ても。
季節が、いくつ、めぐっても。
わたしの姿は、嫁いできたあの日から、まるで、時が止まったように、変わらない。
肌は張り、髪は艶やかなまま。
老いる気配が、少しも、ないのです。
「レヴィアスさま」
ある夜、わたしは、勇気を出して、尋ねました。
「わたし……どうして、年を、とらないの?」
竜王さまは、わたしを、腕に抱いたまま。
とても、とても、静かに、言いました。
「わたしが、そうしたからだ」
「……そう、した?」
「そなたの胸で、夜ごと、鳴っている音を、聞いたことが、あるだろう」
——とく、とく。
あの、二つめの鼓動。
「あれは、な」
竜王さまの、大きな手が、そっと、わたしの胸に、あてられました。
ちょうど、心臓の、上に。
「わたしの、心臓の、音だ」
「……え?」
「竜の命は、胸の奥の、核に、宿る」
竜王さまは、囁きました。
「わたしは、夜ごと、それを、ほんの少しずつ、削って。……そなたの中に、溶かし込んでいた」
わたしは、息を、呑みました。
「二つの命を、ひとつに、融かすために」
とく、とく、と。
わたしの胸で、竜王さまの心臓が、脈を打っています。
「そなたの中には、もう、わたしの命が、半分、流れている」
「レヴィアス、さま……」
「だから、そなたは、老いない。……わたしと、同じだけ、生きる」
わたしは、ただ、その蒼い瞳を、見つめることしか、できませんでした。
「勝手なことを、したのは、わかっている」
竜王さまの声が、ほんの少し、揺れました。
「そなたに、断りも、なく。……二度と、独りに、なりたくない一心で」
「……レヴィアスさま」
「怒って、いいのだ、セレナ。……こんな、化け物のような、ことを」
化け物。
ああ。
このお方は、ずっと、そう、思っていたのです。
数百年の孤独を、たった独りで抱えて。
こんなにも、まっすぐに、わたしを、愛して。
それでも、自分のことを、化け物だと。
*
わたしは、竜王さまの、胸に、そっと、額を、押しあてました。
「……こわく、ないと言えば」
正直に、言いました。
「それは、嘘に、なります」
竜王さまの体が、こわばるのが、わかりました。
「でも」
わたしは、顔を上げて、微笑みました。
「わたし、うれしいんです」
「……うれしい?」
「だって」
とく、とく、と。
わたしの胸で、二つの鼓動が、ひとつに、重なって、鳴っています。
「これで、わたし。……あなたさまを、置いて、逝かなくて、いいんですもの」
竜王さまの、深い海の色の瞳が、大きく、見開かれました。
「あなたさまを、また、独りになんて。……もう、しなくて、いいんですもの」
わたしは、竜王さまの頬に、両手を、添えました。
「わたしのほうこそ。……ずっと、それが、こわかった」
こぼれた涙が、今度は、あたたかいものでした。
「レヴィアスさま。……わたしも。二度と、あなたさまと、離れたく、ない」
しばらく、竜王さまは、言葉を、失っていました。
やがて。
わたしを、痛いほど、強く、強く、抱きしめて。
「……セレナ」
その声は、はじめて聞く、震えた声でした。
「わたしは、そなたを、離さない。……永遠に」
「はい」
「もう、離れられない、体だ。……そなたも、わたしも」
「はい。……うれしい」
窓の外で、波音が、寄せては、返します。
とく、とく、と。
わたしの胸の、二つの鼓動と、寄り添うように。
*
それから、幾つの夏が、めぐったでしょう。
わたしは、あいかわらず、老いることなく。
竜王さまの隣で、しあわせに、暮らしています。
祖国は、竜王さまの加護のもと、豊かに、栄えました。
ときどき、あの小舟でわたしを送り出した父が、白髪の増えた顔で、島を訪ねてきては、変わらぬわたしを見て、涙ぐみます。
「セレナ。……おまえは、本当に、しあわせに、なったのだな」
「はい、お父さま」
わたしは、竜王さまの腕に、寄り添って、微笑みます。
「わたし、この世で、いちばん、しあわせな、花嫁のままです」
夜になると。
竜王さまは、今も、わたしを、そっと、腕に、抱いてくださいます。
「セレナ。……波の音を、聞いておいで」
「はい」
寄せては、返す、波音。
そして、そこに、まぎれて。
とく、とく、と。
わたしの胸で、二つの心臓が、ひとつに、鳴っている。
「あれは」
竜王さまが、囁きます。
「二つの命が、ひとつになった、音だ」
「……ええ」
わたしは、うっとりと、目を閉じました。
もう、こわくは、ありません。
このお方が、どれほど深く、途方もなく、わたしを愛して、この体に何を溶かし込んだのか。
——それでも。
いいえ。
だからこそ。
わたしは、このお方を、世界のだれよりも、深く、愛しているのです。
とく、とく、と。
今宵も、波音にまぎれて、二つの鼓動が、ひとつに、重なります。
永い、永い、時のなかで。
この音は、きっと、いつまでも、鳴りやむことは、ないのでしょう。
蜜月 憂です。今作は「竜王×波音」。数百年をたった独りで生きてきた不老の竜が、二度と最愛を喪わぬために、己の心臓を少しずつ溶かし込んで二つの命をひとつに融かす——その途方もない執着を、夜の波音と『二つめの鼓動』にのせてお届けしました。切なくて、ほの暗くて、それでも溺れるほど甘い。ヒロインは最後まで傷つかず、永遠に愛されて幸せです。ゾクッときゅんを、どうぞ。




