第五十八話 わたし(俺)、名前を呼ぶ
夜の回廊。
灯りは落とされ、
窓から差し込む月光だけが、床を照らしている。
歩く音が、二人分。
言葉はない。
でも、沈黙は重くない。
「……ねえ」
彼女が、足を止める。
「今日のこと」
「無理、してなかった?」
「してたよ」
正直に答える。
「怖かった」
「嫌われるかもしれないって」
彼女は、少しだけ目を見開く。
「それでも?」
「言ったよね」
「うん」
一呼吸。
「前世では」
「怖くても、怒らなかった」
「立場を失うのが、嫌だった」
「正しさより、保身を選んだ」
月光の中で、
彼女の表情が、柔らぐ。
「だから今世では」
「失ってもいいものを、決めた」
「……わたし?」
小さな声。
逃げ道は、もうない。
「そう」
胸の奥が、少し痛む。
でも、はっきり言う。
「君を」
「判断を」
「同じ過ちを繰り返さないことを」
一歩、近づく。
「だから」
名前を、呼ぶ。
音にすると、
思ったより静かで、
思ったより重かった。
彼女は、しばらく黙っていた。
そして、
ゆっくりと息を吐く。
「……やっとだ」
少し笑って、
でも、目は潤んでいる。
「名前を呼ばれるの」
「怖い人も、いるんだよ」
「でも」
「あなたなら、大丈夫だと思った」
視界に表示。
《関係:命名完了》
《距離:不可逆》
《孤独:共有へ変化》
《裁量:個人→共同認識》
遠くで、鐘の音。
夜が、次に進む合図。
「ねえ」
彼女が言う。
「これからも、選び続けてね」
「うん」
即答。
「間違えたら」
「ちゃんと、怒って」
「約束する」
二人で、歩き出す。
孤独は、
消えたわけじゃない。
でもそれはもう、
一人で背負うものじゃなかった。
名前を呼んだ。
それは、力でも、制度でもない。
覚悟の、証だった。




