四. 外つ国へ(1)
潮騒の音が聞こえる。
海を望む崖の上、エリサが背から下りたのをに確認してルディオは人の姿に変化した。崖の先端に立つ石造りの大聖堂は、曇天の下で薄く雪を纏い乳白色に輝いている。朝の礼拝の時刻はとうに過ぎており、人の気配は少ない。
ここへ来るのは初めてではない。それでも来るたびに身が引き締まる思いがし、自然と背筋が伸びる。この地に眠る偉大な魔導使、かつて竜たちが自ら従ったという始祖の気配がそうさせるのだろうか。
「ルディオ、どうかした?」
数歩先を歩いていたエリサがこちらを振り返る。王女と守護竜の結びつきは強く、エリサはルディオの心情の変化にいつも敏感に気がつく。そしてルディオもまた、気丈に振る舞う主君の内心が日に日に荒んでいくのをよく感じ取っている。心苦しさを覚えながらもかける言葉は見つけられず、笑みを返した。
「なんでもない。行こう」
建物へ入る。晴れの日は大窓から光が入るのだが、今日は鉛色の空を透かして薄暗い。磨き込まれた通路を縦に並んで歩く。通路脇の長椅子に腰掛けて会話している老人たちや、祈りを捧げ終わったのであろう子どもたちとすれ違う。皆こちらに気づき挨拶してくれるが、特別に畏まることはしない。大聖堂は身分に関係なく、誰もが平等に祈りを捧げられる場だ。エリサとルディオも挨拶を返しながら進み、通路の正面、巨大な聖画の前で立ち止まった。
祭壇の壁に色硝子を嵌め込んで大きく描かれているのは、金髪に青い瞳の女性——始祖オリヴェルダである。その周囲には彼女を支えるように四頭の竜の姿がある。緋、金、白、青——建国の際に始祖を支えたという、初代の守護竜たちだ。
エリサが手指を組み、目を閉じた。微かに震える背中をルディオは黙って見守る。女王が病に臥せってから、祈ることしかできない歯痒さと無力感は日が経つほどにエリサの心を蝕み、ルディオにも痛いほど伝わっていた。
「どうか」
エリサが囁くように掠れ声を発する。
「始祖様、どうか、お母様を助けてください」
聖画の女性は表情を変えることなく、厳かに遠くを見つめていた。
温室の窓際に設えられた花壇の土から、いくつもの芽が一斉に顔を出す。芽はどれもたちまちのうちに膨らみ、葉を開き背丈を伸ばして、次々に小さな白い花をつけていく。
「……少し考えれば分かることだと思うのだけれど」
全ての花が咲いたのを見届けて第一王女マーチェルは翳した手を下ろし、深く息を吐いてエリサを振り返った。
「ここに貴方にできることはない。居られても邪魔にしかならないわ」
大聖堂のすぐ傍、日当たりの良い丘の上にある王立病院——温室はその施設のうちの一つで、研究に使う植物を育てる場所だった。今は五人の薬師たちがあちらこちらで植物の世話や採取を行っている。
女王の病を癒す薬の開発に協力するため、マーチェルが毎日のようにここに出向いているとエリサが聞き及んだのはつい先日のことだ。手伝えることを探したいと言うエリサの思いを尊重し、今日ここまで連れて来たのだが。
「分かったら早く城へ戻りなさい」
望み通りにはいかなさそうだ。ルディオは通路を塞いでしまわないように少し離れた壁際に立ち、気を揉みながらエリサを見守っていた。エリサは拳を握り締め、震えながら姉を見上げる。
「でも、お姉様や皆が頑張っているのに、何もせずにいるのが辛いんです。何かお手伝いできませんか。なんでもします」
「貴方にできることはここの誰もができることよ」
マーチェルは鬱陶しげに目を細め、冷たく突き放す。金の髪といい青い瞳といい、母とよく似た面差しをしているが、温和な女王とは違い常に厳格な態度を崩さない。ルディオは未だに彼女の笑顔を見たことがなかった。
「人手は足りている。むしろ貴方に作業を教える時間や人員が無駄でしかない。本来研究に充てられるはずの資源を、貴方の気持ちを楽にするためだけに割くことなどできないわ。分かるでしょう」
「それは……」
「何度も言わせないで頂戴、貴方は邪魔なの。出ていきなさい」
言い放つや、話は終わりとばかりにエリサから視線を外し、傍を通った薬師に声をかける。薬師は育ったばかりの花へと歩み寄り、小さな刷毛を使って受粉させていく。作業を終えた薬草にマーチェルが再び手を翳すと、みるみる花が枯れ落ち、実が育ち始める。生長魔法——植物の生長速度を自在に操る、マーチェルが最も得意とする魔法だ。
生物を相手にする魔法は非常に体力を消耗するのだと、以前魔法学の授業でオムルが話していた。しかしマーチェルは弱音を吐くことはおろか、僅かな疲労感さえ表に出さない。いつもエリサにきつく当たるこの姉姫がルディオは苦手だったが、エリサに対する以上に厳しく己を律する姿には敬意を抱いていた。
「エリサ」
拳を握ったまま姉の魔法を見つめていたエリサへ歩み寄り、そっと手を引く。
「帰ろう。姉君の仰るとおり、ここはお任せした方がいい」
「でも、わたし……」
「エリサ様」
突如低い声がかかり、二人同時に振り返る。温室の入口にマーチェルの守護竜、エクシオスロが立っていた。エリサの倍ほどもあろうかという長身で、項で束ねた長髪は深い紫、大きく古傷のついた右目は瞼が閉じたままになっている。傷は野生の名残であり、成熟した雄竜同士の闘争の証だ。寡黙で無愛想な性格も相まって、まだ若いルディオにとってはマーチェル以上に威圧感を覚える相手であった。
思わず身構えたルディオには一瞥もくれずエクシオスロは歩み寄ってきて、片手で抱えていた木箱をエリサへと差し出す。中には分厚い本が何冊も詰めてあった。エリサには到底持てない重量だろうと察知し、ルディオが代わりに受け取る。
「まだ目を通せていない薬草の図鑑です」
首を傾げて本を一冊手に取ったエリサに、低い声が淡々と告げた。
「古い書物なので、文字の解読に時間がかかる。貴方様には古語の勉強にもなるでしょう。これらを読んで、血の病に効能のある薬草を探し——」
言葉を続けつつ、木箱の中から分厚い紙束を取り出してエリサに示す。丈夫な紐で綴じられた紙には植物の絵と細かい文字がびっしりと書き込まれている。この施設で育てている植物の一覧のようだった。
「——こちらの一覧に記載のないものがあれば栞を挟んでください。全ての確認が終わったら、私まで戻していただけますか」
エリサは目を丸くしてエクシオスロを見上げた。紫竜はにこりともしない。近寄り難い雰囲気は主君にそっくりだ。
「当然ですが、ご自分の学業をご優先なさいますように」
「ええ……ええ、ありがとう!」
エリサは笑顔になり、紙束を大切そうに抱き締める。
「ありがとうございます」
ルディオも礼を言うと、エクシオスロの眉間に僅かに皺が寄った。早速紙束を繰り始めたエリサに聞こえない程度に声を落とし、地鳴りのように唸る。
「諫言もお前の仕事だ。何故ここへお連れした」
「……申し訳ありません」
エリサの申し出は突っ撥ねられるだろうと予想はついていた。しかし、母のために何かしたいという切実な思いを、何も行動に移させないまま封じ込めることがどうしてもできなかった。
「陛下やマーチェル様のお役に立ちたいと強くお望みでしたので……何かできることが見つかればと」
「主君の望みであろうと斥けるべき時もある。二度とあの方を煩わせるな」
釘を刺すなり、エクシオスロは返事も待たず去っていく。向かう先には、満開の花に囲まれながら薬師たちと言葉を交わすマーチェルが見える。エリサに仕事を与えてくれたのは気遣いではなく、あくまでマーチェルのためなのだろう。
「何を話していたの?」
エリサが無邪気に訊ねてくる。大したことじゃないと言葉を濁し、ルディオはエリサの手を引いて足早に温室を後にした。
それから毎夜、エリサは預かった本を読みふけるようになった。
女王の容態は一向に快復せず、代理の政務と薬の開発に追われるマーチェルは目に見えて痩せていった。エリサはといえば自由時間は殆ど自室に籠りきりである。食べることが大好きだったはずが、今はただ栄養を補給することだけが目的かのように、自室に運んでもらった料理を流し込んでは延々と本に齧りついている。
ルディオも、エリサと机を挟んで本の頁を捲る時間が日に日に増えてきていた。しかしエリサの体調が気になって、いつも本の内容に集中できない。あまりに張り詰めすぎて、いつ限界がきて倒れてしまうか分からず心配なのだ。毎晩、燭台の蝋燭があと僅かの短さになると、無理やりに説得して寝台に入らせていた。今日もそろそろ刻限である。
「エリサ」
蝋燭の灯が揺れる仄暗い部屋で、向かいに座るエリサに声をかける。毎夜のことだ。さすがに察してくれるはずと思ったが、エリサは俯いたまま本から顔を上げない。
「そろそろ休もう。火を消していいか」
反応がない。不安になり、様子を窺おうと立ち上がると、開いた本の上に雫が落ちるのが見えた。
「……どうして」
エリサは両手で顔を覆い、か細い涙声を漏らす。
「どうしてわたしはこんなに役立たずなの。お姉様はあんなにも力を尽くしていらっしゃるのに……どうしてわたしは何もできないの」
ルディオは肩を震わせ嗚咽する少女の背を、そっと撫でさする。幼い身でできることに限りがあるのは当然のことだと、エリサ以外の誰もが分かっているのに、肝心のエリサ自身がそれを赦そうとしない。なんと言えば慰めることができるのか、人の言葉を得てまだ年数の浅いルディオには分からない。無力なのは自分の方だと、時折叫び出したいほど苦しくなる。
「魔法が、使えたらよかったのに」
泣き声を殺そうとしながら、エリサがぽつりと零した。その言葉だけは言わせたくなかった。肩を摑み、顔を覗き込むようにして目を合わせる。
「頼まれたことを毎日こんなにやっていて、何もできないなんて言うな。それに万が一お前が身体を壊したら、皆が陛下の治療に専念できなくなってしまうだろ。お前が元気でいることが陛下の支えにもなる。だから自分を大事にしてくれ」
少しは伝わったのだろうか、エリサは涙を拭い、気丈に唇を引き結んだ。
「ほら。もう寝る時間だ」
本に添えられた小さな手を、片手でそっと包む。やや間があったが、エリサが指を握り返してきた。安堵したのも束の間、立ち上がりかけたエリサが動きを止める。見ればいつになく真剣な眼差しで、開いた本の頁を凝視していた。
「ねえ」
「どうした」
うっすらと嫌な予感がする。エリサは本へかじりつくように椅子に座り直した。
「この花……見たことのない花だわ」
開いた頁をルディオに示し、今とは少し形の異なる古い文字を丁寧に読み進める。
「大陸北部に自生し……煎じて飲めば血の病を癒す……」
勢いよくこちらを見上げた潤んだ目には、強い光が宿っていた。
「他の国になら、薬があるのかも……お母様を治してさしあげられるのかも」
「待て」
次に発されるであろう言葉が手に取るように分かり、ルディオは思わず声を張った。
「それは絶対に駄目だ。氷壁を越えることは禁じられてる」
「お母様より大事な掟なんてない!」
自分が出した以上の声量で言い返され、言葉に詰まる。エリサは赤くなった眼で真っ直ぐにルディオを射ながら、ゆっくりと立ち上がった。窓辺へ歩み寄り、カーテンを開く。街の灯りは殆ど消え、闇の中に浮かぶ雲の切れ間には星が瞬いていた。星々は氷壁の存在など感じさせず、果てしない闇の中をどこまでも広がっている。あの空の続く先に知らない国がある。
「今ならきっと、誰にも見つからない」
「皆に要らない心配をかける。それにお前も俺も、外のことを何も知らないんだぞ。危険すぎる」
「お母様を助けられるかもしれないならなんだってするわ。どんな罰を受けたっていい」
エリサは窓の鍵に手を掛けた。大窓がゆっくりと開いていく。ルディオはよろめくように数歩退いた。主従契約の魔法とは厄介なもので、主君の心からの願いには反射的に体が従ってしまう、ということがしばしば起こる。強い意志を持てば背くこともできるというが、エリサを甘やかしてしまいがちなルディオは命令に逆らうことが心底苦手であった。昼間エクシオスロに言われたことが脳裏を過る。決してここから動くまい、と固く心に誓う。
「エリサ、諦めろ。俺は反対だし、何を言われようと意見を変えるつもりはない」
「あなたは来てくれるわ」
エリサは振り向くことなく大股で露台へ踏み出す。——何をしようとしているのかを理解した瞬間、ルディオは床を蹴り、一跳びで露台へ飛び出した。
「やめろ!」
伸ばした手を擦り抜け、エリサは宙へ身を躍らせた。
考える間もなく後を追う。無我夢中で竜の姿へと戻り、翼を広げて、落ちてゆく身体を掬い上げた。さすがに肝が冷え、ルディオは放心して、冷たい夜気の中をゆっくりと上昇する。エリサが荒い息の下で微かに笑うのが聞こえた。
「絶対に来てくれるって分かってた」
叱りつけたい衝動に駆られ、思わず低く唸る。怒りが伝わったのか、ごめんなさいと神妙に頭を下げる気配がした。しかし続いて発された声には強く揺るがない意志が籠っていた。
「お願い、連れて行って――王国の外へ!」
否応なしに翼が動き出す。ルディオは諦めて肚を括った。何が起ころうとも自分が全力で守れば良いだけだ。瞬く間に城は小さくなり、やがて聳え立つ氷壁が迫ってくる。
——我々を守るため、始祖様は命を懸けて安住の地を作ってくださった。その恩に報いるため我ら竜族は王家にお仕えし、生涯お守りすることを誓ったのだ。
城へ来たばかりの頃に教えてくれたファルジアラの声を思い出しながら、ルディオは胸騒ぎを覚えていた。
氷壁は、千年の昔、戦から逃れるために始祖が作ったと言い伝えられている。だが竜を従える以上、この国がそうやすやすと他国に脅かされるとは思えない。病を癒す薬草などの豊かな資源が国の外で手に入るならばなおのこと、頑なに鎖国を続けているのは何故なのか。越えようと思えばこんなにも呆気なく——越えられる壁だというのに。
氷壁が眼下を過ぎていく。エリサの鼓動が早鐘を打つのが伝わってくる。少し進むと海の向こうに陸地が見えた。真夜中だというのに、湾岸にはたくさんの明かりが灯っている。星の光を掻き消すほどの眩さだ。
「わあ……」
背中から溜息交じりの歓声が聞こえる。初めて見る景色、初めての濃厚な潮の匂いに、ルディオも興奮していることを認めざるを得なかった。
街を過ぎ、村を過ぎ、鬱蒼とした森の上空を旋回しながら徐々に高度を下げる。森の中に拓けた野を見つけ、下降して柔らかな草の上へと着地した。
異国へ、来てしまった。




