三.王女と青竜(3)
庭園では雪冠花の蕾が綻び始めていた。
大きさも形も王冠によく似た白い花は王国の国章にも象られ、春を告げる花として国中で愛されている。エリサもこの花が大好きで、毎年冬の終わりが近づくと開花を待ちわびて毎日のように庭へ出ていた。ルディオは残雪を踏みしめながら、美しく刈り込まれた低木の生垣へ近づいていく。枝葉の間から赤い髪紐が揺れるのが見えた。
「エリサ」
返事はない。生垣の裏手へ回り込むと、雪の上に膝を抱えて小さく蹲るエリサがいた。顔は伏せられ、髪がすっかり乱れて宝冠は傾いている。ルディオは少女の傍らに膝を突いた。啜り泣く声が微かに聞こえてくる。
「エリサ、あのな」
声をかけたはいいが、すぐに言葉に詰まる。魔法が使えようとそうでなかろうとルディオにとって、そして恐らくは他の誰にとっても、エリサが大切な存在であることに全く変わりはない。そう伝えたいが、不用意に話し出せば余計に傷を抉ってしまいそうで躊躇う。言葉に迷っているうちに、エリサが掠れ声を零した。
「ルディオ」
「うん?」
「ごめんなさい」
思いもしていなかった謝罪に動揺し、咄嗟に反応できない。
「恥ずかしい思いをさせてごめんなさい。……きらいにならないで」
「やめろ」
躊躇いが一瞬で弾け飛んだ。髪を掻き上げて顔を上げさせ、小さな体を抱き締めた。堰を切ったように嗚咽が溢れる。宝冠が滑り落ちて雪の上に転がった。
「そんなふうに言うな。魔力がないのは悪いことでもおかしいことでもない。オムル殿も言っていただろ」
「でも……お母様もお姉様も、きっとがっかりなさったわ」
エリサは肩を震わせ、ルディオの胸に額を押しつけてしゃくり上げる。
「あの場にいたみんな、わたしが本当は……本当は、始祖の血を引いてなんかいないんだろうって、お母様の娘じゃないんだって、きっと思ってたわ」
あの心無い言葉たちが耳に入っていたのかと思うと腸が煮えくり返る。
「そんなわけがない」
強く言い切り、背を摩りながら、落ち着かせるように声を低めて語りかける。
「お前が産まれたとき、俺はまだ城にいなかったけどな、ファルジアラや陛下ご自身からも何度も聞いた。難産だったけれど赤ん坊のお前はすごく健康で、元気に泣いていたって」
赤ん坊の自分を想像したのか、エリサが涙混じりに微笑する。ルディオは初めて人の心を得た日のことを——眩いばかりの朝陽に照らされながら、柔らかな布に包まれて眠る赤子の姿を思い返す。褪せることのない記憶の中で、女王はいつもエリサを大切に、守るように抱いている。魔力の有無も、血の繋がりすら関係なく、あの光景を見ればどんな疑念も抱く余地がない。
「間違いなく陛下の御子だ。それにお前がどんな力を持っていようと……何も持っていなくても、そんなことでお前を大事に思う人たちの気持ちは変わらない。陛下も、姉君も、城の皆も国民も、もちろん俺も」
「本当に?」
「ああ。それにお前はこれから大きくなるんだ、今よりもっといろんなことをできるようになる」
「魔法が使えなくても?」
「そうだ」
微かな震えと熱いほどの体温が伝わってくる。頭をそっと撫でると、赤い髪紐が緩やかにほどけて落ちた。結び直そうと拾い上げたルディオの手に、エリサが触れる。
「……もし、」
エリサは顔を上げ、潤んだ目でこちらを見た。ルディオの手の甲に重なった指先に力が籠る。
「これから先、何をがんばってもだめで、なんの役にも立てなくて、みんなにきらわれることになっても……ルディオだけは味方でいて。ずっと傍にいて」
そんなことにはならないから安心しろ。――そう言おうとしてやめた。今本当に伝えたいことは別にある。
「約束する」
手を握り返し、目を合わせてはっきりと応えた。エリサの心の最奥まで届くようにと願った。
「これから先、何があっても、俺は必ずお前の傍にいる。ずっとだ」
エリサはぐしゃぐしゃの顔で頷いた。瞬きの弾みで溢れた涙を最後に、空いた片手で強く頬を拭う。握った手に一度ぎゅっと力を籠めて、ゆっくりと解きながら、ルディオの手から髪紐を取った。
「自分で、やってみるわ」
乱れた髪に手櫛を入れ、不器用な手つきで髪を結おうとする。
「いろんなことに、挑戦しないと」
「そうだな」
肯定しながらも予想外に寂しさが湧いて苦笑する。いつかルディオの手を必要としなくなってしまうことが、今はまだ嫌だと感じてしまう。未熟なのは自分も同じだ。
「少しずつできることを増やしていこう。俺も見習う」
試行錯誤しつつなんとか一人で髪を結ったエリサは目許を擦って立ち上がった。幾つものほつれがあり、左右の均整もとれていなかったが、手直しを申し出ることはせずにルディオも腰を上げた。ドレスについた雪を丁寧に払い、宝冠を拾う。
微かに雪を踏む音がした。顔を上げると、入り組んだ木々の向こう、庭園の入口に女王が一人で立っているのが見えた。
「陛下」
エリサが弾かれたように振り返る。片膝を突こうとするルディオを制止し、女王は傍まで歩み寄ってきた。
「おめでとう、エリサ。大儀でしたね」
「……ありがとう、ございます」
エリサは硬い口調で礼を述べた。失望の言葉を投げかけられることを恐れているのだと傍目にも分かる。女王は娘の態度に気づいているのかいないのか、柔らかな表情で庭園を見回した。
「この庭はいつ見ても美しいわね。貴方もここが好きでしょう」
「はい」
「今日身支度をしてくれたのは、ルディオとメイね。ドレスも髪も、とてもよく似合っていた」
「本当ですか?」
エリサはぱっと顔を明るくする。女王は微笑んで頷き、城を振り返った。
「今夜は祝宴がある。厨房の皆は、貴方の好物ばかり用意してくれている」
脈絡のない話ばかりだ。意図を測りかねたのだろうエリサが小首を傾げると、女王は娘の肩に手を触れ、ドレスの裾が濡れることも厭わずに屈んで視線の高さを合わせた。
「食事も、衣服も、この庭も、魔法でできているのではないわ。ルディオもメイも、貴方の支度を整えるのに魔法を使ってはいないでしょう。魔法では叶わない大切な仕事がたくさんあって、そのどれもが、人の手で行われている。そうして国が成り立っているの」
エリサは目を見開いて母を見つめた。やがて自分のドレスに視線を落とし、ゆっくりと城を仰ぎ、次いで庭園と、その向こうに遠く見える街を見渡す。湿った頬を降り注ぐ陽光が照らし、ルディオはようやくエリサの肩から力が抜けていくのが分かった。
「貴方には貴方のできることが——やるべきことがある」
穏やかな声にほんの一瞬、張り詰めた芯が通るのを感じてルディオは眉をひそめる。「やるべきこと」は恐らく女王の中で明確に定まっている、そう感じる声色だった。式典で見せた女王らしからぬ表情と何か関係があるのではと、胸の片隅が僅かに曇る。
「いつか話すわ」
まるでルディオの内心を見抜いたかのように囁き、女王はエリサのほつれだらけの髪を撫でた。
「そのときはどうか、頼りにさせてね」
「はい!」
ルディオの疑念をよそに、エリサは晴れやかな笑顔になった。あっという間に不安を取り除いてしまった。母には到底敵わないと思い知らされる。
「ルディオ」
女王が立ち上がりこちらを見た。何を言われるかと身を硬くしたルディオに温かい笑みが向けられる。
「エリサをいつもありがとう。これから先もどうかよろしく頼みます」
凛とした声が胸の曇りを拭い去っていく。いつか話してくれるというのなら、その時を待とうと素直に思えた。ルディオは跪いて礼をする。
「勿体ないお言葉です」
女王は目を細め、娘に視線を戻した。
「祝宴の始まりには、皆に挨拶を」
「はい」
頷いたエリサに笑顔で頷き返し、ドレスの裾を捌いて踵を返す。供を連れずとも威厳は少しも損なわれず、後ろ姿にさえ侵しがたい気品が溢れている。その背中を見送りながら、エリサがそっと肩にもたれかかってきた。
「いつか、お母様みたいにわたしもなれるのかしら」
「きっと、そう遠くないうちに」
ルディオは立ち上がりざまエリサを高く抱き上げた。小さく上がった悲鳴はすぐに笑い声に変わる。
「この間まであんなに小さかったんだからな」
「もっと大きくなりたいわ。早く大人になりたい」
焦らなくていい。そう口にすることはせずただ小さな主君を抱き締める。それから城へ戻るまでの間、二人は手を繋いだままでいた。
空が黄金色に染まる頃、城内や街には明かりが灯り出す。そろそろ宴の刻だ。衣装を着替え、鏡と櫛を使って髪をきちんと結い直して、エリサは広間に入った。女王の席の傍まで歩み出て、参列者を見渡す。
「式典では、勝手に出て行ってしまって、申し訳ありませんでした」
膝を曲げて深々と頭を下げる。ゆっくりと顔を上げて姿勢を正した。
「わたし、魔力がなくてもこの国の役に立てるように、これから頑張ります」
しんと場が静まった。やがて誰ともなしに拍手が起きる。拍手の波は一気に広がり、広間中に響き渡った。
「万歳!」
「万歳! 万歳!」
エリサが安堵の笑みを浮かべ、さりげなく目尻を拭うのが見えた。無礼な発言があれば今度こそ見逃すまいとルディオは目を光らせたが、今は誰もが王女を温かく見守っていた。
祝宴が始まる。エリサは絶え間なく挨拶に来る賓客たちと笑顔で言葉を交わしていたが、時が経ち、広間のあちらこちらで談笑の輪ができると、ルディオの手を引いてこっそりと中庭へ出た。外はすっかり暗く、火の入ったランプがところどころに吊られて温かい光を放っている。エリサは庭の隅にある白い石造りの小さな四阿に入り、長椅子に腰を下ろして深く息をついた。
「ちょっと疲れちゃったわ。わたし、上手くお話できてた?」
「ああ、立派にやれていた」
「まだ全然食べられてないの。何か持って来ようかしら」
「そうだろうと思って、頼んである」
「え?」
エリサが首を傾げると同時に、給仕が銀の盆を手にして近づいてくるのが見えた。全ての料理を少しずつ盛った皿と、温かい茶が載っている。エリサが一人になれたら持ってきてほしいとルディオが頼んでいたものだ。エリサは目を輝かせて給仕に礼を言い、早速ナイフとフォークを手に取って、脂の乗った鮭の香草焼きを豪快な大きさに切り始めた。一口大どころかもはや切り身の半分以上ある。
「いくら空腹だからってお前、もう少し小さく切った方が」
「こっちはルディオの分よ」
「え」
「あなたもあまり食べられてないでしょ? 一緒に食べましょう」
驚いてエリサを見る。どちらからともなく微笑みを交わす。
「ありがとう」
「お礼を言うのはわたしの方。今日は本当にありがとう、ルディオ」
冴えた夜気の中、湯気の立つ料理を分け合って食べた。帆立貝のスープ、バターソースのかかったジャガイモ、チーズを乗せたパン、羊の煮込み、林檎や野菜を詰めた雪鶉の丸焼き。普段はなかなか食べることのない豪勢な料理の数々をエリサは夢中で頬張る。デザートにはエリサの大好物の桃苺のパイまでついていた。
「お母様のおっしゃったとおり、好きなものばかりだったわ! すっごくおいしかった」
食後の茶まで堪能し、器が全て空になると、エリサは満足の溜息をついて背もたれに寄りかかった。天には煌々と満月が輝き、銀の光を浴びた木々の影が雪上に美しい模様を描いている。風は静かで、温かい茶のお陰もあってか不思議と寒さを感じない。
「このおいしいお料理もお菓子も、魔法なしで作っているんだものね……」
「そうだな。練習すれば、お前も作れるようになるかもしれない」
「素敵ね! 自分で作れるようになれば、好きなときに好きなだけ食べ放題なんじゃない?」
食費や食材の旬の問題もある、とルディオは思ったが、エリサがあまりにも嬉しそうに想像しているので水を差すのはやめておいた。弾んだ声で語る横顔を満ち足りた気持ちで見守る。
「作り方を聞いてみたいわ。明日、厨房の見学に行ってもいいかしら」
「いい考えだとは思うが、仕事の邪魔になるといけないから調整が必要だな。それから、魔法の修行はないとしても新しく始まる授業は山ほどあるからさぼらないこと」
「分かってるわ。勉強だってちゃんと頑張る」
拗ねてそっぽを向いたと思いきや、急に神妙な顔つきになり、エリサは窺うようにこちらを見る。
「ねえ」
「どうした」
「昼間は、自分でいろいろ挑戦してみるって言ったし、その通りにしたいとは思っているんだけれど」
そこまで言って何やら口ごもったが、思い切ったようにルディオの正面へ向き直り、照れ臭そうに微笑んだ。
「ルディオに髪を結ってもらうの、本当は大好きなの。だからこれからもたまには手伝ってね」
形容しがたい温かな感情で胸が満たされ、すぐには言葉を返せずにルディオは深い溜息をつく。不安そうに顔を曇らせたエリサに心からの笑みを返し、胸に片手を添える正式な礼をした。
「いくらでも、仰せのままに」
目を瞠ったエリサはすぐに弾けるような笑顔になる。魔法など使えなくて良い、と心から思う。主君を護り、その手足となり、最も近い場所で笑顔を見るのが守護竜の喜びだ。頼りにされていたい、どんな我儘も叶えてやりたいと思うのに、人間の成長はあまりにも早い。
女王が急な病に倒れたのは、それから半年後のことだった。




