二.王女と青竜(2)
精緻な彫刻の施された重い扉が開かれる。
視界が開け、荘厳な音楽が鳴り出す。太い柱の並び立つ広間の最奥、十段ほどの短い階の上に、玉座に座る女王と傍に控えるファルジアラが見えた。玉座へ真っ直ぐに続く赤い絨毯の脇には、楽隊の他に大臣や騎士や、国中の領主たちが整列している。列の端には女王によく似た面差しの若い女性と、長い黒髪に隻眼の男――第一王女マーチェルと守護竜エクシオスロの姿もあった。
エリサは全員の視線を集めながら、メイに言われた通りしっかりと背筋を伸ばし、絨毯の上を進む。ルディオは主君に従いその斜め後方を歩く。途中、ドレスの裾を踏んで躓きかけた小さな身体をさりげなく支える。あまりにも自然な動きで支えられたので恐らく誰にも気づかれていないだろう。
「絶対にやると思った」
「こんなに裾の長い服着たことないんだもの」
囁き声を交わしながら歩を進める。階の前でルディオは立ち止まり、エリサの手を軽く支えて送り出す。エリサは階を一人で上っていくと、玉座の手前で深く膝を曲げて礼をした。女王が立ち上がる。楽の音が緩やかに止む。
「第二王女エリサ」
穏やかながら良く通る声が広間に響く。
「始祖オリヴェルダ初陣の歳を迎えたことを祝し、ここに騎竜及び魔導の許可を与えます」
玉座の傍に控えていたファルジアラが進み出た。恭しく女王に差し出した両手の上には輝く宝冠がある。女王は宝冠を受け取り、エリサの頭上へゆっくりと載せた。
割れんばかりの拍手が鳴り響いた。しかし感慨に浸るのはまだ早い。宝冠を戴いたエリサが立ち上がると同時に、広間の側面、露台へと続く巨大な硝子扉が開かれる。陽光と冷たい風が部屋を満たす。
階を下りて露台へ進むエリサに続き、ルディオも露台へ出た。晴れ渡る空の下には残雪に覆われた庭園が広がり、城壁の向こうの街には色とりどりの天幕が並んでいる。王女の誕生日を祝う祭が開かれているのだ。
「第二王女付き守護竜は前へ」
女王の声に従い、ルディオは露台の中央まで進み出て人化の術を解く。翼を広げて伏せると、風除布を羽織ったエリサが身体をよじ上ってくる。しっかりと首の付け根へ跨ったのを確認してから、ルディオは翼を羽撃かせ、一気に舞い上がった。
背後で歓声が上がる。城が眼下へ遠ざかっていく。ルディオはエリサの身体が均衡を崩さないよう慎重に、ゆったりとした速度で街の上空を飛ぶ。賑わう祝祭の様子が見えた。石畳に差す影に気づいた人々が次々に空を見上げて笑顔になる。
「姫様だ」
「エリサ様!」
「お誕生日おめでとうございます!」
広場を走り回っていた子どもたちも足を止め、元気に手を振ってくれる。エリサが大きく手を振り返す気配がする。徐々に高度を上げ、王国の全貌が一望できる高みまで来ると、巨大な氷壁が海と陸の境界をぐるりと巡り、国土を囲っているのがよく見えた。
「壁の外には、どんな国があるのかしら……」
呟いたエリサを諭すように唸ると、大丈夫よ、と笑う。
「外に行ってみたい気持ちはあるけれど、それよりこの国が大事だもの」
氷壁を越えることは固く禁じられている。戦を嫌い、この国と平和を何より愛した始祖が定めた掟だ。好奇心旺盛なエリサも、民を守るための決まりだと理解している。
「きれいね」
エリサが深く息を吐く。煌めく海と、その深い青に囲まれた純白の島。竜谷を囲む雄大な山や湖だけでなく、美しい王城や温かみのある木造の街並み、生き生きとした人々の姿も、ルディオにとってもはや自分の一部と言っていい光景だった。守護竜に選ばれなければ見ることのなかった景色だと考えるとなおのこと大切に思える。
「ルディオ、あのね」
エリサが上体を倒し、耳元で囁いてきた。
「わたしやっぱり、お腹いっぱいにならない魔法より、みんなの役に立てる魔法が使えるようになりたい。それでね、お母様やお姉様や、城のみんなや国のみんなのことを、いっぱい幸せにするの」
頭上から零れる明るい声がふと途切れ、熱い手がルディオの額に触れた。
「もちろん、あなたのことも!」
今、顔が見られないことが残念でならない。ルディオは応えるように咆哮して翼を羽撃かせ、もう一度ゆったりと街の上を旋回してから城への帰途についた。
露台へ降り立つと、万雷の拍手が迎えてくれた。
エリサが背から下りる。息遣いや脈拍から高揚が伝わってくる。たった今の飛行のせいもあるだろうが、この後に待つ魔法解禁の儀式が何より楽しみなのだろう。
屋内へ戻ると、儀式の準備は既に済んでいた。広間の中央には大きな水盤の載った台座が置かれ、その脇で小柄な禿頭の老人が待っている。エリサは女王の指示があるよりも早く速足で水盤の前へ進み出、老人と礼を交わす。
「エリサ様、十歳のお誕生日誠におめでとうございます」
老人――王室付き魔法学者、オムル・フォルスクは微かな笑みを浮かべ、嗄れ声で祝辞を述べた。彼自身は魔導使ではないものの、魔法についてはこの国の誰より造詣が深い。厳格で無愛想な男だが、今日は喜色も露わなエリサにつられてか、心なしか表情が柔らかかった。
「ありがとう、オムル。よろしくお願いします」
「随分と楽しみにされていたようですな。では始めましょうか」
オムルは玉座の女王へ一礼し、エリサへと向き直って水盤を指し示す。ルディオは参列者たちに交ざって少し離れた場所で様子を見守った。水盤には赤い半透明の液体が湛えられ、小さな白い花弁が一枚浮かんでいる。盤の縁には複雑な文字が彫られており、底には銀色の、砂に似た細かな粒子が敷かれていた。
「肩の力を抜いて、水上に手を翳してください」
オムルが指示を出す。
「目を閉じて、息は止めずに。そうして、魔法を使うご自分をご想像ください。魔法を使って何を得たいか、何をしたいのか……強くご想像なさるよう」
エリサは瞼を閉じ、じっと手を翳して、深呼吸を続ける。ルディオは固唾を吞んでエリサの横顔を見守った。傍目にはなんの変化もないように見える。オムルには何か伝わっているのだろうか。
「……エリサ様」
随分と長い間エリサと水盤を交互に観察していたオムルが、眉根に皺を寄せ、ようやく口を開いた。
「目をお開けください」
期待に満ちた目を向けるエリサの方を見ることなく、オムルは水盤に視線を落とし、僅かに躊躇しながらも告げる。
「貴方様は——魔力をお持ちでないようです」
広間が水を打ったようになった。
「……え」
エリサはゆっくりと瞬きをし、困惑混じりの笑みを浮かべる。
「どういう……こと?」
「そのままの意味です」
オムルは深く息を吐いてエリサを真っ直ぐに見据え、今度こそはっきりと告げた。
「貴方様には、魔力がない。魔法をお使いにはなれません。努力の有無には関係なく、これから先も」
エリサの顔から笑みが消えた。脚から力が抜けたようによろめき、数歩退く。
「何もおかしなことではございません。魔力を持たない人間の方が遥かに多いのですから」
オムルの言葉は落ち着いて優しかったが、彼には珍しい気遣いのこもった声がより一層、結果の残酷さを突きつけてくるようでもあった。
王家の方が、魔力を持たないとは。
――静寂の中、参列者の誰かが囁く声がした。それを皮切りに、水面に石が落とされたかのように、ざわめきの波紋は広がっていく。
何かの間違いではないのか。不吉の前兆ではないか。
本当に始祖の血を引く御子なのか?
普段なら決して聞き流しはしない無遠慮な言葉もまともに耳に入らない。主のもとへ駆け寄りたい衝動を必死で抑えながら、ルディオは気の遠くなるような思いで式典の終わりを待つ。
「わたし……」
エリサは縋るように玉座を見上げる。ルディオも主の視線の方を見た。女王は大きく目を見開いてこちらを見下ろしていたが、その視線はエリサに向けられておらず、呆然と虚空を漂っていた。
常に毅然とした態度を崩さない女王の放心した姿を見るのは初めてのことだった。エリサの顔が今にも泣き出しそうに歪む。女王は一瞬後には普段通りの穏やかな威厳に満ちた表情に戻り、徐に立ち上がる。
「オムル、御苦労でした。これにて式典は終了です」
その言葉と同時にエリサは弾かれたように身を翻し、玉座の間を飛び出した。ルディオは女王に伺いを立てることも忘れ、反射的にエリサの後を追った。




