一.王女と青竜(1)
隣室の微かな足音で目が覚めた。ルディオは寝台の上でうっすらと片目を開く。カーテンの隙間から朝陽が射し、簡素な小部屋の床に光の筋を作っていた。隣室に繋がる扉がそっと開く気配がして、足音を立てないよう慎重に、小さな影が忍び込んでくる。寝たふりを続けようかと迷ったが、結局口を開いた。
「エリサ」
影が肩を跳ね上げた。ルディオは瞼を開く。照れ臭そうな笑みを浮かべた少女が歩み寄ってくる。オリヴェルダ王国第二王女エリサ——ルディオの仕える主君だ。
「おはよう」
「おはよう! びっくりさせようと思ったのに」
「そりゃ無理だ」
竜の五感を欺いて傍へ寄れる生き物など存在しないだろう。身体を起こして寝台に腰掛けると、エリサも飛び乗るように隣に腰を下ろした。
「今朝は早いな」
「よく眠れなかったの。だって……」
言葉尻を濁したかと思いきや、満面の笑みでルディオを見つめる。
「ねえ、今日は何の日か覚えてる?」
当然だ。どのように伝えるべきか迷ったが、飾らず率直に言おうと決め、少女を見つめ返して口を開く。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう!」
勢いよく立ち上がったエリサは麗糸に縁取られた寝間着の裾を翻し、ルディオの手を引いて踊るように窓辺へ近寄ると、背伸びをしてカーテンを開いた。小部屋が光で満たされる。窓の外には久方ぶりの青空が広がり、まだ雪の残る中庭は白銀に輝いていた。
「とってもいい天気だし、式典はきんちょうするけれど、今日はすごくいい日になりそう」
こちらを見上げ、幼い主は上気した顔で微笑んだ。浮き立った様子がたまらなく愛おしく、ルディオは少女を抱き上げ、高く支えたままでくるくると回ってみせる。軽やかな笑い声が響く。
「懐かしいわ、『竜ごっこ』」
「俺にとってはついこの間だ」
いつの間にか随分大きくなった。初めて抱き上げたときの体の重みさえ、昨日のことのように思い出せるというのに。
今日、エリサは十歳の誕生日を迎えた。
オリヴェルダ王国王家において十歳は一つの節目だ。付き添いなしでの騎竜が許されるようになり、魔法の修行も解禁される。エリサは何か月も前からこの日を待ちわびていた。
「どんな魔法が使えるようになるかしら」
「どういうのがいいんだ」
エリサの自室の小さなテーブルに向かい合って朝食をとる。湯気の立つ魚介のスープを飲みながらエリサは目を輝かせた。
「どれだけ食べてもお腹いっぱいにならない魔法!」
「そんな魔法は多分ない」
「じゃあ、おいしいお菓子を作れる魔法とか……あ、どんな花でもすぐに咲かせる魔法なんてどうかしら。一年中お花見ができるし、薬を作るのにも役に立ちそう。あとは、うーん、歌が上手に歌える魔法とか!」
自分の好きなものに関わる想像上の魔法を次々に並べ立てる。無邪気な発想を微笑ましく思いながら、切り分けたパンに山羊のバターと桃苺のジャムを半分ずつ塗って手渡す。エリサは一気に口に詰め込んで表情を緩めた。
「おいひいパンがやけるまほうもいいはも」
「飲み込んでから話せ」
好物を口いっぱいに頬張る癖は昔から変わらない。行儀が良いとは言えないが、ルディオにとってはずっとなくならないでいてほしい癖だった。パンを食べ終えたエリサは満面の笑みでこちらを見る。
「始祖様は、わたしくらいの頃にはもう戦場に出られるくらい強い魔法を使えたんでしょう?」
「始祖は特別だ。そもそもこの国じゃ戦に出る必要もないだろ」
「そうね」
エリサは大窓の外へ目をやる。ルディオもつられて外を見た。街を越え野を越えた先の遥か彼方、透き通った巨大な壁が聳え立ち、陽光を受けて輝いている。壁は一切途切れることなく、陸と海とを隔ててどこまでも続いていた。
氷壁である。
自然にできたものではない。強力な魔法の気配に包まれており、溶けることも砕けることもない。その成り立ちは、守護竜となったばかりの頃に、女王の守護竜ファルジアラから教わった。
千年の昔——竜が大陸を支配していた時代、人々は住みよい土地を求めて長きにわたり竜と戦い続けていた。王国の始祖・オリヴェルダは、並外れた魔力を持った魔導使として戦に駆り出されていたという。
しかし、戦を嫌った始祖は竜たちを諭して、同じく平和を望む数少ない人々とともに北の孤島へと逃れた。そして強大な魔力をもって、氷雪に鎖された不毛の地を緑豊かに変え、二度と戦火に脅かされることがないようにと巨大な氷壁で島を囲ったのだ。竜たちは安住の地を与えてもらった恩を返すため、女王となった始祖と主従の契約を結んだ。王家に子が生まれると、選ばれた一頭の竜が人化の術を与えられ、生涯を通して傍で守る――こうして『守護竜』制度は建国当時から続いてきた。
「人と戦うような魔法はいらないわ。幸せな気持ちになれる魔法の方がずっといい」
窓の外を見つめながら呟いたエリサはテーブルへと向き直り、スープの器を手にして一気に飲み干した。叱るべきところかもしれないが、おいしそうに食事をする様子を見ているのが好きで、人前でなければ良いかと思ってしまう。エリサは満足げに一息をつき、ナプキンで口許を拭う。
「お腹いっぱいにならない魔法があったらいいのに」
「可能性がないわけではないけどな」
「魔法が使えるようになったら、ルディオがいちばんに見てね」
「もちろん」
王家の者には代々魔力が備わっているが、得手不得手はそれぞれ違っている。エリサはどんな魔法を体得するのかと、ルディオも以前から楽しみに思っていた。
朝食を済ませた後は、式典の準備に取り掛かる。エリサを鏡台の前に座らせて、普段はしない化粧を薄く施し、豊かな茶髪を梳り、丁寧に編み込んでいく。五年前、第一王女マーチェルの十歳の式典の際は、化粧や髪の結い方など何も分からずにエリサの身支度は全て侍女に任せてしまった。しかしそれから少しずつやり方を学んで、今では身の回りのことは大概できるようになっている。
「できたぞ」
まとめた髪をエリサのお気に入りの赤い髪紐で留め、手鏡に映して見せる。エリサは顔の角度を変えながらまじまじと鏡を見つめ、笑顔になる。
「こんなにおしゃれしたの初めてね」
「特別な日だからな。ドレスも新調した」
衣装棚から式典用の裾の長い白いドレスを取り出し、エリサに着せていく。背中の編み上げ紐を締めつつ、苦しくないかと様子を伺うと、エリサは目を丸くして鏡の中の自分を見ていた。
「なんだか大人になったみたい」
客観的に見ればまだまだ子どもだが、ルディオにとっては深く共感できる言葉だった。
「そうだな。あっという間に大きくなった」
鏡越しに視線を合わせて微笑み合う。紐を結い終わったところで、見計らったように部屋の扉が叩かれた。どうぞとエリサが応え、扉が開く。
「おはようございます」
丁寧な礼をして入ってきたのは恰幅のよい中年の女性――エリサ付きの侍女、メイだった。女性の身支度の仕方をルディオに教えてくれた本人である。不手際がないか見に来てくれたのだろう。ルディオは僅かに緊張しながら数歩退がり、メイの確認を待つ。
「まあエリサ様、とっても素敵ですわ」
メイは目を瞠って微笑み、鏡の前まで来ると、エリサの肩に触れて少し姿勢を正す。
「式典中は、背筋を伸ばして、胸を張って、目線を上げていること。一番素敵なお姿を皆様に見せて差し上げてくださいね」
「分かったわ」
言われた通り胸を張って頷いたエリサの顔周りや衣装をメイはざっと眺め、ルディオに笑顔を向けた。
「ルディオ殿には、もう私から教えられることは何もなさそうですね」
「本当ですか」
何よりの賛辞だ。胸を撫で下ろしたところへ、でも、とわざとらしく厳しさを装った声がかかる。
「大切なお役目がおありなのですから……ご自分のお支度もなさってくださいね」
言われて自らを省みると、寝間着のままで髪も整えていない。エリサの身支度のことで頭がいっぱいで、自分のことなどまるで考えていなかった。
「すみません、急ぎます」
エリサの部屋と扉一枚隔てた自室へ、慌てて向かう。エリサとメイが笑い合う声が聞こえてきた。




