序章
朝陽の照らす森の中、雪に覆われた山道を三頭の独角鹿が駆け上っていく。
背にはそれぞれ剣を帯びた男が騎乗し、慣れた手つきで手綱を操っている。大きく平たい蹄を持つ独角鹿は、全く速さを落とすことなく雪の上を駆ける。その前方、森の梢を悠々と飛翔する巨大な影があった。
竜だ。
巨大な翼を羽撃かせながら、騎士たちを先導するように進む。白い鱗に覆われたその広い背にも人が乗っていた。毛織物の外套に全身を包み、頭巾から零れた金の髪を風になびかせている。
森が拓けた先、峻厳な谷の底に、氷の張った湖が見えた。竜が下降し始める。近づくにつれ、湖畔に数百頭もの竜が並んでいるのが分かる。
白竜が雪上に降り立つ。風が雪を舞い上げた次の瞬間、竜の居た場所には白い髪の女が立ち、竜の背に乗っていた人物を抱くように支えていた。
「女王陛下」
女は赤い瞳を腕の中へ向ける。低く穏やかな声は気遣いに満ちている。
「御身に障りはございませんか」
「問題ないわ。ありがとう」
応える声に蹄の音が重なった。音は徐々に大きくなり、やがて木々の間から独角鹿が三頭、姿を現す。
「陛下。到着が遅れ申し訳ございません」
先頭の壮年の騎士が独角鹿の背から降りて跪いた。背後の二人もそれに倣う。
「顔を上げなさい。気にすることはありません」
女王が柔和な笑みを含んだ口調で声をかける。「ファルが速く飛びすぎていたもの」
「ガルデロイ卿、すまなかった。どうにも気が急いてな」
ファルと呼ばれた白髪の女が軽やかに詫びると、騎士は顔を上げて苦笑する。
「それは間に合わぬわけです」
「さあ、立って。皆を待たせているわ」
女王に促され、騎士たちは立ち上がって傍に控えた。女王が一歩前へ出ると、ファルが恭しく進み出てその頭巾を下ろす。朝陽に晒された髪が輝く。白磁の膚と青い瞳が現れると、地の底から響くような唸り声の唱和と共に竜たちが一斉に首を伸ばし、翼を広げ、深々と頭を垂れた。
荘厳な沈黙が満ちた。白い吐息をひとつ漏らし、女王が口を開く。
「ありがとう、皆。これより契約の儀を行います。ファル」
「はい」
ファルが女王の外套の釦を外していく。肩から除けられたその内には、女王の腕に抱かれ、安らかな寝息を立てる赤子がいた。
「オリヴェルダ王国第二王女、エリサ・シェルディアーナ殿下である!」
ファルが高らかに告げる。竜たちが首をもたげ、次々に咆哮する。雷に似た轟音が静まり返った森に幾重にもこだまする。王女エリサは不思議と目を覚ますことなく、眠り続けている。
凍った湖へ、女王が足を踏み出した。咆哮が止む。ファルと騎士たち、数多の竜が見守る中、女王は氷上を進み、湖の中心に立ってエリサを天高く掲げた。
湖の底から眩い光が迸った。光は氷上を四方八方へ走り抜け、女王を中心として巨大な魔法円を描く。
エリサの口から微かな声が漏れた。薄い瞼が震えながら持ち上がり、褐色の瞳が一点を見据える。魔法円が揺らめき、赤子の視線の先へと一筋の光の道を編んでいく。
一頭の青い竜がそこに居た。
周囲の竜より遥かに小柄で、鱗や角に艶があり、まだ若いのだと分かる。竜は翼を羽撃かせ、光の道をなぞるように飛翔して、女王のすぐ傍に舞い降りた。
エリサが手を伸ばす。若竜は金の眼を見開きながら、吸い込まれるように赤子に顔を寄せる。鱗に覆われた口吻が、小さな指に触れた。
突風が巻き起こった。一際強い光とともに雪煙が湖を覆う。煙の中で竜の姿が人間の姿へと変わっていく。やがて風は収まり光は消えて、煙が徐々に晴れると、女王の前に立っているのは精悍な青年だった。
青年はその場に跪き、両手を差し上げる。女王がゆっくりと、彼の手の中に赤子を預けた。
再び咆哮が響き渡った。竜たちが飛翔し、湖の上空で乱舞する。色とりどりの鱗や瞳が朝陽を反射し、星のように瞬いて澄んだ空を彩る。
「エリサを頼みます」
微笑んだ女王へ目で頷き、青年が立ち上がった。祝福の光を浴びながら、赤子を見つめ、しっかりと胸に抱き直す。稚い王女は青年の腕の中で心地良さそうに目を細めていた。