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傑作ロック音楽の誕生由来

 学校祭の準備を終えて学校から出ようとした時、三階の音楽室の方から“雲雀の歌”が小さく聞こえてきた。これは古風なロック音楽のバラッドで、この界隈では知る人ぞ知る名曲だ。名曲なんて言い切ってしまうのはどうかとも思うけれど、少なくとも一部の人達の間では傑作という扱いだから隠れた名曲と言ってしまっても問題ないでしょう。何しろ古めかしいロック音楽で、この今聞こえている演奏も六年生の好事家連中が自分達のエレキギターやドラムなんかを持ち込んで、文化祭で披露するために一生懸命練習しているものなんだ。作られてから二年、全然新しい。それでも夕暮れ時の、文化祭の準備で幾人かの生徒が忙しそうに行き来している校門近くのこの風景の中でこの曲を聞いていると、何となくわびし気で物悲しく、妙に懐かしい気持ちを起こさせる、何故かなぁ。


『せわしない雲雀のさえずり これは この声がいつも 穏やかな春の昼下がり 広々とした田園風景のただ中で聞かれているからこそ のんびりとした印象を与えてくれるんだろう こんなにもせわしない雲雀の鳴き声』


『これがもしもいつも 冬の厚く垂れこめる黒い雲の下 冷たい木枯らしの中で 聞かれるようなものであるならば もっと違った印象を 与えてくれるに違いない きっと何かしら不気味な 不安な気分に満ちた印象を 何しろこんなに せわしなくも単調な雲雀の鳴き声』


『事実はしかし のんびりとした気分をもたらしてくれる ひたすらにせわしない雲雀の鳴き声 春を 青空を 高く昇った太陽を 小さな白い雲を 暖かさを 静けさを 耕作前の田を畑を その臭いを 思い起こさせてくれる せわしない 単調な よく通る 雲雀のさえずり』


 フルコーラスで聴くと不気味で寂しい、そしてやっぱり懐かしい気持ちになってくる。

 ところでこの曲を作った人なんだけど、実はうちのお兄ちゃんなんだ。あの悪戯者だったお兄ちゃんの、いや、この曲が悪戯の産物だったわけじゃない。言わば副産物、お兄ちゃんがやらかした一番大掛かりな悪戯の副産物だった。とは言えあれを悪戯の一言で片付けてしまってよいのかどうか。いずれにしても、お兄ちゃんのやらかしたあの事件は二年前、お兄ちゃんが高校三年生の秋の頃にさかのぼる――――


      *    *    *    *    *    *    *    *


 僕も詳しいことは知らないんだけど、お兄ちゃんはあの年の夏休み、とても大変な時期だったらしい。普通高校三年生の夏から秋なんて、大学受験勉強の真っただ中と言っていい時期だ。ところがお兄ちゃんの場合そうではなかった。先ずこの時期までクラブ活動を続けてて、県大会、東海大会にまで出場していた。種目は四百メートル個人メドレーだ。お兄ちゃん、なかなかの実力者で“尾張のシャチ”と呼ばれていたそうだ。それで県大会ではこれも前回チャンピオン“三河のイルカ”と勝負になってお兄ちゃんが二位だった。イルカより鯱の方が強そうだけど、水泳競技は速さを競うものだからね。でもこちらはいい。クラブ活動なんだから。もっと問題なのは、受験とは関係のない何かあるテーマに夏休み中ずっと取り組んでいたことなんだ。水泳以外の時間にやらなければならないはずの大学受験勉強を全くせず、それこそ寝る間も惜しんで、一心不乱だったんだから。パソコンで刷り出した外国語の文献や図面みたいなものの山にうずもれて、いつも目が真赤だったし、上機嫌ではなかったけれど不機嫌でもなかった。それでも常時疲れた風だったっけ。

 お兄ちゃんは夏休み期間を(クラブ活動のときと僕らと遊んでくれるとき以外は)全てこのことのために費やして、自由研究みたいな形にしてまとめると二学期の始めに学校に提出した。勿論高校三年生の夏休みに自由研究なんて課題が出されるわけはなく、完全にお兄ちゃんが勝手にやったことだった。なのに学校では口頭試問もどきのことをやって、その研究を受理したらしい。学校の先生方も変わりものの生徒がいると大変だ。

 結局、この夏休みでお兄ちゃんはとことん消耗してしまった。一時期なんか抜け殻みたいになっていた。(水泳の方でも東海大会でスタートの飛び込み直後に水を気管支に入れてしまい、五十メートル息継ぎ無しでタイムがボロボロという失態を演じていたけれど、それは無関係)そこでお兄ちゃんは復活を期すべく、大学受験に向けて邁進することになった―――と言いたいところだけれど全くそのようなことはせず、何故だか宗教関係の本とかを読み始めた。また未知の文学作品に解決の糸口を見出そうと(したそうで)、関連する各種情報を集めることにした。ところで当時お兄ちゃんの学校には、定年を迎えられた後非常勤講師として現代国語の教鞭をとってみえるおじいちゃん先生がおられた。お兄ちゃんはこの博学の老先生をとても尊敬していて、いろいろな日本の文学作品について教えを乞うていた。そこでこの度も老先生に相談した。近代以降のヨーロッパ文学で、小説のお手本となるような作品はどんなものがあるだろうか、と。何で小説のお手本なのかはよく分からないけれど、そんな作品ならきっと自分の心がまた奮い立つのではなかろうか、と考えたのではなかろうか、と推察される。実際のところはお兄ちゃん本人にしか分からない。

 おじいちゃん先生は、そうだねと言いながら少し考えて、トマス・マンという人のトニオ・クレーガーという作品を挙げられた。何でも、先生が若い頃は文学好きなら誰でも一度は読んだことがあるようなものらしかった。しかし今じゃあ誰も読まないけれど、と笑っておっしゃった。これを聞いて、お兄ちゃんは少々複雑な気持ちになったらしい。どうもお兄ちゃんはこの小説家のことを別の方面から知っていて、あまりいい印象を持っていなかったようなんだ。とは言え尊敬する先生の言葉だ。無闇に却下してしまうわけにはいかない。そこでお兄ちゃんはこの作品を取り寄せて読んでみることにした。

 結果は―――今ひとつだったらしい。どうも、もやもやした感じが残ったみたい。そこでこの作者の作品を片端から読んでみたそうだ。始めは短編から、でもやっぱり駄目で、特にベニスに死すという作品については一言、気持ちが悪い、というものだった。当時からおしゃまさんだったお姉ちゃんはこの話の映画版を観ていたらしく、でもこの物語の美少年を演じていた俳優さんはとっても綺麗だったのよ、と変な弁護をしていたらしいけど、そんなことはお兄ちゃんにとっては関係ないことで、この小説家の短編についてのお兄ちゃんの評価は不可だった。

 でも短編だけで決めつけてしまうのは乱暴だということで、お兄ちゃんはしぶしぶ長編の方も読み始めた。ところがこちらの方は案外面白かったそうだ。それで少しばかり見直したらしい。で最後に読んだのがファウスト博士という本で、これにはお兄ちゃんも感心してしまった。これは、ある作曲家が自分の仕事に行き詰まってきたため、悪魔と契約を結びその力で新しい作品を次々と産み出していくが、最後の交響曲を作曲し終わって発狂してしまうという筋らしい。こんなオカルトじみた話なんだけど、お兄ちゃんによれば至って真面目な話で、ファウスト伝説を基に、主人公をニーチェとワグナーをミックスしたような人物として設定し、現代の精神的諸問題を抉り出している‥‥‥というような、僕にとってはほとんど理解不能だったんだけど、ただ一つ比較的分かり易いことがあった。お兄ちゃんはこの話の中で主人公が言う台詞にとても感銘を受けたらしい。それは、主人公が自分の最後の交響曲の説明をしたときの言葉、『これはベートーベンの第九交響曲の否定でありネガである』というもの、何となく、これならイメージし易いもんね。でも、ということはやっぱりそれは悪魔的(オカルト的?)な曲ということなんだろう。そして当時のお兄ちゃんはこう思い詰めてしまったそうだ。是非ともその『第九交響曲の否定でありネガである』ような音楽をこの耳で直に聴いてみたい、と。

 ここからお兄ちゃんの『第九のネガ』音楽探しが始まった。最初は同じジャンルのクラシックから、おそらく近代以降の音楽にそのような音楽があるのではないか、とのお兄ちゃんの思惑は残念ながら外れたようだ。作曲技法や理論面では近いものがあるかも知れないが内容がさっぱりだ、とのこと。内容というのがどんなものか他の人には分からなかったけれど、きっとお兄ちゃんの頭の中にはその基準があったんだろう。

 それでは他のジャンルの音楽ではどうか。お兄ちゃんは各ジャンルの音楽を聴いてみる。民族音楽は――お兄ちゃんも『第九の否定音楽』にキリスト教的要素が関わっているんじゃなかろうかと感づいていたので――流石に音楽性が違い過ぎているように思われた。ジャズも悪くはなかったが全然別方面のもののようだった。通常のポピュラー音楽に至っては第九の否定どころか全肯定なのだからお話にならない。そうこうするうちにロック音楽というものに該当するものがあるのではないか、と考えるようになった。

 ロック音楽と言っても当世風のものではなく昔々、二十世紀のものらしい。こうなるとお父ちゃんの出番だ。お父ちゃんは、任せておけとばかりに自分が若いころ聴いていたとっておきの幾つものアルバムをお兄ちゃんに教える。ビートルズから始まってローリングストーンズとかレッド・ゼッペリンとか何とか、もはや歴史と化した伝説のバンドの数々、お兄ちゃんは素直にこの意見を拝聴し片端から聴いてみる。けれどお兄ちゃんにとってはどれもこれも第九のネガ音楽とは似ても似つかないものだった。それらしい装いのものもあるにはあるが、結局のところ黒ミサの儀式を学芸会の舞台で演じているようなもの、となかなか手厳しい。『人をおちょくっとるがね。悪魔を憐れむ歌なんつうのがあるんだけどな、ひどい邦題だわ。何で“Sympathy”が“憐れむ”にならなかんのだ。どう考えても共感に近いだろ。訳分からんわ』と、僕の方こそ意味分からんけど、邦題にまで八つ当たりするほどご立腹だった。

 お父ちゃんはそれじゃあ今度は、と別のジャンルを持って来る。これはプログレッシブ・ロックと称するもので、キング・クリムゾンとかジェネシスとか、プロコル・ハルムなんていうのまであった。奇妙な名前が多かった。前のジャンルのが、やんちゃな不良学生が付けたような感じだとしたら、今度のは勉強はできるけどちょっと変わった学生が付けそうな感じだ。お父ちゃんは、これならどうだとそんなようなバンドのアルバムをずらりと並べた。勉強はできる変人の(典型の)お兄ちゃんは、こちらについては比較的高い評価を下した。そして自分でもいろいろと調べていた。このころになるとロック音楽に興味を持ってきたらしい。何しろお兄ちゃんは、若いのにポピュラー音楽系統はそれまで全く聴いてこなかったので新鮮だったんだろう。

 こんな風に調査を進めてきたお兄ちゃんは、この英国プログレ音楽の界隈でクラウトロックなるジャンルを発見することになった。そしてこの系統のロックミュージシャンのアルバムを聴いて、お兄ちゃんは史上最大級の興奮を覚えてしまった。これまでのような第九のポジ音楽(まがい物)ではない、これらの音楽は本物だ、とのこと。特にこの時期、お兄ちゃんの部屋からはいつも奇妙な音楽―――と言うか、音が流れていた。以前ならバッハやベートーベンの室内楽がよく聞こえていたんだけれど、この頃はリズムがない珍妙な電子音の集合とか一本調子のきついビートと荒っぽい電子メロディーの混合物みたいな面妖な音塊が扉から漏れ聞こえていた。そんな怪物の面々の名前を僕もよく覚えている。クラウス・シュルツ、クラフトワーク、カン、ノイ、アモン・デュール等々、ご丁寧にもファウストなんて言うのまであった。

 そしてとうとうお兄ちゃんの頭の中にあったんだろうイメージにぴったりのアルバムが見つかった。グルグルというグループのカンガルーというアルバムがそれだ。グループ名もアルバム名もふざけているんだけど――ちなみにジャケットもふざけていた――音の方は、確かにとんでもない代物だった。それと言うのも、僕も一度聴かせてもらったのだから、自分からお兄ちゃんに頼んでね。我ながら物好きなことをしたもんだ。お兄ちゃんは、教育上問題があるけどなとか言いながら聴かせてくれた。聴いてみて、確かにこれは正真正銘音楽のモンスターだと思った。同時にベートーベンの第九交響曲の否定でありネガであるような音楽とはまさしくこれだ、と当時の僕でも納得した。ただ、聴くのは一回だけで十分だった。とにかく怖ろしい音楽だったんだから。


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