今日も私は貴女のペット
読んでいただきありがとうございます。
「では次のページに移ります。ここではこの作品の作者である藤原道綱母が、夫に対しての不満を綴っています。私が音読するので、とりあえず聞いてください」
お経のような古語が教室を包み込んだ。時間の経過が遅く感じる、退屈な四時間目の古典。今日は朝から電車が止まって遅れたり、階段で転びそうになったり、踏んだり蹴ったりな事ばかりで、古典の授業も聞く気が起こらず、ノートと睨めっこしながらペンを回していた。
周りには寝てる人も多くて、この時間の無駄っぷりをよく表しているなと強く感じる。
こんなしょうもない古人の話より、メイクの授業の方が将来役に立つだろう。
何のためにやっているのか。その理由さえわからないままでは、モチベを保てる訳がない。
(つまんないなぁ……)
そう思って渋々ノートに板書を書くことにしたその時、謀ったようなタイミングでチャイムが鳴り、教師は少し物足りなさそうな表情をしていた。
「おや……今日はここまでにします。少し時間調整が難しいですね。黒板はこのまま残しておくので、まだ書いてない人は写しておいてください。——それと、宮木さん」
私は教壇から私の名前を言った古典の教師を睨む。長いストレートの黒髪に、真面目そうな黒スーツ、見事に似合っている綺麗なメイクをした、若い女の教師。
「放課後に手伝って欲しいことがあります、後で国語科準備室に来てください」
「……わかりました」
私は、この教師が嫌いで仕方ない。
放課後の夕陽で照らされた廊下が、眩いオレンジ色に輝いている。本当なら美しいはずの黄昏の校舎を、私は憂鬱な気持ちで進んでいた。
二号館の三階、一年生の教室の向かいにある、小さな事務所のような一室。
溜息をついて、私はドアを叩く。
「どうぞ」
あの女の声が、ドア越しの籠った音として耳に入った。歯を食いしばり、「失礼します」というセリフを言って入室する。
「おつかれ、すずちゃん」
優しそうな笑顔を浮かべ、私の下の名前を軽々しく呼ぶ。軽率なその言葉に、私は心底イラッときた。
「……それで、手伝う事って何?」
私は苛立ちを隠しながらこの女にそう聞いた。その女はゆっくりと立ち上がり、私の顎を指で撫でるように持ち上げた。
「先生には敬語、歳はそんなに変わらないけど、社会に出たら常識よ?」
あぁ、気持ち悪い。
この女の何とも言えぬ、圧のある言葉と艶かしさに少しだけ興奮を覚えた事が、心底悔しくて気持ち悪い。
「——はい、柊先生」
この女——「柊香織」との出逢いは、唐突でもなんでもなく、随分と普通なものだった。
「初めまして。私は「柊香織」と申します。木偏に冬、お香の『こう』に『布を織る』で『かおり』です。担当科目は国語、主に古典を担当する事になると思いますので、皆さんよろしくお願いします」
彼女は丁度今年の四月に赴任してきた、新人の女教師である。この学校は二校目で、新人とはいっても、教職の期間が浅いだけで、ノウハウはある程度あるのは察しがついた。自己紹介の時に話が上手いなと感じたし、清楚な見た目故嫌われることも少なそうな人懐っこさが滲み出ていたから。
私の周りの女子生徒は、そのルックスに驚いていた。というのも、私もそのうちの一人で、教師という仕事をするには、もったいないくらいの美人だった事を、半年経った今でも思い出す。
私はクラスの係で余っていた国語係になっていたので、内心アタリだと感じていた。コスメは何を使ってるのかとかを聞いて、それを話題にしようと考えながら、私はあの女に話しかけた。
「国語係の人?よろしくね」
イチゴみたいに赤くて綺麗な瞳に、ぽってりとした瑞々しい唇。きめ細やかな白い肌と、かすかに赤みがかった耳。
きっといい人なんだろう。
優しいあの声から、私はそう思ってしまった。
だから私は、この先ずっとこの日を思い出しては、己の愚かさを憎み続けるのだろう。
「今日も可愛いね、すずちゃん」
軽率に頬に触れるその手の動きが、私には気持ち悪く感じる。耳を触られる時の、軟骨が歪む感覚が嫌。抵抗の意志を表してるのに、躊躇もなく私を見るその目が嫌。唇を指で押され、顎を持ち上げられるのも嫌。
——私の唇に、アイツの唇が静かに触れた。
「ん……」
私は顔を顰めて、この女からの愛を我慢して受ける。逃そうとした手を窓に掛けたら、アイツは私の手に指を絡ませるように握ってきた。
逃げられない。逃げたいのに、アイツは逃してくれない。気持ち悪い。大嫌い。大嫌いなのに、私は、言いなりになるしかない。
私から糸を引きながら、ゆっくりとアイツの口が外される。アイツは我慢する私の顔を見ながら、優しく口角を上げて、もう一度キスをした。私の顔をご丁寧にしっかりと押さえ、本当に逃げられないようにキスをしてくる。私はこの女の腕に、自分の手を置いて、静かに抵抗するしかなかった。
(最悪……)
振り払って去ればいいのに、この女の舌の入れ方が私を愛しているようで。この女にキスをされるたび、下腹部が熱くなって。心のどこかで、この女のキスを待ち望んでいる私自身が、本当に大嫌いで、最悪の気分だった。
(……ホント、気持ち悪い)
求愛されながら、私はこの女との馴れ初めを思い出していた。
あの時と、状況が似ていたから。
——————
初めて柊先生に呼び出されたのは、初授業が終わった後のことだった。柊先生に「提出物の集め方などを教えるので、国語科準備室に来てください」と言われ、私は放課後に部屋を訪問する事になった。私は彼女の過去について聞く気の方が勝っていたから、どんな事が聞けるのか楽しみだったのだ。
——だから、失敗した。
私はあの女にキスをされ、身体を触られた。
軽めのスキンシップなどではなく、私の身体を直に触れ、私の胸や下着の中にまで指を挿れてきた。私は泣きながら「触らないで」と懇願するしかなかった。なのにあの女は笑いながら「そんな顔しないで」なんて言っていた。
私はあの日から、だんだんと壊れていったのだ。気持ち悪かったあの舌の感触が、丁寧に弄ばれるような手の感触が、臓器を掻き回される狂った指の感触が。
全てが吐き気がするほど気持ち悪くて、全てが脳を溶かすような快楽だった。
耐えられない。我慢できない。
矛盾した二つの感情が、体と脳を永遠と這いずり回る。
あの女の口の温度も、指の細さも、足の癖も、身体に覚えさせられた。
「遊んでそうなのにウブな感じ……まだお子様な癖に背伸びしてる感じ……全部私のタイプだよ、『宮木鈴』ちゃん」
私の舌を指で引っ張り出し、顔を歪めた。本当に楽しそうに私を弄ぶコイツの顔を、ぐちゃぐちゃにしてやりたかった。
私は準備室から必死の思いで逃げ、家に帰ってからもその記憶が付き纏っていた。
その出来事の翌日の事である。
「ねぇすずちゃん、私と付き合わない?」
準備室に呼び出され、二号館と三号館を繋いでいる景色のいい通路で、そう問われた。
——スーツに薄化粧で、タバコを片手に持ちながら。
風が強く吹いて、アイツの長い髪が広がる。
黒くて重そうなピアスが、アイツの隠れていた耳に何個も見えた。
「……私、タバコ嫌いなんだけど」
私の最初のイメージとは随分かけ離れてしまったその女は、挑発するような笑みを浮かべながら私を見つめてきた。
「ん〜、すずちゃんが先生と付き合ってくれたらやめるよ〜」
更々やめる気のないその口調に、私は余計イライラする。
「……ねぇ、そもそも私昨日のこと許してないんだけど」
「え〜いいじゃない。すずちゃんも気持ちよかったでしょ?」
私は無意識に、腕で腹部を隠す仕草をした。気持ちいい訳がない。下腹部を抉られるあの感覚が私の中に蘇った。
「……そんな訳——」
「あんなに声我慢してたのに、気持ち良くなかったの?嘘は良くないなぁ、すずちゃん」
私の言葉を遮るように、アイツは私の耳元で囁いた。
「私わかるんだ、すずちゃんみたいなウブな子、たくさん見てきたからね」
アイツは髪をかきあげ、わざとらしくピアスを見せた。
「『清楚な女性』だと思ったでしょ?私は貴女みたいな子が好きなだけよ。——壊しやすくて歪みやすい女の子が、堪らなく可哀想で好きなだけ」
吐き気を催すようなこの女の腐った性癖に、私は思わず口元を手で隠した。
「そんな顔しないで、すずちゃん。——壊したくて堪らなくなるの」
楽しそうな口調で私にそう言うと、この女は私の丹田にそっと触れた。私がその拒絶反応にも等しい身震いをすると、見た事ないほど下卑た笑みを浮かべて恍惚な表情をする。
何度も思う。
反骨の意志を手放してこの女の言う通りにすれば、どれだけ楽だろう。単純な快楽に身を任せて抗わなければ、どれだけ楽だろう。
でも。だからこそ。
私はこの女の言いなりになんてならない。
コイツを本当の意味で勝たせたくない。そんなくだらないプライドだけが、私のできる唯一のささやかな抵抗だった。
「……ホント、可愛いね」
この女の口の向こうから香る、強いミントの匂いに私は俯いた。
私は知っている。コイツの言う『可愛い』は、寵愛ではなく愛玩である事を。
犬を下僕として可愛がるようなもの。
だからこそ、何もかもが大嫌いなのだ。
私をただのガキとして見てる、その切長で美しい紅い瞳も。
私を揶揄うための言葉を話す、八重歯が見えるその口も。
誰かを惑わすために作られた、綺麗で艶やかな長い黒髪も。
私のリップを口紅で上書きするように、コイツは口付けしてきた。この女のパリッとしたスーツからうっすらと香る、香水と煙草の香りに、頭がいっぱいになる。髪に隠れたそのイカれたピアスを引きちぎってやりたかった。でもそんな事をしても、アンタは顔色一つ変えずに私を女にしてくるだろう。だから私は、アンタから目を逸らして仕方なく弱い女として襲われる。
——何とも不愉快で、私の価値観が大きく歪む瞬間。
爽やかなミントの香りとは裏腹に、アンタの捻じ曲がったその性癖に付き合わされる私の心は、憂鬱そのものだった。
「……大好きよ、『私の』すずちゃん」
その声とその台詞で、今まで何人の子達を壊してきたのだろう。顎を持ち上げられて、逸らしていた視線を戻される。
私はこの優しそうで美しい瞳に魅せられて、同時に、性悪な蛇の如き瞳に騙された。
この瞳を見せられたから、私はこの女に敵わない。
あぁ、なんて気持ち悪いんだろう。
私はこの女が、心の底から大嫌いで仕方ない。
設定になります。
宮木鈴:17歳。得意科目は倫理。クラスで余っていた国語係になった所、半ば香織に襲われる形で今の関係に。以降香織の『体の触り方』が癖になり、嫌々ながらも頻繁に体を差し出している。ツンデレなどではなく本当に香織の事が大嫌いではあるが、縁を切ろうにも切れない関係が続いている。明るい茶髪のボブカットで、三人程度の仲のいい女子がいる。処女。
柊香織:24歳。国語(古典)教師。高校時代から「年下の同性を壊す」事が趣味の性根が悪い女。ヤニカスだが、香水とミントガムで隠蔽しているため、先生ウケも生徒ウケも良い。
黒髪ロングで陰のある女性を演じ、うまく的から外れて生徒に手を出すという徹底ぶり。
実は中学時代に痴漢されており、そこから性格が大きく歪んで今に至る。