不要品
「・・・食べたら洗ってっていってるのに。」
朝六時、私はシンクの中に置きっぱなしになっている油でごてごてのフライパンとスープの残るボウル、箸、コップを見てつぶやいた。
昨日帰りの遅かった旦那は、背油ましましの自家製ラーメンを作り、食べて、そのまま使った食器や器具を洗わず眠ってしまったのである。
私はキッチンが汚れているのが許せないタイプだ。汚れ物が一晩鎮座するなんて許せない。
キッチンツールは洗って使うものではなく、洗われて乾いているものを取り出して使うものであるべきだ。
晩御飯は食べてくるって言っていたから何も作らずに先に就寝したらこれだ。
晩御飯作っといてといわれてラップをかけてテーブルの上においておけば。翌朝食べた皿がシンクの中に置きっぱなし。
「何でシンクにおくついでに洗えないんだろう。」
テーブルからシンクまでおよそ八歩の距離。この距離を歩き、食べたものを置くことはできるのに洗うことはできないのだ。
持ってってくれるだけましだと思えばいいのかもしれない、けれど・・・どうしてもやりっぱなしの状況を許すことができない。
「何で私、人の使ったもの洗ってるんだろう。」
自分が使ったら、きっちり洗って元に戻している。
旦那が使ったら、きっちり洗って元に戻している。
シンクに汚れ物がある状況がいやだから、いつも綺麗にしていたい。
だから私はいつも洗い物をしている。
旦那はシンクに汚れ物がある状況が苦ではない。
だから旦那は洗い物をしない。
私はシンクが汚れていくのが許せないけれど、後片付けをしない旦那も許せないのだ。
「ねえ、使ったら洗ってよ。」
「使う時に洗えばいいじゃん。いちいちめんどくさいし。」
なるほど、急いでぱっと作りたいとき、こびりついた汚れを一生懸命こそげ落としてから調理に取り掛かるというのか。
「じゃあ、自分の汚したものは自分で洗う、それでいい?」
「いや、俺は作る係、お前は洗う係。それでいいじゃん。」
私が毎日色々作ってるのは、係ではないのだろうか。
「じゃあ毎朝のお弁当と夕飯、全部やってくれるの?」
「できるわけないじゃん。」
ああ、毎日の食事つくりは私がやって、自分が追加で作る食べ物に関してのみ、作る係ってことか。
「ずいぶん身勝手だね、私はあなたの使ったものは洗いたくないな。」
「じゃあためといてよ。使う時に洗うんだから、それでいいでしょ。」
私が毎日綺麗に保っていたシンクは、汚れを溜め込む場所に変わった。
旦那が使ったフライパン、油まみれのざる、ミートソースにまみれたフォーク、菜ばし。
旦那が食べ終わった皿、茶碗、どんぶり。
旦那が飲んだコップが油まみれのフライパンの中に投入される。
真夏、残飯のこびりついた食器たちは、悪臭を放つようになり汚れはやがて黒ずみ、キッチンには小さな虫が飛ぶようになった。
シンクはぎゅうぎゅうに詰まっていて、水を出すのにも一苦労だ。
「ねえねえ、シンクに溜まってる奴だけど。」
「ああ、溜まりすぎてるから、勝手に洗ってくれていいよ。」
私の使った物は、使い終わったらきちんと洗っている。ところが、旦那は使い終わったものをシンクにおきっぱなしにしているので食器類が足りなくなってきたのだ。
フライパンは全部で四つあるのだけど、旦那がさっき私の洗ったフライパンを使いシンクに積み上げたから・・・もう使えるフライパンがない。
「ううん、ある奴でどうにかするからいい。」
洗ってあるのは、なべがあと二つ。菜ばしやお玉、フライ返しなどはもうひとつも使えない。包丁ももう無いな、キッチンバサミも無いな。
「今日の晩御飯、何?」
「牛そぼろ煮込みしか作れなくなった。」
小ぶりななべに、牛ミンチと冷凍のみじん切りたまねぎとカットねぎを投入して煮込む。お玉がないから・・・スプーンですくって食べないといけないな。
どんぶりも茶碗もおわんもない、ご飯をよそう器も無ければ、すくうしゃもじもない。あるのは割り箸とマグカップ、ビールグラスに急須・・・。
「入れるもん無いけど洗うのめんどくさいな、これでいいや。」
旦那はご飯をお猪口ですくい、ビールグラスの中に詰め込み、なべの中の牛そぼろ煮込みをご飯粒のついたお猪口ですくって、ビールグラスの中のご飯の上にたんまりと盛った。
マグカップにも同じように盛り付けて…食器棚の中からものがなくなった。
「食器って意外と使えるなあ。」
そういって旦那は食べ終わったビールグラスとマグカップをシンクの洗ってない食器の山の頂上にバランスよく・・・乗せた。
朝起きると、最後のなべに袋ラーメンを作って食べた残骸がコンロの上に置きっぱなしになっていた。夜中におなかが空いて自分で調理し、シンクに積み上げる余地が無くてコンロに置きっぱなしにしたのだろう。
「見事に何もなくなったなあ。」
すっからかんになった食器棚と、なべの棚を見て旦那がつぶやく。もう牛乳を注ぎ分けるコップも無いのでパックから直飲みしている。
「ねえ、この食器とかってさ、使う時に洗って使うんでしょう。洗わなくてこれだけ残ってるって事は、使わないから残ってるんだよね。」
「まあ・・・そうだね。」
旦那は牛乳パックを冷蔵庫に戻して、ニコニコしている。
「誰かが洗わないと、いけないんだって。食器使えないと、困っちゃうからね!」
そう、今日から食器は何も使えない。一週間前から、洗わずにただ積み重ねられてきた使った後の食器、調理器具の山。汚れを洗い流すのは、ずいぶん骨の折れる仕事になるだろう。
旦那は・・・最初から使い終わった食器を洗うつもりなど無かったのだ。使える食器が無くなったら、私が洗うはずと思い・・・根比べを始めたのだ。
汚れて悪臭を放ち、私が根を上げて旦那の使ったものを洗ったら、食器を洗うのはお前の仕事なんだよというために。
使える調理器具が無くなって、私が根を上げて旦那の使ったものを洗ったら、調理器具を洗うのはお前の仕事なんだよというために。
自分は食べて作って放り出すのが仕事なんだよというために。
根比べに負けたほうが、今後一切の洗い物をするべきなんだ、俺は負けないけどね。
・・・分かりやすくて面白いな。
「うん、でも一週間使わないってことはさ、必要ないものってことでしょう。全部捨てようと思って。」
「・・・はあ?使えるもの、捨てるの?」
「使えるものと、使うものは別だって言ってたじゃん。そういって私の履いてない靴、八足捨てさせたんだから。」
「あれは靴箱の中が邪魔で!!」
スニーカー収集が趣味の旦那は、自分の靴を靴箱に入れたくて、私の靴を捨てさせたのだ。色違いのパンプス、ヒールの高さが違うもの。黒のパンプスがひとつあれば冠婚葬祭はこなせるだろう、そういって、全部捨てさせた。
「シンクの中が邪魔なんだよね。」
「洗えばいいだろう!!」
「いや、私が使ったもの、ひとつもないから。全部・・・私が使わなくて、私には必要のないものって事でしょう。」
「全部捨てたらもったいないじゃん!!買うのにいくらかかったと思ってんだ!!」
「さあ・・・私の靴だって、ずいぶん高かったけど、買ったときの値段は捨てるときの値段と同じと思うなっていってたでしょ。」
「だめだだめだ!!捨てたらだめ。ここにあるものは全部使うものなんだ。俺はここにあるものを洗って使う、そう決めたんだ。」
「じゃあ、この状態を写真にとって、一週間後一度も使わなかったものを捨てるってことでいい?」
「だめ。」
何を言っても却下される。私の意見は却下が決定されているんだな、きっと。
「わかった。じゃあ、私しばらく実家に帰ることにしようかな。ここには使える食器も調理器具もないから、困っちゃうんだよね。」
「洗って使えばいいだろうが!!何サボってんだよ、俺の飯はどうなる!!」
「貴方が洗って、食べたいものを自由に作って食べたらいいんじゃないのかな?あ。会社行く時間、急がないと。」
旦那が何やらぶつぶつ言っているけれど、こんなことで遅刻するわけには行かないんだよね。私はラップに包まれたおにぎりを持って出勤した。
一週間実家に滞在し、家に戻るとキッチンは凄まじく・・・変貌を遂げていた。
炊飯器でカレーを作ってそのまま、電機ケトルに直接ラーメンを入れて調理してそのまま、カップめんの汁が残ったゴミがいくつも調理台の上に並んでいる。
「ゴミくらい片付けないの?」
「馬鹿、その汁にレトルトご飯をぶち込んだらうまいんだよ、立派な食材だ、捨てんな!!!」
一週間前に撮ったシンクの写真・・・ひとつも位置が変わっていない。
「ね、一週間経ったけど結局ひとつも洗った様子がないね、必要ないんじゃないの?」
「あらわなくても何とかなるってことだろ、このままでいいんだよ。・・・捨てさせねえからな?」
どうしても、捨てたくないみたい。どうしても、洗いたくないみたい。
「うん、わかった。」
私は、シンクの中程に積まれている、ひびが入ってしまったガラスの器を拾い上げた。これは旦那と一緒にガラス工房に行った時に私が作った、世界にひとつしかない器。ラーメンを入れて、ひびが入ってしまったみたい。私の作ったものだから、捨てても良いよね。
ゴミ袋に、そっと器をいれる。
ひとつ捨てる気持ちが芽生えると、次々に捨てたくなるものらしい。
思い出、記念品、愛情。なるほどねえ、捨てるってずいぶん、気持ちがいいものみたい。
有給をもらって、旦那のいない時間に不要品を処分した。
私は汚れに汚れまくったキッチンで、相変わらず高く積まれている汚れ物をちらりと見た。
「二年間使った食器だったけど、案外愛着ってわかないもんだなあ。」
自分の荷物はキャリーバッグひとつ分。通帳、コンタクトレンズ、ノートパソコンにタブレット、時計とアクセサリーが少しと普段着が二日分・・・。いっぱい捨てたから、少しくらい新しいものを買いたいかな。
私に不要なものは、全部捨てたもの。
何もかも捨てた私は、ずいぶんすっきりして、もう戻ることのない家屋を出た。