私と彼女
わ、わ、私は誰だ。 ちょっとアンタ、名前言える?! えと、ええと、言える、言えます。私は・・・日本人、本条湊。27歳。年が明けたら28歳。会社員。中堅メーカーの総務・人事部に勤めてもう5年。趣味は読書。ビジネス書だって好き。年末にM-1が好きで脳内ツッコミが好きなちょっぴり漫才オタク。4人家族。父と母と2つ違いの兄が一人。ちょうど夏から念願の一人暮らしを始めたところ。だって・・・
「あれ?」
ふと、止まった。覚えてる。家族の顔も、会社のみんなも。一人暮らししてた家の様子だって。でも、最近を思い出せない。ここで気が付く前、私、何してた?
更に思い出そうと集中すると、ズキリ、と後ろ頭が痛んだ。あっ、これすごい痛みがくるかも?!と痛みを逃すように身構えたせいか、痛みはゆっくりと遠ざかっていった。よ、よし根を詰めて思い出そうとするのは、もうちょっと後にしよう。家族も家も思いだせたし、実家の電話番号だって思いだせたし、まずはそれで充分よ。
それより何より、この状況。
まだ辺りは薄暗く、私もベッドから一歩も出ていない。自分の顔や身体がどうなっているのかすら判らない。
自分の手をそっと持ち上げて、顔の前にかざしてみる。うん、今は普通に動く。さっきは全然ダメだった。今のうちに・・・とまず頭、顔、身体・お尻、脚・・・と順番に触っていってみる。
毛布にくるまってモゾモゾ・・・不審者全開の雰囲気を出しつつ体中をまさぐって判ったこと・・・いえ、決して不埒なことしてる訳じゃないからね!そう自分に向かってすら叫びたくなってしまうほど、なんだか可憐ですべすべした小さな身体だった。少なくとも私が覚えている私の身体じゃない。胸もウエストもないし、全てのつくりがこじんまりしているし、皺もカサカサしたところも何一つない!!
改めて、これは他人の、そして小さな女の子の身体なんだと判って愕然とする。そしてこうなれば先ほどから聞こえていた、「おかあさま」と何度も呼んでいた女の子の声。あれがこの子の正当な主ということなのだろう。
・・・で、あの子はどこ行った?
私は自分の思考を落ち着けて、ちょっと耳を傾けてみる。でも意識はしんとして、誰の、何のささやきもざわめきも聞こえてこない。うーん、いっちょ・・・(ね、あなたはだあれ? でてきてくれないかな?)とそっと頭の中で呼び掛けてみる。答えはない。しんとしたままだ。でもなんだか悲しい気持ちになる。なんだろう、まるで岩からそっと滲み出す水のように、気が付いたら冷たく、しっとり濡れている・・・
「おかあさま」
ふと、私はつぶやいていた。
ふるっと心が震える。
「おかあさま・・・かえりたい」
ああ、これは私の言葉であり、彼女のことばだ。(おかあさまのところに、かえりたいのね?)そっと呼びかけてみる。 またふるっと心が震えて・・・
(はい)
小さな声がきこえた。やった!
(あの、わたしはこわい人じゃないからね? わたしもよくわからないけど、なぜかあなたの心の中にいるのよ)そうっとそうっと話しかけてみる。
ふしぎそうな気配。
(ごめんね、怖い?)
そう尋ねてみると、少し間があって、ふるふると否定を返す気配がした。
(こわくないです・・・でもどうしてここにいるの? あなたはだあれ?)
おおぅ、そうだよね。
(私、わたしは本条湊。えっと、ミナトっていうの。もう大人のお姉さんよ。私もなんでここにいるのか判らないんだけど、えっと、朝になったら何とかするわね。うん、頼りにしてね?)
いや、勝手に間借りしといて何だけど・・・そして、結果のお約束はできないけど・・・努力する! 握りこぶしをつくって、むん、と力こぶをつくって見せる。それを見て、少女がちょっと笑ったみたいだった。心がほっこりする。
(はい。わたしは、ええと、わたくしは、アリーセ、といいま・・もうします。アードルフ・フォン・カルテンブルンナーが娘、アリーセ・フォン・カルテンブルンナーでございます。)
・・・え? ちょ、ちょっと待って?! 日本人じゃないの?! ちょ、じゃあどうやって会話してるの?!
本日の驚きの2発目。いやまて。そういえばあの人もめっちゃ日本人じゃない顔だったよね、何でいままで気が付かなかった?!うん?!
(ニホンジン・・・)そっと繰り返す気配。(えーと、私のいうことはどんな風に聞こえてる?) (・・・?おねえさまのおこえのままです。おねえさま、「ニホンジン」てなんですか? あの、おねえさまのおなまえ、ホンジョミナートさま・・・っておよびしても?)
えっ?! おっと・・・そうか、そう聞こえたか。(ごめん、私の名前はね、ミナト、なの。ミナト・ホンジョー。だから、ミナトって呼んでくれると嬉しいな!あっ、おねえさまでもいいよ!)
(・・・はい、ミナトおねえさま)
あらっ、可愛い!いやん、照れるぅ。妹欲しかったの・・・!
・・・はっ、いかん、なんか目的からどんどん離れていく。いや、目的ってなんなのかって話だけれど。
なにせまず、人の身体に押しかけ同居してるってことは判った。ただしどうやってそうなったかは、判らない。その前何してたのかも思い出せない。とすれば、今、この状況を判るのはこの子だけ!この子から見た状況を教えてもらわなきゃ!
(あの、アリーセ・・・って呼んでいい? アリーセ、あなたのことを教えてもらってもいい?ここはどこなの、とか、一緒に誰が住んでるの、とか、・・・それから、お母さんを呼んで悲しそうなのはなぜ、とか・・・)
最後は小さな声になった。多分、この子にとって辛いこと、だろう。おそらく。
(・・・はい、おねえさま。アリーセとよんでくださいませ。 ここはカルテンブルンナー領のおうち・・・お屋敷です。ええと、今はおにいさまと、しようにんたちがすんでいます。
おとうさまは少しまえにおなくなりになって、おにいさまが、ええと、おうとからおもどりになりました。
わたしは、いままでおかあさまとばあやといっしょに、もっとむこうの、やまをこえたあたりの、ちいさなおうちにすんでいました。でもおかあさまがびょうきになって・・・あとからいくから、さきにいってなさいって・・・このおうちに・・・でも、まってるのに、まってるのにきてくれないの・・・)
最後は声が震えて、聞き取れないぐらいだった。でもその悲しみが大きくふくらんで、私の胸もしめつけた。思い出がよみがえる。
夕方の、遊園地の片すみ。迷子センター。風船を強く握りしめて、不安な気持ちで胸を一杯にさせながら、ずっと母を待っている。うしろで大人が色々と話しかけてくれている。でも何にも聞き取れない。口をひきむすんで、じっと広場の方を見ている。泣いちゃだめ。泣くもんか。来てくれるはず、来てくれるはず・・・あ、あれは。
母の姿が見つかったところまで思い出したとき、ぽろりと、涙がこぼれた。そこからは、もう止まらなかった。彼女の涙も私の涙も。
「お、おかあさま、おかあさま・・・!」
幼い頃、仏頂面で迷子センターに居座っていた私は、母が来た瞬間に、いきなり号泣したという。それまでの不安が一気に押し流される安心。プレイバックされる不安と恥ずかしさ。そのときの気持ちがまんまよみがえる。でもこの子は、まだ緊張したまんまで。ずっとずっと手を握りしめて待っているんだ。ずっとずっと、待っている。
(ああ、辛いね、つらかったね・・・!)
自分で自分の背中をなでることはできないけど。私は意識の中で、アリーセの心をずっとさすりつづけた。大丈夫、大丈夫よ、私がいる、おかあさまに会えるまでは、私がいるからね・・・!
何が大丈夫なのか、どう大丈夫なのか、自分でも分からなかったけど、うわ言のようにそうつぶやき続けて、しゃくりあげながら泣くアリーセの心をさすって、そうしてふたりでいつしか眠りに落ちた。