おもちゃのけんじゅう
ある晴れた空の下に、おんぼろで今にも屋根が崩れ落ちそうな、小さな駄菓子屋がありました。
ぼろい駄菓子屋の中にはラムネやあめ玉、ガムといったお菓子が並んでいて、細かく裂いて透明の容器の中に入れられたさきいかなどもありました。
また、お店の奥にはゴム製のしゅりけんやみずでっぽうなどのおもちゃも売られていました。
おんぼろな見かけの割にはずいぶんと品ぞろえのいい、変わった駄菓子屋でした。
そんな駄菓子屋の中に、おばあさんと小さな男の子がいました。
おばあさんは駄菓子屋のたったひとりの店員で、お店のいちばん奥にある椅子に座っていて、こっくりこっくりと居眠りを漕いでいました。
小さな男の子は、駄菓子屋のたったひとりのお客さんでした。
男の子は、じいっとお店の奥に並んでいる、おもちゃのけんじゅうを見つめていました。
男の子は、そのおもちゃをとても欲しいと思っていました。
男の子のともだちが、がっこうにこっそり持ってきて、じまんしていたからです。
おもちゃのけんじゅうは何だか持っているだけでかっこう良くって、
すてきな人になれそうだな、と男の子は思っていました。
けれども男の子は、ただじいっとおもちゃを見つめているだけでした。
男の子はお金を持っていませんでした。
男の子には、ただじいっとおもちゃのけんじゅうを見つめていることしかできませんでした。
おばあさんが目をつむったまま、こっくりこっくりと、揺れていました。
晴れた春の暖かい日差しが、おんぼろなお店の軒下に差し込みます。
そうしてどれくらいの時間が経った頃でしょうか。
お店にぷんぷんと香水のにおいを振りまいて、女性のお客さんが一人、入ってきました。
女性は駄菓子屋に入るなり、
「なにをしているの」
と、大きな声で男の子に向かって叫びました。
男の子はびくりとして、お店の入り口の方を振り返りました。
店の奥で居眠りをしていたおばあさんもびくりとして、慌てて立ち上がりました。
女性は男の子のおかあさんでした。
おかあさんはぷんぷんとにおいを振りまきながら、男の子に近づいて言いました。
「ほら、もう帰るよ」
ですが男の子は、動けませんでした。
ここで帰ってしまうと、もう二度とおもちゃのけんじゅうが手に入らないような気がしたからです。
男の子は、おかあさんとおもちゃを交互に見比べていました。
やがて男の子が動かないことに業を煮やしたのか、おかあさんは男の子の肩をぐいと掴むと無理やり外へと男の子を連れ出そうとしました。
「早く帰るよ」
「いやだ」
男の子はずるずると引きずられながら、けれどもべそもかかずに踏ん張って、お店の中に留まろうとしました。
一生けんめいに、踏ん張りました。
しかし、大人であるおかあさんの力には敵わずに、ずるずると引きずられてしまいました。
男の子はやがてお店の入り口まで引きずられました。
男の子は入り口の引き戸の溝に靴を引っかけて、最後まで抵抗していました。
そんな男の子の姿を見かねたのか、店員のおばあさんが奥から出てきました。
その手には、一つのあめ玉が握られています。
「ほら、これをあげるから。今日はもうお帰り」
おばあさんはにっこりと笑いながら、男の子の手にあめ玉を握らせました。
「あら、どうもすみません」
それを見たおかあさんは、よそ行きの声を出してお礼を言いました。
男の子は、握ったあめ玉を見つめて、奥にあるおもちゃのけんじゅうを見つめて、それからおばあさんをじっと見ました。
おばあさんは困ったように笑うだけでした。
男の子の抵抗が緩んだのか、おかあさんは力いっぱい男の子の肩を引っ張って、店から引っ張り出しました。
それから家に帰った後も、男の子の頭の中はあのおもちゃのことで一杯でした。
男の子は眠くなってしまうまでずっと、そのおもちゃが手に入ったらということを考えていました。
そしておばあさんから貰ったあめ玉を舐めたまま、眠ってしまいました。
眠ってしまった夢の中でさえ、おもちゃのけんじゅうで頭が一杯でした。
夢の中で男の子は、けんじゅうが手に入ったらこんな遊びをしよう、と考えていました。
そうして起きている間も寝ている間も、ずうっとおもちゃのけんじゅうのことを考えていました。
ふと気が付くと、男の子はいつの間にかけんじゅうを手にしていました。
男の子はまずはじめに驚いて、けんじゅうを何度も何度も手で撫でまわしました。
欲しい欲しいと思っていたら、どうやら本当に手に入ってしまったようです。
男の子は喜びました。その喜びようと言ったら、風船のようにはじけ飛んでしまわんばかりの様子でした。
しかし、しばらくして男の子が冷静になって見てみると、持っているけんじゅうは駄菓子屋に売っているようなおもちゃなどでは無く、ほんもののけんじゅうであることが分かりました。
銀色に鈍く光るけんじゅうはずっしりと重たくて、ひんやりと、嫌な冷たさがありました。
それは間違いなく、ほんもののけんじゅうでした。
男の子は、知らないうちに、ほんもののけんじゅうを手に入れてしまったのです。
男の子は自分が立っている場所もどこかおかしな風に感じました。
ずいぶんと視界が高く、辺りは見たこともない荒れた野はらでした。
どんよりと曇った空に、砂が風で巻き上げられていました。
足元を見下ろすと、いつも着ている短パンやスニーカーが見当たらずに、代わりに薄汚れた制服のようなものとブーツが見えました。
男の子は自分の身長がずいぶんと高くなっていることに気が付きました。
男の子は、青年へとなっていたのです。
身にまとっているのは、軍隊が着るような制服でした。
青年はいつの間にか、戦場にいたのです。
周りを見回すと、青年の仲間と思われる兵士たちが横になっていたり、うずくまっていたり、何事か叫んでいたりしました。
そしてどこからか、パン、パンと銃声が響いていました。
青年は恐ろしくなってきて、どこかに走り出してしまおうと思いました。
しかし、青年が逃げ出そうとした瞬間、目の前の塹壕から兵士が飛び出してきて、青年の方に銃を向けました。
兵士は何事か叫びながら、青年が持っているよりずっと長い銃をこちらに向け、バン、バンと撃ちました。
同時に、青年の左腕が、かっと熱くなったと思うと、何も感じなくなりました。
あっという間に痛みが頭まで駆け上がってきて、青年は、撃たれたのだと気づきました。
痛みで思わず手の中のけんじゅうを取り落としそうになりながらも、青年は思いました。
撃ち返さないといけない。見ると、目の前の兵士がもう一度銃を構えなおして、青年を撃とうとしています。
青年は右手でけんじゅうを操作して構えました。
その瞬間、先ほどは嫌な感じがしたけんじゅうの冷たさと重さが、なんだか頼もしいように思えました。
けんじゅうの銃口を兵士の頭に向けました。
そして引き金を引いた瞬間、バン、と大きな音が響いて、銃口から出た煙で目の前が真っ白になって何も見えなくなりました。
そうしてしばらくの間、何も見えない、聞こえない状態が続きました。
ですが、その状態は周りから歓声が聞こえてきたことで終わりました。
青年が恐る恐る辺りを見回すと、そこにはたくさんの人だかりがありました。
青年が、自分のけんじゅうで撃った方向を見ると、そこには敵の兵士ではなく、木で作られた丸い的が掛かっていました。
的の真ん中あたりには弾痕が一つだけ付いていて、青年は、今自分が撃った弾がそこに命中したのだと分かりました。
「お見事! さあさあ、二発目はどうでしょうか」
もてはやす様な言葉と共に、またも周りの歓声が響きました。
どうやらここは、銃の狙いの上手さを競うコンテストか何かのようでした。なんだかみんなお祭り騒ぎで、楽しそうでした。
青年は空を見上げました。
雲が少なく、からっと晴れた、いい天気でした。どこかで屋台をやっているのか、美味しそうなにおいがします。
「どうした、がんばれ」
「この調子でいけば優勝だ」
周りの人だかりから応援する声が聞こえました。
青年は慌てて的を見直しました。
少し遠くに設置された的は、ちゃんと狙ったら誰にでも当てられそうでした。
青年はゆっくりとけんじゅうを構えると、ゆっくりと引き金を引いて、的の中心に向かってけんじゅうを撃ちました。
そして二発目、三発目、四発目と次々に弾を命中させて行きました。
青年が撃つたびに周りの人々からはどよめきが広がり、その後に歓声が響きました。
青年はなんだかちょっと誇らしくなって、思わず顔がにやけてしまいました。
五発目を撃った後、青年はちらりと観客の方を見ました。
人だかりから、凄いぞ凄いぞ、と声が聞こえます。
次に的の中央に当てたら、青年は優勝のようでした。
青年はこんなの簡単だぞ、といわんばかりに、右手の人差し指でくるくるとけんじゅうを回して見せました。
まだあと一発を撃っていないのに、観客は割れんばかりの拍手をしました。
ふと青年の目に、一人の女性が映りました。
その女性は目がぱっちりとしていてきれいな女性でした。
彼女だけは拍手をせずに、腕を組んでどこか挑戦的な目つきで青年を見つめていました。
青年はどきり、と心臓が跳ね上がるのを感じました。
急に、なんだか緊張してしまいました。それと同時に、彼女にいいところを見せてやりたい、と強く思いました。
青年はじっと女性と見つめ合った後に、けんじゅうを回し終えて構えました。
辺りが再び静まり返ります。
青年は緊張で先ほどよりずっと狙いづらくなったけんじゅうを構えながら、けれども最初と変わらずにゆっくりと狙い、ゆっくりと引き金を引きました。
そして最後の弾丸、六発目を撃ちました。
撃った瞬間、今までにないくらい周りの歓声が大きく響きました。
同時に、再び青年の視界が真っ白になりました。
そうしてしばらくの間、何も見えない、聞こえない状態が続きました。
ですが、その状態は周りから幾つもの足音が聞こえてきたことで終わりました。
青年は恐る恐る周りを見回そうとしましたが、出来ませんでした。
身体が言うことを聞きませんでした。
ただ、ぼんやりと見える視界から、自分がベッドに仰向けに寝て天井を見上げていることは分かりました。
真っ白で無機質な天井を見て、どうやら自分は病院で横になっているのだと分かりました。
周りはうす茶色のカーテンで囲まれていて、何も見えません。
どうしてこんな所に寝ているのか、身体が動かないのか分かりませんでしたが、やがてカーテンが開かれると同時に、青年は気づきました。
「おじいちゃん!」
小さな女の子がベッドに飛びつきました。
女の子はわんわん泣きながら、繰り返し、おじいちゃん、と呼びました。
青年はいつの間にか、年老いたおじいさんになっていました。
「お父さん」
「お義父さん」
と、続いてかばんを抱えたおじさんと、おじいさんと少しだけ似ているおばさんが入ってきました。
その後ろにはお医者さんとおばあさんがいます。
「ここ数日、危険な状態が続いています」
お医者さんが冷静な声で、静かに説明します。
おじいさんは思わず返事をしようとしましたが、お腹に力が入らず、声が音になりませんでした。
ひゅうひゅうと、むなしい呼吸音だけが鳴りました。
気づけば、口元にはふしぎな形をしたマスクやチューブが繋がっています。
「あなた」
おじいさんは声と共に、ぎゅっと右手を握られるのを感じました。
そこには、どこかで見たようなおばあさんが立っていました。
おばあさんは覚悟のこもった目でおじいさんをじっと見つめ、ぎゅっと力いっぱいおじいさんの右手を握っていました。
おじいさんは一生けんめいに返事をしようとしました。
一生けんめい息を吸って、一生けんめいお腹に力を入れました。
しかし、声は音にならず、ひゅうひゅうと呼吸音だけが鳴りました。
おじいさんは泣きたい気持ちになりました。
けれども、なんだか暖かい、安心した気持ちにもなりました。
どこかで嗅いだことのある花の、つんとした香りがしました。
おじいさんを囲む周りの人たちも、なんだか暖かい目をして、じっとおじいさんを見つめていました。
女の子だけが、わんわん泣いていました。
「そうだ、お義父さん」
突然おじさんが大きな声を出しました。
そして、大きな音を立てて、持っていたかばんをさぐって、なにやら取り出しました。
「これをお義父さんに渡そうと思って」
おじさんはそう言うと、重たくて冷たい何かをぎゅっとおじいさんの左手に押し付けました。
おじいさんにはすぐにそれが何か分かりました。
それはけんじゅうでした。
「義父さんの腕前には最後まで敵わなかったけれど、俺もいいところまでいったんだ」
その言葉に、おじいさんの周りのみんなが苦笑しました。
そしてみんな、じわりと涙をにじませました。
「ありがとう、義父さん」
「ありがとう」
「ありがとう」
そして彼らはそう言うと、ゆっくりと、名残惜しそうに離れ、カーテンの向こうへと行ってしまいました。
おばあさんは最後までぎゅっとおじいさんの手を握っていましたが、
「ありがとう、あなた」
と言うと、そっと手を離して、何度も振り返りながら病室を出ました。
女の子は、最後までずっとわんわん泣いていました。
病室が静かになると、おじいさんはなんだか眠たくなってきました。
ゆっくりと、しかし確実に、視界に闇が広がってきました。
瞼が重たくて、抵抗できません。
このまま眠ると、ずっと目が覚めないような気がしました。
けれどもおじいさんは恐いとは思いませんでした。
なんだか暖かい、安心した気持ちで、その闇を受け入れることができました。
右手のおばあさんの温もりが消えて、何も感じなくなってしまう前、おじいさんはおばあさんを思い出して、ぱっちりとした目のきれいな女性を思い出しました。
ああ、あの時の女のひとだったのか。
おじいさんはそう合点するなり、真っ暗な眠りへと落ちていきました。
いつの間にか、左手の重みと冷たさが消えていました。
頭がぐるぐるとして、気持ち悪い、と感じました。
そして耐えられない吐き気と同時に、おじいさんは身を起こしました。
目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋でした。
身体を起こすと、ずいぶんと小さい自分の手や足が見えます。
おじいさんは、男の子に戻っていました。
男の子は吐き気とめまいに襲われながら、今見たものは何だったのだろう、と疑問に思いました。
しかし、いつまでたっても答えは分かりません。
外を見ると、空は薄暗くなり始めていて、もう夜になろうとしていました。
けれども、西の空の向こうの方は、まだぼんやりとした赤みを持っていました。
男の子は自分の手のひらを見つめました。
小さくて、つるつるとした、こどもの手のひらでした。
けれどもその手には、はっきりと、あの冷たさと重さが残っていました。
男の子はベッドを勢いよく飛び出すと、走って家を飛び出して、駄菓子屋へと走っていきました。
おばあさんから貰ったあめ玉はいつの間にか粉々にかみ砕いてしまっていました。