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第19話 不在そして嘘

「お前、何て名前だ?」


 俺は目の前でくすんくすんと泣いている小さな女の子に声をかける。


「ひっく…サ…クラ…ひく」


 泣きながらも何とか自分の名前を言う。


「サクラか…、お前迷子なのか?」


 俺がそう言うとサクラという少女はより一層声を高めて泣いた。焦った俺はその子を宥めようと大慌てでこう言った。


「お前の親、俺が一緒に捜してやるから泣くなよ、な?」


 その子はくりくりの大きな目をさらに大きく開き、ほんとう? と、舌足らずの声で聞いて来た。俺がうんと、頷くとたった今泣いていたはずの少女は嬉しそうにうふふと笑った。


「おにいちゃんのお名前なんて言うの?」


「てつはる」


「てつはう?」


 まだ小さい女の子には、俺の名前は言いづらかったようだ。


「てつでいいよ」


「てつ? てつおにいちゃん」


 嬉しそうに俺を呼ぶ女の子、うんと、俺は返事をする。


「えへへへ、てつおにいちゃん」


 うん。俺の名を何度も何度も飽きずに繰り返す、俺はくくっと笑って、それでも何度でも返事をする。


「てつおにいちゃん、だいすき!!!」


 女の子は俺目掛けて飛び付いて来た。俺はなんとかその子を受け止める。女の子はくすくす可笑しそうに笑っている。


「ありがとう、てつおにいちゃん」


『有難う…、哲さん……』


「大好き! てつおにいちゃん」


『大好き……、哲さん』


 あれ? サクラ? 君はサクラなのか? その疑問が頭の中を掠めた時俺は目を覚ました。

 小さな女の子の夢……。酷く懐かしく、心なしかくすぐったい。その小さな女の子もサクラと名乗っていた。夢の中の俺は、小学生の高学年くらいだったと思う。不思議に思いながら、ベッドの横に置いてあるねんきものの目覚まし時計に目を向ける。7時を少し過ぎていた。とてもじゃないが、もう一度寝る気にはなれない。

 部屋を出て、風呂場に入って行った。シャワーを浴び、居間に入るといつもと確実に違う事が分った。

 サクラがいない。

 いつもなら早起きのサクラが、居間にも台所にもベランダにもいない。今まで一度だってそんな事はなかったのだ。一気に俺は不安になった。


「サクラ?」


 俺はサクラの部屋をノックしたが、中からの返答は勿論なんの気配も感じられない。嫌な予感を全身に感じながら、俺はドアノブに手をかけた。ゆっくりとドアを押し上げる。部屋にサクラの姿はなかった。俺の中であらかじめ分かっていた。やっぱりと俺は脱力した気分を感じていた。そして、気持ちは酷く焦っていた。裸のままで飛び出してしまいたいほどに俺は急いていた。

 タクローは? 俺は居間の炬燵の布団をまくし上げた。炬燵の中はタクローのお気に入りの場所で、夜はいつもここで寝ているのだ。そこにタクローはいた。


「タクロー、サクラがいないんだ! 起きろよ!!!」


 俺は炬燵に首を突っ込んで、タクローの体を無理矢理引き摺り出した。タクローがいるって事は、まだ天上界には帰ってないのかもしれない。俺はタクローが起きるのを待っておれず、自分の部屋で急いで着替えると上着と財布を掴むと部屋を飛び出した。

 もしかしたら、コンビニに何か…そうだ醤油が無くなったから買いに行ったのかもしれない。俺が道路に出た途端、キョトンとしたサクラと出くわすかもしれない。


「哲さん、そんなに慌ててどうしたんですか?」


 と、俺の大好きなあの笑顔で俺を見て笑うんだ。

 だが、俺は知っていた。そこにサクラがいない事を。体のどこかで、心のどこかで俺は感じていた。サクラはもうここにはいないのだと。

 それでも俺は走った。サクラの姿を追って…。サクラの姿を求めて…。サクラの笑顔が見たくて…。

 

 夕方、へとへとの俺が最後に辿り着いたのは東京タワーだった。昨日、サクラと二人で訪れた場所。

 俺は、東京タワーを真下から見上げ、ごくりと唾を呑んだ。一人で展望台に上がるのは初めてだ。俺の全身に緊張が走る。どうにかエレベーターに乗り、展望台へと。冷汗が背中を伝い落ちる中、エレベーターを降り、サクラの姿を捜す。捜している間、俺は無我夢中で、恐怖なんてこれっぽちも感じない。

 何で俺は、こんなに必死でサクラを捜しているんだろう? 何でサクラがいないという事がこんなに不安なんだろう?

 俺はサクラを必死で捜しながら、そんな事をぼんやりと考えていた。だが、いややはりサクラを探し出す事は出来ず、俺はぐったりと部屋に戻った。


「お帰りなさい」


 俺は、その声にハッと顔をあげた。そこにいたのは、白猫のタクローだった。どうかしている……、タクローの声をサクラのものと聞き間違えるなんて…。


「ただいま…」


 俺の声は暗く沈んでいた。サクラがいないという事は、晩飯もないという事だが、とても食べる気にはなれなかった。炬燵に入ると、いつものようにタクローが俺の膝の上に乗った。


「タクロー、サクラがどこにもいないんだ」


 俺がそうタクローへ話しかけると、タクローは炬燵の上にひょいと飛び乗り、俺の正面に座った。


「サクラ様は、天上界へ戻られたそうです」


「まだ3ヶ月には、今日を入れて3日あったじゃないか、何で急に帰ったんだ?」


「哲さん、昨日サクラ様に何か仰いましたか? 例えば、綾乃さんに関する事とかで」


 何故そんな事をタクローが今聞いてくるのか不思議に思った。


「綾乃とやり直してみるって言ったよ」


 俺が首を傾げながらそう言うと、タクローは苦い薬でも飲んだような渋い顔をした。


「それですね」


「はっ?」


「だから、サクラ様が帰られた理由ですよ」


 俺には何が何だか分からず、次第に苛々してきた。


「何だよ、タクロー。何か知ってるなら早く言え!!!」


 俺の怒鳴り声などもろともせず、タクローは話し始めた。


「サクラ様が哲さんに言った3ヶ月で恋を知らなければならないという課題、あれは全て嘘です」


「嘘?」


「はい。サクラ様は、初めから恋を知っていました。サクラ様の想い人はこちらにおりました」


「どういうことだよ」


 タクローが初めからお話しますと、前置きして口を開いた。


 サクラ様は、5歳の時に落っこちて地上で迷子になった事があります。泣いているサクラ様を助け、一緒にサクラ様のお母様を捜してさしあげた男の子がいました。サクラ様は、すぐにその少年に懐き、そして恋を知ったのです。サクラ様は今もなおその少年をお好きでいらっしゃいます。サクラ様はどうしてもその少年に会いたくて、一緒にいたくて、ミカエル様に地上に行かせて欲しいと何度もお願いしました。やっとその願いは叶えられたのですが、一つ条件があったんです。三ヶ月の間にその少年がサクラ様をお好きになったら、いつもで地上への出入りを認める、ですが、その少年がサクラ様をお好きにならなかったら地上には二度と降りてはならない。


「もう……、お分かりですよね? サクラ様のお好きな方が誰なのか。何故、お戻りになられたのか」


「俺……なのか?」


 タクローは俺を見つめ、静かに頷く。


「でも、俺、サクラが好きなのはタクローだと思って」


「とんでもない!!! 私が幼い頃から何度サクラ様に哲さんの事をお聞きしたことか。サクラ様はもうこちらには戻って来れません。綾乃さんとやり直すと聞いて、お諦めになったんでしょう。これ以上こちらにいてもお苦しいだけですから」


 俺はタクローの声を耳の奥の方で微かに感じながら、体は勝手にふらりと歩き出し自分の部屋へと入って行き、そのままベッドへ倒れこんだ。

 今朝がた見た夢は、俺の子供の頃の記憶。そして、最後に重なって聞こえてきていたサクラの声。今朝、サクラは俺の部屋に来て、そう挨拶して行ったに違いない。

 俺は今、無性にサクラに会いたい。隣にいないサクラの残像が俺の胸を捕らえて放さない。近くにいすぎて、ここにいるのが当たり前になっていて、気付くのが遅すぎた。自分の本当の気持ちに。あんなに必死に誰かを求めて走ったのは初めてだ。今日一日サクラの事しか考えていなかった。サクラの事しか考えられなかった。理屈じゃない、体が感じている。


 俺は……サクラが好きなんだ……。


 そう自覚した時、俺の鼓動が尋常じゃないほどに鳴り響く。だが、もうサクラはここにはいない。あの日と同じように、愛する人が俺の前から消えた。



 翌日。俺は綾乃を呼び出した。綾乃は俺に呼び出された事が嬉しいのか、笑顔が輝いている。

 人気のない公園で、ブランコに腰掛け、隣でブランコを揺らしている綾乃を見る。


「俺、綾乃の事凄く好きだったよ。今でも好きなんだと思う……」


「じゃあ!」


 綾乃の笑顔がぱあっと広がった。

 俺はこの笑顔をすぐに暗いものに変えなければならないのだ。奥歯をぎぎっと噛みしめて、続きを口にする。


「違うんだ。確かに綾乃の事は今でも好きだ。でも、あの頃とは違う。あの頃の様には好きになれないんだ」


 案の定綾乃の笑顔が一気に萎んだ。


「もう、恋人にはなれないって事?」


「ああ、ごめんな」


 俺は綾乃から目を逸らさずにそう言った。


「やっぱりあの子なの?」


 俺は黙って首だけ上下に動かした。


「でも、あの娘帰っちゃったんじゃないの?」


「ああ、でも何とかして、自分の気持ち伝えようと思う。出来れば戻って来て欲しいって思ってる。綾乃が俺の前から消えたあの頃、俺ただ待ってる事しか出来なかったんだ。怖かったんだよ、綾乃にふられるのが。でも、もう後悔はしたくないんだ。あの頃の想いは二度とごめんだ」


「そっかぁ、遅かったか」


 ごめん、と俺は綾乃に頭を下げた。

 綾乃の目から涙が零れ落ちていた。抱きしめたいと思う手を必死に押し留めた。今、綾乃を抱き締めることは、残酷な事だと思うから。俺は手に力を入れ、食いしばっていた。


「ごめんね。泣いたりして、元はと言えば私が何も告げずに消えたからなんだし、今更虫が良すぎるよね。ありがと、真剣に私の事考えてくれて。もう私行くね」


 ああ、と返事とも唸りともとれる声が俺の口から漏れ出た。俺は綾乃の後姿を見送る事しか出来なかった。ふいに綾乃が振り返った。


「私達…友達かな? また、私会いに来てもいいのかな?」


「当たり前だろ」


 そっかぁ、と微笑んでまた歩き始める。だが、すぐに歩を止めた。振り返らずに綾乃はこう言った。


「もし、サクラちゃんが現れる前に私が哲の前に現れてたら、答えは違うものだったのかな?」


「ああ、そうだったと思う」


 綾乃は振り返り笑顔を見せた。一生懸命な笑顔。泣くまいとしているのが、痛いくらいに分かる。


「えへへっ、私って間が悪いな本当に…」


 綾乃の顔は笑っているが、その瞳からは涙がぽとりと零れ落ちる。次から次へと。俺は思わず、綾乃の元へ駆け寄ろうとした。


「来ないで!!! 大丈夫だから……」


 泣きながら、精一杯の強がりを言う綾乃。またねと、大きく手を振って俺に背を向けた。ぴんと背筋を伸ばし、美しく颯爽と。俺は綾乃の姿が見えなくなるまで、その後姿を見ていた。

 一つ大きな溜息をつき、天を仰ぐ。空はどこまでも青く、太陽は力強い光を放ち、遠慮がちに昼間の月が白く浮かび上がっていた。

 よし! と一つ掛け声をかけて、俺は歩き出した。


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