第17話 過去
俺達はアパートへと向かっていた。
俺の腕に綾乃は絡み付いて離れようとはせず、俺はそれを抗えない。その少し後ろをサクラは無言でついて来る。俺には、サクラがどんな表情をしているのか、どんな感情を抱いているのか窺い知る事は出来ない。
アパートに着くと、俺は綾乃を居間に通し、炬燵に入るようにそくした。サクラはお茶を用意するため、台所へと消えた。
「俺達はもう終わっているよな? 何でキスなんてした?」
俺は綾乃にそう尋ねると、彼女は苦しそうな表情を浮かべた。例え今の気持ちが綾乃に向いていなくても、綾乃の苦しそうな表情は見たくなかった。
「ごめんなさい。突然あんなことして。でも、私は今でも哲が好きだよ。聞いてくれないの? どうしてあの時何も言わずにあなたの前から消えたのか…。もう私の事なんて興味無くなっちゃったのかな?」
綾乃は寂しそうにだが、微笑んで俺にそう問いかけた。
「何か……理由があったのか?」
俺は綾乃がただ俺を嫌いになったから俺の前から消えたんだと思っていた。違うのか? 綾乃はこくりと頷くと、ゆっくりと口を開いた。
「私のお父さんの転勤があの2、3ヶ月前には決まっていたみたいなの」
綾乃はそこで喉が渇いたのか、一度話を中断すると、サクラが入れたお茶に手を伸ばし、ごくりと一口飲んだ。そして、再び話し始めた。
綾乃の話はこのようなものだった。
綾乃の両親は転勤が決まってはいたが、綾乃にそれを伝える事はしなかった。何故か? それは、俺の存在があったからだ。俺の存在があるが為に、綾乃が転勤を拒むだろうと踏んでいたからだ。その大分前から、父親と綾乃との俺との交際についての言い争いは多発していた。そんな折に転勤とくれば、綾乃がこちらに残ると言い張ると両親は考えた。もし、娘を一人でこっちに残し、親の目の届かない所に置いたら、俺とどんなふしだらな関係になるかもわからない。娘を持つ父親にしてみれば、大切な愛娘を一人暮らしさせ、男が部屋に入り浸ってしまったらと心配になるのも頷ける。
綾乃は何も知らされず、ある日突然父親から出掛けようともちかけられる。ケンカが絶えなくなっていた親子関係を修復するために少し気分転換に出掛けようと言われ、日頃反発ばかりしている自分を申し訳なく思いその申し出を受けた。行先も何も伝えられぬまま、車に乗り込み、連れていかれた先が引っ越し先だった。そこに着いて初めて、綾乃は父親から「今日からここに暮らす」と言われた。戻りたかった綾乃だが、荷物も何も持たずに車に乗らされ、母親とその他の荷物はまだ向こうに置いてあった。携帯もない、電車に乗るお金もない、アドレス帳もない、その場で綾乃にする事が出来るのは母親と荷物が来るのを待つ事だった。だが、荷物が来たのはいいが、いくら捜しても携帯もアドレス帳もどこにもなかった。両親に携帯を解約され、アドレス帳はどこかに隠されたか、捨てられたかしてしまった。
その日から、綾乃は両親の説得を試みた。どんなに月日がたっても俺への思いは消える事はなかった。
「やっと、両親がこっちに来ること認めてくれたの。もう、誰と付き合おうと文句は言わない……。やっと……やっと会えたんだよ」
俺は、すぐにはこの綾乃が語った事実を整理する事が出来なかった。綾乃に何を言ってやればいいか分らず、俺はただ呆然と彼女を見ていた。
俺との事を認めて貰う為に、両親を説得していたんだ……。
俺の頭の中では、目まぐるしいくらいに思考が右往左往している。何から考えればいいのか、何を考えればいいのか、それさえも分からず、迷宮に迷い込んだようだった。
「好きな……子が、出来たの?」
綾乃はちらっとサクラを見た後、俺の目を見据えた。綾乃の目は切なそうに少し濡れていた。
「好きな子……」
俺は、きゅっと強く目を瞑った。それから、サクラをちらりと見た。サクラは無表情で、顔色一つ変えずに俺と綾乃の事の成り行きを見ている。
「その子が、好きなの?」
俺の視線がサクラに動いたのを綾乃は見過ごさなかった。
「いや……」
「私、哲が好き。大好き。ずっと……ずっと好き。だから、今はその子が好きでも私絶対あきらめない。絶対振り向いてもらえるように頑張る」
「綾乃。待てよ。誤解だ。俺には、今、好きな女はいない。ただ、もうふられたんだと思ってたんだ。もう、お前の事は諦めてた。綾乃が俺の前に突然現れて、正直驚いてるんだ。少し時間をくれないか。気持ちの整理がしたい」
綾乃は小さく分かったと呟き、帰って行った。
「哲さんも隅におけませんね。あんな奇麗な彼女がいたなんて」
いつからいたのか、タクローが俺の膝に飛び乗るとそう言った。俺の膝に乗るのが、最近のタクローのお気に入りだ。
サクラは、綾乃が飲んだコップを持って台所に消えた。
「別に…」
「彼女の方は、哲さんに夢中のようでしたね」
「こんなに突然現れるなんて思わなかった。どうしたらいいんだ?」
「哲さんの休暇もそろそろ終わりですね」
「休暇?」
「そうです、もう面倒臭いはお仕舞いでしょ」
俺の膝で流暢な日本語話す白猫を見て、俺は溜息をついた。
「おい、タクロー。好きってどんな感じだったっけ? 俺分かんないや」
もう成人している大の男が、こんな質問をしかも猫にしているなんて、自分を酷く情けなく思った。
「そうですね、人を好きになるとその人の言動や行動一つで良くも悪くも一喜一憂してしまう。その人がいるだけで世界が変わるでしょうし、自分の意思とは無関係に体が、心が様々な感情を感じます。嬉しい、悲しい、切ない、苦しい、喜び、嫉妬、感動。感じて下さい。ありのままにそうすれば自然と分る筈です。あなたが誰といる時に心が動かされるのか…」
誰といる時に心が動かされるのか……。
そうか、確かに俺が高校生の時、綾乃といるといろんな感情を抱いたものだった。綾乃は男女ともに人気があったから、自慢に思う気持ちもあったが、それと同時に酷く心配だった。他の男と話しているのを見て、嫉妬なんかもした。会えない時は声を聞くだけで嬉しかった。初めてキスをした時は心臓が飛び出すんじゃないかと思うくらいドキドキした。
俺はそんな簡単な事も分からなくなっていたのか。あとは、俺が今誰といる時に心が動くかをただ感じればいいのだ。難しい事は考えずに、ただ感じれば。
「サンキュ、タクロー。なんかちょっと分かった気がするよ」
それは良かったですと、タクローは満足そうにそう言った。
「なあ、タクローもサクラが戻る時に一緒に戻るのか?」
「そうですね。そうなります」
タクローは少し寂そうな顔をした。
「寂しくなるな」
はいと、タクローは低い声を出した。俺とタクローが話している間中、サクラは台所に閉じこもっていた。いつもの元気も笑顔もない事に俺は不安を覚えた。
膝の上のタクローをおろすと、俺は台所に行った。サクラは夕飯の支度でなべに火をかけたまま、ぼんやりとどこかを見ていた。その後姿が酷く悲しそうで、後ろから抱き締めたいと思った。だが、俺はそれをしない。
「サクラ? どうした?」
ビクッと体を一瞬硬直させたサクラは、俺を振り返り見ると、微笑んでみせた。俺は思わず、サクラを引き寄せ少し乱暴に抱き締めた。
「なんでそんな顔をする? 何がそんなに悲しいんだ?」
俺はサクラの悲しい顔を見るのが辛かった。苦しい気持ちを絞り出したためか、俺の声は掠れていた。
サクラは、少し俺から体を放すと、笑顔を作り俺を安心させようとした。
「大丈夫です。ちょっと疲れただけですから」
いつものように元気な声を出した。だが、俺にはその笑顔も元気の声も、到底いつも通りには思えなかった。
だからといって俺に何が出来る? タクローと何かあったのか? そんな辛そうな顔をするほど、あいつが好きなのか?
俺は、口に出来ない言葉を心の中で何度も呟いた。
皆さんこんにちは。
先週は、身内に不幸があった為、更新することが出来ませんでした。今日からまた、予定通り更新して行きたいと思います。
宜しくお願いします。