第10話 智弘
その日の夜、智弘は8時くらいに訪れた。
「よお、これ手土産だ」
そう言ってコンビニのビニール袋を差し出した。中を見るとビールとつまみが数種類入っていた。俺はさんきゅと言って袋を持ち上げた。
「あがれよ」
俺は智弘を中に通した。居間に行くと炬燵に入るように促した。
今日は智弘が来るという事で、サクラが鍋を用意していた。サクラが台所で下準備をしている。智弘が来る前までは俺も手伝っていたが、智弘の相手をするため俺も炬燵に入った。
炬燵に足を入れた途端、みゃあという猫の叫び声が俺の耳に届いた。
「ああ、悪いタクロー。そこにいたのか」
俺は炬燵の中を覗き込んでそう言った。タクローは俺とサクラ以外の人間がいる時には猫らしくにゃあとかみゃあと鳴く。俺に思いきり蹴飛ばされたタクローは、にゃあ
と非難がましい声で鳴いた。猫語で喋っていても何となく言いたい事が分ってしまう。
「お前ん家猫飼ってたっけ?」
その問いに俺は、ああ最近なと、返答した。飼っているというより居候しているというのが厳密なところなんだが、そんな事を智弘に話したら変な顔をされるだけだ。
そんな事をぼそりぼそりと話していると、台所からサクラに鍋を運ぶのを手伝って欲しいと要請があったので、俺はおうっと低く答えて炬燵から出た。俺のそんな姿を見て、智弘は笑いをかみ殺している。
「何だよっ」
「いや、くくっ、あの面倒臭がり屋の哲がサクラちゃんの言う事だったら案外素直に聞くんだなって思ってさ」
笑いをかみ殺していた智弘だが、そう口にすると、どうやら我慢しきれなくなったらしくけらけらと笑いだした。
「んなわけあるかよっ」
けらけらと笑い、面白いものでも見るように俺を見ている智弘をぎろっと睨みつけた。
「だってお前、陽の事もなんだかんだ文句言ってたけど、結局手伝ってたじゃんか。夕方あいつに会ったけど、お前らにすっげえ感謝してたぞ」
「別にあれは成り行きだよ」
それだけ言うと、俺はまだ何かを言おうとしていた智弘を完全に無視して台所に入って行った。
鍋をつつき、ビールを飲みながら食事中は他愛ない話を繰り広げていた。鍋も終わりサクラの洗い物も終わり一段落した頃、俺は昼間の話を切り出した。
「で、お前の彼女は妊娠してんのか?」
「ああ、そう言ってる」
途端に和やかな空気が重苦しいものに変わって行った。サクラも台所から戻り、俺の隣に座って俺と智弘の話を聞いている。
「お前の子なのか?」
「そう言ってる。俺あの時お前と同じ事を聞いてぶたれたんだ。見てただろ?」
「そんな風に聞かれたら女の子は誰だって傷付きますよ。妊娠したってなったら一番怖いのは女の子なんですから。それをそんな風に言われたら自分の事信じて貰えてなかったんだって思いますよ」
今まで黙って聞き役に回っていたサクラが口を挟んだ。
天使でもこういう女の心理が分かるのかと疑問に思った。それにサクラは恋などした事がないはずだと訝しげに見やると俺の視線に気づいたのか、慌ててこう付け加えた。
「私の友人の一人に同じような状況の人がいて、間近でそういうの見てたんです。本当に辛そうだったから」
にこりと笑ってこちらを見るが、目は笑っていないようだった。何となくおろおろしているようにも見える。サクラは何かを俺に隠しているのかもしれない。それがどんな類のもので、重大な物かたいした物でないのかも俺には知る由もない。
それよりも今は智弘の事が先決だ。
「智弘は率直にどう思ってるんだ? お前の子供だった場合どうする?」
サクラは俺の疑いの眼差しから解放され、明らかにホッとしている。考えている事が一々分かり易い。
智弘は、下を向いていた顔を上げ、俺の顔をしっかと見据え落ち着いて話し始めた。
「俺さ、お前達はきっと女たらしだとか思ってるかもしれないけど、いや実際そうだったんだけど……」
俺はここで大きく何度か頷いた。俺の正直な反応に智弘は苦笑を漏らした。
「あいつと付き合ってからは、他の子と連絡とったり、二人きりで会ったりしてないんだ。携帯のアドレス帳も遊びの女のはあいつの前で消して見せた」
これはしばらく前から俺も気付いていた事だった。あんなに毎日違う女と連絡とったり、会ったりしているようだったのにある時それがパタリと止まった。俺は一時的なものだろうと考えていたのだがどうやらそうではなかったようだ。
「俺、自分でもびっくりしたんだけど、女に本気で惚れたの初めてなんだ。こんな事サクラちゃんの前で言うと引かれるかも知れないけど、女なんて暇つぶし、性欲を解消するための都合の良い道具って位にしか思ってなかったんだ。何人もの女を泣かせてきたし、傷つけて来た」
知ってるよ、智弘。なぜか俺の所に文句を言いに来た女が何人もいるよ。宥めるのに苦労したし、何で俺がこんな目にあわなきゃならないんだって思ったりもしたさ、でも俺はどうせお前に言ったところでどうにもならない事も知っていた。だからお前は知らないだろう、俺の陰の苦労を。
「あいつと会ってから、他の女なんてどうでもよくなった。あいつだけいてくれれば良かった。べた惚れだよ。俺初めて嫉妬したんだ。ただ、あいつが他の男と喋ってるだけで、はらわたが煮え繰りかえるように苛々した。この俺がさ、今までだったら会ったその日にはやっちゃってたのにな、あいつには怖くて手出せなかった。キスすら出来なかったんだよ」
智弘が自嘲気味に笑った。これには俺も驚いた。智弘は、合コンでお持ち帰りが常識な男。そんな男が初日に何も出来なかったなんて、天地がひっくり返るほどの驚きだった。
「今時、中学の餓鬼でももっと早いと思うが、キスするまでに1か月もかかったよ。俺って結構ヘタレだろ?」
「それだけ本気だったってことだろ。もしかしたら、これがお前の初恋なんじゃないのか?」
「初…恋…か。恥かしい話そうなのかもしれないな。こんな気持ち生まれて初めてだよ。結婚するんだったらあいつしかいないって思ってるよ」
智弘が初恋を語っている。遊びなれた男の初恋。
「じゃあどうしてあんなこと聞いたんですか?」
またサクラが堪りかねたのか口を挟んだ。俺が今聞こうとしていた事だった。
「ああ、確認して俺の子だって分かったら結婚を申し込むつもりだった。俺、あいつとやる時は必ず避妊してたんだ。もし、学生で妊娠なんてしたら体の負担とか女って何かと大変だろう? だから、妊娠とかは、絶対結婚してからだって考えてたから俺結構注意深くやってたつもりなんだ。疑ってたわけじゃないけど、確認をしておきたかったんだ。その上でプロポーズしたかったんだ」
「コンドームも100%じゃないからな」
ああと智弘が呟く。俺が横目でサクラをちらりと窺うと真っ赤な顔で俯いていた。どうやらこの手の話に全くの無知識ではないらしい。あまりの生々しい話にまだまだおこちゃまなサクラにはついていけなかったようだ。
「お前の気持ち、きちんと彼女に伝えてやれよ。もしなんだったら、いまここに来て貰ってもいいし。もし第三者が立ち会った方が話がいい方向に行くんなら」
俺のその申し出に、少し迷っているようだった。
「でも、お前とサクラちゃんに迷惑かけちゃうんじゃないか?」
「そんなの全然構わねえよ。な、サクラ?」
俺は隣に座るサクラに同意を求めると、すごい勢いで頭を上下に振った。