静かな湖畔の森の陰から
「ここからなら城も良く見えるな。」
木々の間から顔を覗かせたキルトランスが呟く。
「そうだね、ここからなら城にもすぐに行けそうだ。」
湖を挟んでキルトランス達と城との距離は約4キロ。
城の物見塔からの監視を避けるために森の手前で低空飛行に移行して森のすれすれを飛びながら湖畔手前に着地した一行は、少しだけ森の中を歩いて湖畔に到着した。
足場の悪い森の中をアリアが歩くのは大変で、途中からキルトランスが浮かせながら歩くことになった。
対岸に見える広い城壁は上空から見ると五角形をしており、一辺の距離が約3キロメートルほど。当時としては世界最大規模の城壁を誇る、帝国の威信を体現したような荘厳なものであった。そしてその中央にそびえ立つ城はひときわ高かった。
キルトランスはこの城に思い当たる節があった、この特異な形は間違いなくアルビから来て当初に近づいた城塞都市であった。
その時の彼には、そこがそんな大層な場所だとは思ってもおらず、今になって思い返せば、人間たちが必死になって防衛したのも当然の事であった。
当時を思い出しながら少しだけ申し訳ない気持ちになっていると、後ろからレッタの声がした。
「そこの男二人。今からアタシがいいって言うまで絶対にこっちを向くんじゃないぞ。」
「どうしたのだ?」
思わず振り返ろうとするキルトランスをホートライドは諌めると、苦笑しながら首肯した。
「まあ、ここは大人しく聞いておこうよ。恐らくレッタの徹夜の理由が分かるからさ。」
「……?」
何のことか皆目見当がつかないキルトランスではあったが、とりあえずレッタの命令に従う事にした。
背後で少女たちが歩いて少しだけ離れる音が聞こえた。どうやら茂みの奥に行ったらしい。
改めて湖畔越しの城を見ていると、何艘もの船が見えた。
「あれはなんだ?」
「……どれ?船の事?」
最初、何を指しているのか分からないホートライドであったが、当たりを付けて尋ねる。
「ふね、と言うのか?」
「水の上に浮いている物だろ?」
「うむ。」
「あれは船って言って、人や物を運ぶ乗り物なんだ。」
とかく全知全能と思われがちがドラゴンが、そんな質問をする事が少しだけ面白くて、ホートライドは少しだけ口元を歪めながら答えた。
だが思い返してみれば、空を自由に飛べるドラゴン達の世界に船が無いのは当然であり、それを知らぬと笑うのは筋違いという物である。
「まあ、僕も見たことはあるけど、乗った事はないんだけどね。」
「あれに乗って城に行くのか?」
珍しくキルトランスの興味が覗える声色。
「いや、あの船はたぶん僕ら普通の人は乗れないと思うよ。」
頭を掻きながらホートライドが答えると、少しだけ残念そうに喉を鳴らすキルトランス。
「僕とレッタは湖畔を歩いて城に向かう。」
湖畔をぐるりと視線で追いながら答えるホートライド。ラヤ湖は直線距離にすればたった数キロではあるが、周囲を回っていくとなると、それなりの距離になる。それに対して少しだけ意外そうに答えるキルトランス。
「レッタも行くのか。」
その問いに苦笑しながら返すホートライド。
「うん、そのつもり。もっともレッタにはまだ言ってないけどね。」
「何のために?」
「だって……レッタは僕よりも弁が立つし。」
「なるほど。」
即答するキルトランス。
「あと、度胸あるしね。」
そう言って苦笑するホートライドに素直に首肯するキルトランス。
共に暮らしていて、彼女の弁と度胸は嫌と言うほど感じていたからだ。
その時、背後から噂の当人の声がした。
「二人とももういいよ。」
ゆっくりと振り返った男たちの目に飛び込んできたのは、新しい服に着替えたエアリアーナであった。
質素ではあるが、手のかかった良質な生成りと分かるスカートには、キルメトア南部の刺繍が施されており、いつものスカートよりも丈が長かった。
レッタも付けている胴衣は森に馴染む深緑であり、純白のブラウスの袖は綺麗なレースが施されたゆったりとしたバルーンであった。そしてその白い服に彼女の漆黒の髪がとても映えていた。
その変わり様は昨今、レッタが仕立てた紺のメイド服を見慣れていたキルトランスには、一瞬誰かと分からなくなるほどであった。
「……ちょっと。アンタたち何か言いなさいよ。」
呆気にとられている男二人に業を煮やしたレッタが、アリアを抱き寄せながら感想を求めた。
「ちょ、ちょっとレッタ……。恥ずかしいよ……。」
自分が着せられた服がどんなものなのか分からないアリアは、体の前でもじもじと手を組む。だが、彼女にとっては自分が着ている服は他人の評価が全てなのだ。
つまり今の自分の価値はキルトランス、そしてホートライドのこれから出るであろう言葉によって決定するのだ。そしてレッタの口からの評価を当てにはしていなかった。どうせ何を着ても彼女は褒めるだけであり、まして彼女の価値観に合わない服など、アリアに着せようはずもないからだ。
木漏れ日の当たる湖畔の彼女は、今、まな板の鯉もしくは絞首台の罪人のような気分で神妙に立ち尽くしているのであった。
キルトランスは不思議な感覚に戸惑っていた。
振り返って彼女が目に映った時、彼が一番最初に感じたものは、恐らく「美しい」という形容が近かっただろう。
ドラゴン界にも美醜の基準はある。傷一つない角、張りのある翼、傷一つなく波打つ鱗。強くしなやかな肉体と豊かな魔力を持つ者は、やはり美しいとされてきた。
そして自然に対する畏敬もあり、時折世界が作り出す刹那の絶景に対してもまた、美しいと形容する事はあった。
ただ、それはあくまでも同族世界の基準の話であり、他種族の美的観点など理解できない場合も多く、まして種族内での美醜など意識すらしたことがなかった。
だからこそ、今、柔らかな陽光を浴びる目の前の人間の少女の姿に対して抱いた意識に戸惑ったのだ。
翼も角も持たない人間の少女、彼女に対して自分は何をもって「美しい」と感じたのだろうか?
この美しいと思った心は、ドラゴンニュートの自分だけの基準であり、ともすれば彼女たち人間の基準とは大きく異なっている可能性すらある。
果たしてそんな言葉を彼女に送る事が正しいのであろうか?
だが、考えても答えは出なかった。
他種族であろうが、長く共に過ごせば美的基準が共感できるようになるものなのか。
その時、キルトランスの口からぽつりと言葉が漏れた。
「……美しいな。」
なぜなら、キルトランスの無言を「そういう意味」だと思ったアリアの表情が少しだけ曇ったからだ。
その曇った表情を見た瞬間にキルトランスの口から思いもよらず言葉が漏れたのだった。キルトランス自身が驚くほどにすんなりと。
そして彼のその低い声が彼女の耳に吸い込まれると、まるで萎れていた草が水を与えられたが様に彼女の表情に喜びが溢れた。
だがその喜びは少々溢れすぎて、頬は染まり耳朶まで赤くなってしまい、彼女は何も言い返すことが出来なかった。
そして彼の言葉を横目で見たホートライドが少しだけほっとした顔で言葉を述べた。
「さすが、レッタが徹夜で作った渾身の作だね。アリアにすごく似合ってると思うよ。」
彼は自分の思い人が目の前に居る手前、アリアの容姿を褒める気にはならなかった。だがその人が作ったと分かっている手前、服を褒めないわけにもいかない。そう悩んだ彼が\逡巡の末に出した感想がそれであった。
だがホートライドは心中複雑な気分であった。
元々その服は彼女が二年前の村祭りの時に初めて両親から誂えてもらった一張羅であった。
秋の澄み切った空気の中、赤々と燃える松明に照らされて楽しそうに踊るレッタの姿がまぶたの裏に焼き付いている彼からすれば、その服をアリアが着ているというのは何とも言えない気持ちにならざるを得なかった。
「その服……どうするの?」
出立前日の夜、部屋で荷造りをしていたレッタが自分の分をまとめ終わると、やおら立ち上がり、箪笥からその服を取り出した。
「明日のために服を用意しないと。」
そう言うと彼女は手際よく裁縫の準備をすると、椅子に座りおもむろに服の調整を始めたのであった。
「そうだね。初めて帝都に行くんだから、良い格好で行かないとね。」
彼女が嬉しそうに着ていた記憶がよみがえるホートライドが少しだけ微笑みながら言うと、レッタは手元を見たまま答えた。
「うん。さすがに帝都であのメイド服はマズいからね。」
「えっ……。それはアリアのための服なのかい?」
ホートライドは驚いた。だがそれはすぐに諦観へと変わった。
レッタはそういう少女なのだ。幼馴染のエアリアーナのためであれば、何の逡巡も無く自分のお気に入りの服を仕立て直す事が出来る。もしくは逡巡するという発想すらなかったかもしれない。
「だって、ただでさえ黒髪のせいで魔女とか言う人たちがいたのよ。」
そう言いながら糸切りばさみに手を伸ばす。
「アリアの事を何にも知らない帝都の奴らの所に、キルトランスとメイド服で行ってみなさいよ。」
そして縫製師も驚くほどの手際の良さで縫い目を解いていく。ホートライドは手遅れと思いつつも思わず手が伸びそうになった。
「きっと悪魔の手下だとか、完璧な魔女扱いされるに決まってるわ!」
その声には控えめだが怒気が含まれていた。
先日の村を襲った一連の騒動。それはアリアを快く思わない人たちの思惑が発端であったのだ。ましてそれが根拠の薄い偏見によるもの。魔女の黒髪だとか、彼女の母親が敵国出身であった事。そんな一介の村娘にとっては些末過ぎる理由であったのだ。
「そんなの嫌じゃない?だからちゃんとした服を着て行ってもらいたいの。」
後ろ身頃を寸詰めすると、彼女は裁ち鋏を手に取る。ホートライドはそんな彼女の腕を止めたい衝動に駆られる。
「それに帝都の奴らに田舎者扱いされたら腹立つじゃん?」
少しだけ瞳をあげてホートライドの瞳を覗き込むと、ニッと笑ってレッタは余った布を綺麗に切り落とした。
その様子をホートライドは静かに見守った。この布はもう仕立て直しても彼女が着ることは出来ない。この服を着た彼女はもう、彼の記憶にしかないのだ。
彼は静かに瞳を伏せると、あの日のレッタを忘れまいと記憶を掘り起こしながら答えた。
「そうだね……。」
彼が惚れたレッタと言う少女はそういう女性であった。彼が惚れる前からそうであった。
人一倍義侠心が強く、村人たちが心配するほど男勝り。かといって家事全般が苦手な訳ではなく、手先は器用。
そして誰よりも盲目の幼馴染を愛し、彼女のために人生を捧げてきた。
そんな彼女に惚れたのだ。今更、服の一着二着でどうこう言うのは、お門違いにもほどがある。
ゆっくりと瞳を開ければ、灯りに照らされた彼女の横顔は楽しそうに微笑んでいるではないか。その笑みはきっと、この服を着た親友の姿を想像しているからだ。
「……どしたの?」
視線に気が付いたのか、レッタは一瞬手を休めて彼の瞳を正面からとらえた。
「……ううん。なんでもないよ。相変わらずレッタは器用だな、って思ってただけ。」
そう。彼女はこんなにも美しいではないか。これこそが彼が思いを秘め続けている少女レッタなのだ。
揺らめいた灯りに彼女の顔の影も共に揺らぐ。
「当たり前でしょ。どんだけ服を縫ってきたと思ってんの?」
それでも褒められて少しだけ嬉しそうに微笑むと、レッタは再び手元に没頭する。
彼女はいつも真剣である。そして彼女を見守る青年もまた真剣であった。
ホートライドは小さくため息を着くと、彼女のベッドの端に腰を下ろした。服の未練が無い訳でもないが、もう戻らない物を嘆くのはあまり意味のある事でもない。
彼は彼女の落ち着いた息遣いと、こなれた手の動きを感じながら静かに瞳を閉じる。
どうやら明日からの帝都での交渉戦略を考えた方がよっぽと有益だ。
(僕の役目は彼女たちを無事に帝都から帰して、そして同時に彼女たちの帰る場所を無事でいさせる事なんだ。)
タタカナルを旅立つ前夜、年頃の少女の部屋はとても静かであった。