冷や水ぬくもり
コトコトコトコト――
「はぁ~っ、っ、白っろ!」
寒空の下、かじかむ両手に何気なく息を吐き、鞄の取っ手と灰白色のグローブの指の間から漏れ出たそれの余りの白さにびっくりしつつ、僕は帰路を急ぐ。
そこはとある地方都市のオフィス街の中心。だから、ちょくちょく人はいる。殆どは営業マンだろう。誰も彼もが、分厚い重衣料を纏っている。まるで鎧のように。そのどれもこれもが、暗色で寒色で……。嫌になる。雨なんて降っている訳でもないのに。
今日は冬至。一年で最も、おひさまの短い日。未だ夕方四時頃だというのに、酷く薄暗い。
グレーの分厚いトレンチコートを着て、赤長いマフラーをこういうとき困る長い首にぐるぐる巻いて、これまた困る冷たい熱伝わってくる銀縁眼鏡から、周囲を歩く人より高い視界から、辺りの誰も見ていないような遠くを見渡す。
ビュオオオオオオオオオオ!
突如吹いた北風。それは、男にしては長い僕の髪の毛という防寒毛をはねのけ、髪コートをマフラーを貫いて、ブラックウールのスーツ上下の更に下、上下のパッチすらも貫通し、吹き抜けていく。ダイレクトだ……。肉の壁なんて、極限に薄い僕にとって、それはどうしようもなく、大ダメージだった。
「っ!」
だから僕は思わず足を止めてしまった。そしてそれは、
パキッ、バシャァ!
薄氷の上だったらしい。
「っうっっ!」
その浸食してきた濃厚な零度に反射的に、漬かった右足を引き揚げるが、もう、遅い。それは革底の革靴だったから。茶色の、爪先からぼってり厚みのある、油控え目の柔らかな飴色ヌメ革のプレーントゥ。流れ滴る薄泥色の水……。ジャストサイズでここまで大事に育てたのに……。
ビチャッ。
沸き上がってきそうな苛立ちを踏みしめるようにその湿った靴底を地面に下ろした。衝撃と共に、その湿りを逆伝うように追加された、底冷え冷気。
ブルッ、ゾクゾクッ!
僕は逃れられる筈もないその寒気から逃れようと、
ビチャッ、カタカタカタ、パチャッ、タッ、タッタッタッタッタタタタタタタタタタタタタタ――
どういう訳か駆け出した。自分でも分からない。片足がやけに重い違和感を無視したまま、どうして足を止めずにこうしているのか。全く分からない。けど、止める気にはなれない。
何だかどんどん、ピッチが上がっていく。しんどさはない。感じる冷気は、自身が起こした風でより強くなっているというのに。
足が濡れた分、余計に早く、家に帰りたくなったのかも知れない。一か月振りの早帰りの日だったというのもそれを手伝っている。
タタタタタタタタタタタタタタ――
思った以上に気持ちがいいということに気付いた。冷たいのに、気持ちいい。成程、発汗だ。そして、その汗が、上下のパッチに反応し、汗熱な蒸気のヴェールを作ったのだ。
だが、それでもやはりまだ、寒い。上下のパッチは、革靴に覆われた足先にその蒸気を送ってはくれない。露出した両手と顔にも送ってくれない。
もう少しだ。オフィス街を抜けて、僅か数メートル。そこが、僕の暮らすマンション! 風を切り、ピッチを上げた。不思議と息は上がらない。それはきっと、吸い込む冷気のせい。
タタァァァ!
すぅ、はぁ、すぅ、はぁ――
暫くそれを繰り返した。息を上げるリスクを負ってまでそうやって、足を止めてじっとしたのは、そのマンション1F角部屋の入口。そこへの扉の金属の一際冷たいであろう取っ手に触れる覚悟を決めるため。
よし、やろう。
右手を恐る恐る出し、
「っ!」
びくん、と震えてしまような震えの波が、接点から伝達してきたのに何とか耐え、取っ手から手を放さずに済んだ僕は、それに、左手で鍵を差して回し、
ガチリ、ガキッ!
取っ手を回し引いた。
グゥゥ、ギュィィィィィ!
素早く体を潜り込ませ、
ガシャン!
ポスッ。
扉が閉まった直後、鞄を投げ捨て、靴のまま駆け出し、風呂場へ。温度調整の目盛りを赤色最大温度にし、ギュィィ、じゃばぁぁぁあぁああああああああ――
シャワーヘッドから勢いよく流れ始める、お湯になる前のそれ。
だが、水の勢いの関係上飛んできて頬を掠めたそれは、
「!」
僕の衝動を突き動かした。
コートどころかマフラーすら脱いでないけど構うもんか!
ガコッ、
掴んでホルダーから持ち上げたシャワーヘッド。それを頭上へと、
プシャァアアアアアアアアアアアアア!
浴びた。
まるで、お湯のように暖かいと錯覚するそれ。つまり、外気が水よりもずっとずっと冷たかったということ。僕は重く、ぬるく成り果てていく自身の衣服を上から順に脱いでいこうとするが、感覚がありつつも、急な寒暖差のせいで上手く動かせない手先と、湿って変に取れないボタンに苦戦しつつも、やっとのことで、浴室の外に投げ捨てる。
バチャッ、ピチャッ、パチャッ!
ようやく、シャワーから出る水は、ぬるま湯といえる温度になったらしい。立ち登り始め、メガネをすっかり曇らせているそれが、その証。
靴、靴下、下着。それらも遅ばせながら、脱ぎきって、投げ捨てる。
ジャァァァァァァァ――
あたたかい。このままずっと、浸っていたい。だが、打ち止めらしい。お湯の温度が下がってきている。一気に湯を使い過ぎたらしい……。
僕は名残惜しくもシャワーを切り、
「はぁ……」
浴室を後にする。
ガシャァ、
コトッ、コトッ、ピチュッ、ツルッ!
「っ!」
ガコォォンンンン!
脱ぎ捨てて、湿りに湿って、冷たくなっていた衣料の山に、僕は足を取られ、そのまま気を失った。
……。
…………。
………………、ぅっつぅぅ、「さっむぅううううううう! っ痛ぁぁああっ!」
手で後頭部というより側頭部辺りに触れてみるとたんこぶができていた。そして、物凄く、寒い! ブルルル、スルル、ギュルゥゥ!
垂れ始めていた、というか、垂れに垂れた鼻水。起き上がって、視界の片隅に入った、浴室の扉。そうして僕は閃いて――
キュィィ、ジャワァァァァァァァ――
シャワーを全開にした。当然、頭から浴びる。まだ水な状態だけど、それでも十分に温かい。
ジャァァァァァァ――
体から鳥肌が抜け、寒さで薄れた感覚が鮮明になっていく。頭が思っていたよりも痛い。たんこぶなんてできているから当然、か。
ジャァァァァ――
……。水が、冷たい。お湯に、ならない……。
ジャァァァァァ――
……。冷たい。冷たぬるい、冷たい……。どんどん、それの本来の温度を体が感じ始めている……。真冬に水を浴びた正当なる温度感覚へ、近づいていっている……。さっき、シャワーが妙に早く湯が出なくなったかと思えば、故障しやがった、ってことだったのか……。
ジャァァァァァ――
寒い、寒い、寒い……。カチカチカチカチ、ガタガタガタガタ……。それでも、出られない……。体をその流れから出してしまったら、更に寒くなりそうな気がして……。それは間違っていない。短期的には間違っていない……。気化熱で取られる分があるから。だけど……、これだと……、
ジャァァァァァァァ――
「へ、ヘクュン!」
ギュルルル、ぎゅぅぅぅぅ……。ゴロロロ、ギュルルルルル……。僕は蹲っていた。動けなくなっていた。お腹が、イカれたからだ……。じゃあ、それこそ、早くこっから出ちまえよ、となるだろうが、今にも漏らしそうなのだ……。そして、まともに歩けそうにはなく、扉の外には、僕の衣類が氾濫している……。うん……、詰んだ、のだ……。
ギュルルルルルルル、びゅるびゅるびゅるびゅるびゅる、ブシュゥゥウウウウウウウ!
終わっ、た……。
それと同時に、僕の意識も、余りの寒さに、途切れた……。
次に目を覚ますと、ベッドに寝ていた。彼女が僕を綺麗にして、着替えさせて、ベッドに寝かせてくれたらしい。そこまでで限界だ……。頭も体も、どうしようもなく、重い……。
どうやら彼女は今僕の為の買い出しに行ってくれているようで、いない。
……。
「おや……すみ……」
僕は羞恥と感謝の心を彼女に抱きつつ、その歪み熱を持った視界を、冷たく、下ろした。