異世界転生前の作法
少年は、死にたかった。
この世界はもう、うんざりだと思った。死んで、どこか違う世界へ逝ってしまいたいと思った。
少年は、インターネットで死に方を調べた。なるべく楽に、眠るように死ねる術を探した。
そうして、市販薬での自殺というものが理に適っていると考え、その日のうちに大量の薬を、地元の薬局で買い求めた。
一つの薬局でまとめ買いしては怪しまれると思い、三軒の薬局をはしごして、それぞれ三箱ずつの鎮痛剤を入手した。
父親の書斎から、ウィスキーを拝借し、コップにそれをなみなみと注いだ。三種類のレジ袋から、市販の鎮痛剤の箱を取りだし、その中身を全て空のコップに移し替えた。
約百錠の錠剤が、そのコップを満たした。少年は自室の鍵を閉め、父のウィスキーでもってその錠剤を全て腹に流し込んだ。その作業は、大変苦行であった。
窓の外は、ぼんやりと薄暗くなりはじめ、遠くの林から蜩の泣き声が微かに聞こえていた。
少年はベッドに横たわり、死ぬのを待った。まず、身体がびりびりと痺れた。息が荒くなった。そうして、瞼の裏が赤や黄色や緑に点滅し、一瞬、身体の奥が焼けるように熱くなった。
その熱が冷めると、心地の良い静寂が少年の身体を満たした。
暗転。
何もない薄暗い空間に、少年は一人たたずんでいた。
ここはどこだろう。そんな疑問もこの空間に溶け込んで、すぐさま何も考えられなくなった。何もかもが無である。少年は、これが死だろうか。と考え、自殺の成功したらしいことに安堵した。
しばらくすると、その薄暗い空間から白く淡い光が漏れ出し、その光は今しがた人の形となって、少年の前に現れた。
その光の人は、この世の者とは思えぬほど、美しい姿の女性であった。少年は息をのんで彼女のことを見つめた。彼女もまた、優しい微笑を以って少年を見つめ返した。
「ようこそ、死後の世界の直前へ」
彼女の透き通った声が、少年の頭の中に響いた。
彼女は口を動かさず、ただ少年の事を見つめたままで話し続ける。
「貴方は今、生と死の狭間に居ります。生きるも死ぬも、貴方の意思次第なのです。さあ、生か死か選びなさい」
少年は、迷わず「死を選ぶ」と言った。彼女はそれを聞き、静かに目を閉じて首肯した。
「では、死後、貴方はどうなりたいですか?」
少年は、なにも答えられなかった。現世の将来すら、まともに考えたことのない彼に、死後の進路など答えられるはずも無い。彼女は微笑を湛えて言った。
「いくつか選択肢はございます。例えば、このまま永遠に何もないこの空間で無となる事。例えば、生前の記憶を消して、また元の世界に生まれ変わること。例えば、このまま別の世界に生まれ変わること。」
少年は、ドキリと胸が高鳴るのを感じた。「別の世界に生まれ変わる」と確かに彼女は言った。果たしてそんなことが可能なのか。
「あまり興奮してはなりません。死後の選択は、これからの貴方の魂の行く先を決めるという事です。慎重に選びなさい」
少年は静かに頷いた。答えはもう決まっていた。別の世界に生まれ変わること。自分はその為に自殺したのだ。少年は、なるべく落ち着いた口調で言った。
「別の世界に、生まれ変わらせてください」
彼女は頷き、では、と言った。
「どのような世界に生まれ変わりましょう。こちらもまた、いくつか選択肢が御座います。例えば、剣と魔法の、現在、戦の真っただ中の世界。例えば、異様に布面積の少ない服装を好む美少女ばかりの平和な世界。例えば……」
少年の胸はどくどくと音を立てて高鳴った。
彼女の言う選択肢の全てが、非常に理想的で魅力的な世界であった。何もかも生前見た異世界ものの作品と重なり、少年はだらしなくにやけ顔を作った。そんな少年の反応を見て、彼女は真剣そうな声音で言った。
「よいですか? 慎重に選ぶのです。これは貴方の魂の選択なのですから」
少年は、もちろんですとも。と言い、それからたっぷりと時間をかけて、転生先の世界を選んだ。
時間という概念がこの空間にあるのなら、少年は約五時間もの間悩み続け、ようやく行く先を選択した。その願いを聞いて、彼女は頷いた。
「その世界に行くのであれば、貴方の今の能力では適応できません。ですので私が、貴方に能力を授けましょう。ただし、与えられる能力は一つのみです。慎重にお選びください」
少年はいよいよ、叫びたくなるほどに興奮した。彼女は、自分の好きな能力を与えてくれると言うのだ。少年にとっては、もう願ったり叶ったり、至れり尽くせりの超理想的な展開である。
また、彼女はそんな少年を見て、慎重に選びなさい。と言った。その声音はどこか疲れ交じりであったが、少年はまたしても、もちろんですとも。と胸を張り、今度は七時間近く掛けて授かる能力を選んだ。彼女は願いを聞き、力なく頷いた。
「では、転生の儀を執り行います。ほら、はやく、そこ、立ってください……」
彼女はもう疲れ果て、雑になっていた。少年はそれでも浮かれていた。これ以上ないほどに、どくどくと胸を高鳴らせ、輝かしき異世界生活の夢を思い描いていた。
頭上から、ピンという電子音が聞こえた。彼女はその音を聴いて、焦ったように少年に言った。
「興奮してはなりません。落ち着いて、私の声を聞いていてください。いいですか。」
少年はこくこくと頷き、深呼吸をした。
彼女は、少年が落ち着きを取り戻したとみると、呪文のような不思議な言葉を、呟き始めた。
光の靄が少年を包み込み、ゆっくりと身体が宙に浮き始めた。少年は、緊張と興奮と期待で、どくどくと自分の胸が脈打つのを感じた。
ピン、ピン、と電子音が頭上から鳴り続けている。彼女は浮き上がる少年に向かって叫んだ。
「ああ、落ち着いてください。落ち着いて。あまり興奮してはなりません。貴方、本当に、死にたかったのですか?」
少年を包んでいた靄が強い光を一気に放ち、次の瞬間、彼はその空間から消えた。
ピン、ピンという電子音が少年の耳元で鳴り続けている。
少年は母親に抱きしめられた。
「良かった、目を覚まして……」
母親は泣いていた。
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※冒頭の自殺の方法については、完全な想像でありフィクションです。危険ですので絶対に真似しないでください。