破
──どうして、こうなったっ!
敢えて本名は伏せるが……近い未来に少年Aと呼ばれることになる十五歳の少年は必死に走っていた。
……半裸で。
半裸と言っても救いのある方……上半身が裸ではない。
裸なのは、下半身の方だった。
それもその筈……彼の上半身を覆っている薄いグリーンの手術着はへその辺りから下が焼け焦げ、使い物にならなくなっているのだから。
「くそったれっ!
何が、改造だ、馬鹿馬鹿しいっ!」
少年はそう口汚く罵声を発しつつ……他人からの視線と周囲の冷え切った空気から丸出しの股間を手で護りながら、裏路地を走る。
……そう。
彼は事故に遭い……目覚めた時には「政府関係の施設」とかいう訳の分からない場所に閉じ込められていたのだ。
曰く、君は北朝鮮系の組織によって拉致され、人体実験の対象となっていた。
曰く、君の身体には致死量を超す毒素が含有されており云々。
そう言って防毒マスクをした施設の職員が延々と語ってくれた内容は……生憎と彼の脳みそには全くと言ってよいほど届いていなかった。
彼はまだ十五歳であり……何より、学力の方は芳しくなかったのだ。
だからこそ彼は、分からない単語を羅列され続ける、拷問とも言える授業中を乗り切るため「理解出来ない単語を聞き流し、分かったような顔をする」という自己防衛能力を獲得していたのだ。
そういう意味では、この少年Aは現在の詰め込み型教育制度の被害者と言えないこともないだろう。
……閑話休題。
兎に角、その「改造」とやらが現実的に我が身に起こったモノだと納得しないまま、少年Aは彼を閉じ込めていた「四方を鉄筋コンクリートで固められていた部屋」に『運よく穴が開いた』のを千載一遇の機会と考え、見事、脱走を仕出かしたという訳だった。
「捕まったら連れ戻されるんだっ!
今の内に、逃げないとっ!」
そう言いながら、少年は走る。
……下半身、丸出しのままで。
現状の彼には、見栄えとか世間体とかを気にするような余裕など、欠片もなかったのだ。
何しろ……
「くそっ、またパトカーかっ!」
表の路地には、電子式の耳障りなサイレンを鳴らすパトカーがぞろぞろと、いつにない頻度で走り回っているのだ。
あれらが彼を追っているという確証はないものの……何かに追われている身としては、通りゆく者全てが追っ手に見えてくるのが心情である。
「……どうする?
どうやって、逃げる?」
裏路地の隙間……手の届く範囲に干してあって服を適当に引っ張って盗りながら、少年Aはそう呟く。
そして、その緊急避難と考えて良心の呵責に耐えながら盗った服を手に取り……
……悩む。
──屈辱、だ。
──が、背に腹は……
人気のない裏路地なんて、そういつまでも続く訳もない。
その上、手の届く範囲に干してある服なんて、しかも乾いている服なんてそう多くはないだろう。
その考えに、少年Aは歯を食いしばり……目を閉じ、葛藤を乗り越えて、覚悟をした上で、屈辱に歯を食いしばりながら身に着ける。
何しろ、ソレはどっかの女生徒が来ているだろう、ブリッツスカートだったのだから。
「……うわぁ、新たな感覚だ」
初めて穿くスカートは、ノーパンなので当然ではあるが、大地から昇ってくる上昇気流を股間で感じられるという、酷く頼りない代物だった。
しかも、太もも辺りに布が触れる感触と相まって、異次元の感覚と言っても過言ではない。
だが……丸出しよりはマシだ。
猥褻物チン列よりは、随分とマシだ。
この十二月の寒空に、凍傷でナニを失うよりは遥かにマシだ。
彼は全精神力を用いて自分をそう納得させると……スカートの感触を意識から外してその場から逃げ出した。
本当はこの目立つ手術着の上から羽織るためにも、そして体温を容赦なく奪っていく寒風から身を護るためにも、上着が欲しかったのだが……それは流石に「緊急避難」を超える『窃盗』であり、特に前科もない少年としてはその「犯罪」という行為への忌避感が強かったのだった。
そうしてその場から逃げ出して五分ほどが経過したところで。
──大体、あの時……
──何でパンツが燃え出したんだ、畜生が。
少年は、股間を……ここ数日間の所為でぷらぷらと重たくなり、表面積が大きくなっている「袋」を撫でていく鬱陶しい風と、太ももを触っていく忌々しいスカートの感触に内心でそう毒づいていた。
……そう。
やむを得ぬ事情で半裸だったとは言え、彼は別に下半身を露出して興奮するタイプの人間ではない。
少なくとも彼が牢獄……そう呼んでいたあの部屋では、政府機関からの差し入れとかいう、トランクスタイプのパンツを間違いなく穿いていたのだから。
ただあの時……牢獄からの脱走を決めたあの時。
彼はちょいとお腹の膨れを感じつつも、それを体外へ放出する行為に躊躇いを感じていた。
何しろここは牢獄である。
部屋の四方にはカメラが設置されており、音声までもがモニターされている。
ついでに言えば、便所も風呂にもカメラが設置されていて、危険部位までは映らないようにカメラの角度が配慮されているとは言え……かなり抑圧された生活を強いられていたことに違いはない。
それこそが彼が脱走した理由……勉強をする必要もなく、閲覧のみとはいえインターネットも可能で、一日三食が与えられる、ある意味夢のような生活から、泣く泣く脱走してきた理由だったりするのだが……
兎に角、そんな状況で放屁を放つのは……しかも腹の膨れ具合からして、かなりの爆発音を立てるだろうソレを放つのは、幾ら男とは言え若干躊躇われたのだ。
だから、だろう。
彼は何となく誤魔化すようにベッドから立ち、壁に背を向け……なるべく音を立てないように立ち位置を加減しながら、括約筋の力を僅かに緩める。
……その直後だった。
「うわぁっちぃいやああああああああああああっ?」
彼の穿いていたトランクスが、突如として炎上したのは。
慌てて彼は穿いていたトランクスを脱ぎ捨て……尻周辺に大穴が空いていた所為で非常に脱ぎやすかった。
ついでに言うと、燃えやすかったのか陰毛に延焼していたので、それも慌てて叩き消す。
慌てた拍子に目測を誤ったのか、玉辺りに打撃による衝撃が走ったが……流石に股間が燃えている現状では、痛みよりも炎の方が優先順位が高く、少年は歯を食いしばって消火を続ける。
そうして火を消し終えた少年は、不意に股間を撫でる外気に気付く。
「……なん、だ、こりゃ」
振り返った先には……ほんの一瞬前まで彼が背中を預けていた筈の、コンクリート製の壁なんて、存在していなかった。
ただ、十メートルくらい離れたところにまで一直線に、人一人が通れるほどの大きな穴が出来ていたのだ。
「これ、は……チャン……うげぉおおおおっ?」
股間の出火を消し止め、しかも外出する算段まで整った彼が安堵の溜息を吐き、直後に息を吸ったのは不可抗力というモノだろう。
しかしながら、盛大な放屁を放った直後のソレは、かなり不用意だと言わざるを得なかった。
周囲には、彼の腸内において発生したのだろう凄まじい刺激臭が漂っていて……正直、鼻腔から目を通り越せて後頭部へと突き刺さるような、「臭い」というより「痛い」感じの屁だったのだ。
「……だ、だけど、これ、で」
だが、その屁があまりにも強烈だった所為か、壁に大穴が空き少年が脱走出来るというのに、警備員や職員の姿形さえも見えやしない。
つまり少年的には、コレは絶好のチャンスだったのだ。
いや、彼は別に本気で逃げようとした訳ではない。
監視された部屋で数日間を過ごした少年としては、もう一つの「のっぴきならぬ事情」を解決すべく、一時的にあの収容所から離れた……ただそれだけのつもりだったのだから。