プロローグ(大尉の最期)
もう何日もほとんど何も食べていない。銃の弾も、気力も尽きた…思考が回らない。
「大尉、準備が整いました。」
無精髭を生やした40半ばの男が、緊張した様子で姿を見せた。
「ああ、今行きます。」
指揮官としてこのザマではいけない。手放しかけた思考をなんとか取り戻し、立ち上がる。
部下たちの待つ場所に向かう途中、この男に娘がいることをふと思い出し、声をかけた。
「宮城さん…本当に良いのですか? あなたには家族がいる。こんな命令を…」
「もう決まったことですから。」
静かだが、強い意志がこもった声で返される。その声には微塵の迷いも感じられなかった。
(これ以上は言っても無駄か…)
その時、宮城がふっと笑みを浮かべ、少しばかり照れた様子でこう言った。
「それよりも、大尉…最後くらいは敬語をやめていただけませんか?」
しばらく沈黙が続く。言葉を探しながら苦笑し、指揮官としての立場を守ろうとする気持ちと、目の前の忠実な部下に対する敬意が入り混じる。
「それは難しいですね。宮城さんは、自分にとって命の恩人です。敬語をやめるなんて、とても無理なことだ。」
年上で、経験豊富なこの男にはずっと苦手意識があったことを思い出しながら、こちらも微笑む。だが、宮城は思わぬ返答をする。
「大げさですよ、大尉。…それを言うのは自分の方です。大尉はいつも被害を最小限にして、最大の成果を挙げようと戦っておられました。隊の中でも古株の私が言うのだから間違いありません。」
やや熱っぽく、真剣な表情で言う宮城を見つめながら、大尉は静かに笑った。
「はは…運が良かっただけですよ。」
内心では、その言葉を少しだけ誇りに思う。自分は部下を無駄死にさせないために戦ってきた。それだけは守りたかった。臆病者と言われようとも、玉砕や無謀な突撃を命じたことはない。自害などもっての外だと徹底した。最初こそ反発もあったが、結果を出すと彼らも黙るしかなかった。
だが、上層部は違った。彼らはそんな考えを「臆病」と断じ、正当な評価を受けることはなかった。それどころか、「思想に問題あり」とされ、出世も同期に比べて遅れ、前世をたらい回しにされた。
軍人である以上、命令には逆らえない。今回の命令もそうだ。玉砕…。その言葉に、大尉の中で怒りがふつふつと湧き上がる。
「…くそ!」
思わず拳を握り締める。人材は宝だ。下士官だって、工兵だって、一人前になるのに何年もかかる。それを、打つ手がないから死ねだと? ふざけた命令だ!
心の中で怒鳴り散らしそうになるが、広場に近づいたことで冷静さを取り戻す。この戦争は、もう負ける。補給路はすでに断たれ、物量で劣る我が国に勝ち目はない。
広場に着くと、宮城は自然と駆け足になり、整列する部下たちの最右翼に立った。
「気をつけ!」
宮城の号令が響き渡る中、大尉はゆっくりと歩き出す。部下たちの前に立ち、一人一人の顔を見ていく。彼らはまだ若い、死ぬには早すぎる。成人したばかりの者もいる。子供や妻の写真を見せてきた者もいた。
(この悲惨な時代でなければ、彼らも幸せな生活を送っていただろうに…。)
その目に宿る信頼を感じながら、大尉は言葉を呑み込み、最後の命令を下すために立つ。
「小隊長に対し、敬礼!」
敬礼を返しながら、心の中で別れを告げる。
***
気がつくと、目の前には美しい夜空が広がっていた。(美しい…)と呟こうとするが、血が詰まって声が出ない。視線を動かすと、周囲には友軍と敵兵が重なり合うように倒れている。激しい白兵戦の末路だ。
口に溜まった血を吐き出しながら、自分の体を見る。右手には軍刀がしっかり握られている。だが、左手は…肩口からなくなっていた。左足もない。
(死ぬのか…。)
死が迫っていることを実感しながら、残してきた妻のことが頭をよぎる。賢い彼女なら自分がいなくても大丈夫だろう…そう思いながらも、(すまない、帰れそうにない。)と心の中で謝る。
視線を再び夜空に向ける。星が好きな妻が、いつか見たいと言っていた星が見える。故郷からは見えない南十字星が、今は静かに輝いていた。
(…帰りた…い。)
言葉にならぬ願いを残し、大尉は静かに目を閉じた。