お芝居の結末のように
牢の差し出口から粥のお椀が差し出された。粥といっても、ぬるくて濁った湯に、ぽつぽつと米らしいものが浮いているだけの代物だ。味もしないし、腹も膨れない。
そもそも小雲には、もうそれを食べるだけの元気すら無かった。両手にはめられた鉄枷はいよいよ重く、腕を持ち上げることも難儀になっていた。粥のお椀を覗き込むと、やつれた己の顔がおぼろげにうつっている。髪はぼさつき、肌は荒れ、鼻血を流した痕があった。
今更、これしきの食べ物を口に入れたところで何になるだろう。明日、自分は刑場に引き出されて死ぬ。空きっ腹でいるのは、大した問題ではなかった。
問題は、小雲が冤罪だということだ。
けれども、彼女は余り悪い気がしなかった。
楊金桂は、小雲が明日にも斬首に処されると聞いて、ただ小さく頷いた。牢獄へ顔を出してきた下男が、そう知らせてくれたのだった。罪状は、仕えていた主、つまり金桂の夫の毒殺だった。
小雲は五年余りもの間、真面目に仕えてくれた。金桂が史家へ嫁ぐ前に、父が十七両で周旋屋の老婆から買ってきた娘だった。歳は彼女より三つ下だが、聡明で、容貌も悪くない。間違ったことが大嫌いな質で、金桂もそこが気に入っていたのだ。
あの娘が死ぬのを見るのは辛かった。
夫の両親が、階下でわあわあと喚いているのが、金桂のいる奥間まで聞こえてきた。二人は葬式の費用ばかりか、夫が生前買う予定だった土地の代金まで金桂の実家に要求してきたのだ。でなければ訴訟を起こすと息巻いている。小雲は金桂が連れてきた侍女だから、彼女の起こした不始末は主である楊家にとって貰う、というのがその言い分だった。
夫の家の人間は、どうせろくでなししかいない。金桂ははなから相手にしなかった。代わりに、金桂を心配して郷里からやってきた両親が、夫の両親をなだめにかかっていた。
楊金桂は窓辺にもたれて、ぼうっと外を眺めた。
本当に心配なのは彼女自身のこと。夫を殺すきっかけを作ったのは他ならぬ金桂なのだ。
だから小雲の死は忍びなかった。
目が覚めたのは寒さのせいではなかった。不意に金桂奥様が自分を呼んだ気がしたのだ。
小雲はのそのそと体を起こして、狭い牢屋を見回した。奥様がいるはずは無かったのだが、ここに入れられてからというものの、何故か自分は独りぼっちでいる気がしなかったのだった。
ーー小雲、ごめんなさい。
そんな声が聞こえたように思った。
「いいんです、奥様」
小雲はぽつりと呟いた。ふとあの憎い旦那様、史建英の顔が浮かんできたので、彼女はぎゅっと拳を握りしめた。
あの日、廓から戻ってきた史建英はべべれけに酔っぱらっていた。出迎えた金桂奥様は邪険に罵しられながらも、笑顔を浮かべたまま小雲に命じたのだった。
「ね、お前。奥間の棚に副建茶があったでしょう。あれを旦那様に飲ませてあげて」
小雲は黙って頷き、奥間へ向かった。その間も、史建英は奥様の悪口をまくし立てていた。あの大声だと、恐らく近所にも聞こえていたに違いない。何て恥じ晒しだろう。
小雲は怒りに震えながら、茶葉の入った小壷を手にした。
その時だ。居間の方でもの凄い音が響きわたった。どうやら史建英が卓をひっくり返すやら壷を割るやら、暴れ回っているらしい。小雲は慌てて、居間に引き返した……。
史建英という男は小関鎮では有名な商家の生まれで、一家は数世代に渡って栄えていた。彼の兄は才に恵まれ、幼い頃から勉学を積み、とうとう科挙に合格して官吏になった。史建英は親から多少商売の心得を受け継いだものの、聡明さにかけては兄に遠く及ばない。その劣等感の裏返しか、彼は歳を経るごとに放蕩癖が激しくなり、両親はそんな息子の腰を落ち着かせたい一心で妻を娶らせた。それが金桂奥様だ。史建英の両親は、息子が家庭を持てば、多少なりとも地に足の着いた暮らしをしてくれると考えたのだろう。だが実際は、そんなに上手くことが運ぶはずも無く、以前にも増して放蕩癖は酷くなった。というのも、金桂奥様が真面目な性格で、夜遊びをする夫を度々諫めては大喧嘩になってしまうからだった。史建英は家へ寄りつかなくなり、商売にもまるで身を入れようとしない。すると史建英の両親は、ある日掌を返して金桂奥様のことを責め始めた。嫁が至らないところだらけだから、息子はいつまで経っても真面目にならないというのだ。史建英の両親は、息子の悪評が近所に広まるのを恐れ、また史家の面子を守るため、全てを金桂奥様のせいにしたのだった。
金桂奥様はめげなかった。少なくとも、小雲の目に見える限りでは貞淑な妻を演じ続けた。毎日朝早くに起き、史建英に甲斐甲斐しく仕え、夜は彼が遊びから帰ってくるまでじっと待つ。史建英が家にいない間は、ずっと両親からいびられ通しだったが、それもこうべを垂れて堪え忍んでいた。むしろ小雲の方が、史建英とその両親のでたらめなやり方に反感を覚え、しびれを切らしそうになることしばしばだった。
幸い、そんな奥様の肩を持ってくれる者が史家にもいた。史建英の兄とその妻だ。兄の方は公務でなかなか帰ってこないが、妻は毎日家にいる。金桂奥様よりもいくらか若いが、腹が据わっており、また茶目っ気もある人だった。姓を王、名を雨娘といい、実家は薬商を営んでいる。金桂奥様が両親から小言をぶつけられていると、雨娘奥様はすぐさま割って入り、双方の仲立ちをするのだった。金桂奥様はそんな雨娘奥様の尽力にいつも感謝していたが、本心では余り関わって欲しくないようだった。その理由は、小雲も察していた。史の両親の怒りが雨娘奥様にまで飛び火するようになったらそれこそ申し訳ないし、そうでなくともいちいち雨娘奥様にいらぬ気を遣わせてしまう。大体、あの両親ときたら針の先が曲がった程度の些細な事を、大木の根っ子が抜けたとでも言わんばかりに騒ぎ立てるのだから、なだめにかかったってどうにもならないのだ。いちいち相手にするより、黙ってはいはい頷いている方が楽だ。
そういえば、あの日も大変な騒ぎだった。
茶を捨て置いて小雲が居間に駆けつけた時、部屋中が錯乱して史建英は金桂奥様を何度も蹴りつけていた。金桂奥様は床で赤子のようにうずくまり、抵抗もしなければ、悲鳴もあげない。だが小雲を本当に怒らせたのは史建英の暴力ではなく、その傍で息子を炊きつけている彼の両親の姿だった。二人はしきりに、やっちまえだの、もっと叩けだのと怒鳴っており、嫁のことをちっとも構おうとしないのだ。
小雲は怒りでわなわな震えながらも、どうにか堪えていた。金桂奥様から常日頃きつく言いつけられていたからだーー私がどんな目に遭っても、侍女のお前が身分を弁えず手を出すことがないように。お前が私と一緒に我慢してくれれば、それが私にとっても一番なのだから。
不意に、金桂奥様がうっと呻いた。その時、とうとう小雲も普段の戒めを忘れた。許せなかった。こんな卑しい人間達に、奥様の大事な体をいたぶられてたまるものか!
ぎゅっと拳を握りしめ、今にも史建英に襲いかかろうとしたその時だった。居間に誰かが駆け込んできた。雨娘奥様だった。
「まあ、何事ですか。こんな夜に」
言葉つきこそ驚いていたが、既に事態をしっかり把握している様子だった。史の両親はばつが悪くなったか、途端にやかましい口を閉じてしまう。フーフーと鼻息を荒くしていた史建英も、兄嫁の姿を見てついに蹴るのをやめた。雨娘奥様が彼の前に立ち、じっと相手を見据えて言った。
「ねえ弟さん、お酒に酔うのは構いませんけれど、だからといって自分の奥さんを殴る道理がどこにありまして?」
史建英は視線を合わせようとしない。ただ口端を歪めて立ち尽くしている。
金桂奥様が再び低く呻いたので、小雲ははっとして彼女を助け起こした。
「奥様、奥様」
「小雲。手を貸してちょうだいな」
「はい」
二人はぼろぼろの金桂奥様を抱え上げると、寝床まで連れていって休ませた。土気色になって寝ている金桂奥様の口元からは、赤い血がどろどろとしたたっていた。呻き声を上げたのは、吐血のためだったのだ。小雲は涙ぐみながら、手巾でそっとそれを拭った。
居間へ戻ると、史の両親が息子へ何かをくどくど言い立てている。小雲はよほど怒鳴ってやりたかったが、そんな彼女の様子を察したのか、雨娘様は奥間に下がっているよう命じた。小雲は仕方なく従った。苛立ちがおさまらず、何度か金桂奥様の様子を見に行った。その痛ましい姿を目にすると、小雲はぼろぼろ涙がこぼれるのを止められなかった。
一休みしようと思った矢先、雨娘奥様の呼ぶ声がした。すぐに居間へ向かうと、部屋はそこそこ片づけられていて、史と雨娘奥様だけがそこにいた。
「お前、旦那様に茶をお出ししなさい」
「はい」
小雲は渋々ながら頷いた。さっき出しかけた副建茶がまだ奥間の卓で出しっぱなしになっていたので、彼女はお椀に茶葉を入れ湯を注ぎ、それを持っていった。
史建英は茶を一気に飲み干すなり、休むとだけ言って居間を出た。ほどなくして、雨娘奥様もそれに続く。小雲は後片づけをすると、自分も奥間へ引き取り、布団を敷いて横になった。
夜半の頃だった。妙な物音が聞こえた。依然として怒りが心中にくすぶっていた小雲はなかなか寝つけず、いちはやくそれに気がついた。呻き声のようだった。それから途切れ途切れに足音らしきものがした。どうやら、誰かがふらつきながら小雲のいる奥間へ近づいているらしい。
きっと旦那様だ。小雲はそう思った。あの男、まだ酔ってるんだ。ふん、何か命じられたって聞いてやるもんか。
そこで小雲は寝た振りをした。だがすぐに、様子がおかしいのに気づいた。史建英はぜいぜいと喘ぎ、しきりに咳き込んでいる。これは酔いではない。第一、寝る前はとりたてておかしな様子が無かったのに、今更どうして苦しそうにしているのだろう。
「水……水を……」
史の必死な声が聞こえ、それからばたりと音がした。どうやら奥間の入り口あたりで倒れたらしい。
それでも、小雲はまだ無視していた。いっそ風邪でもひいてしまえばいいのだ。金桂奥様が受けた仕打ちを思うと、とても手助けする気が起きない。後でお咎めがあっても構わなかった。
ところが、ふと鼻先に生臭い空気が漂った。小雲は眉をひそめた。一体何の臭いだろう。まさか。
胸騒ぎがして、彼女は布団から上体を起こした。闇の中を探って明かりを手に取り、すぐさま火を灯す。
ゆっくり史建英のそばへ近づき、明かりをあてがった途端、彼女は息が止まった。
史建英が口から血を流して倒れていた。目はかっと見開かれたままだ。赤い血は、テラテラと闇の中で輝いていた。
思わず腰が抜け、小雲は明かりを落としてしまった。呆然として、しばらくその場を動けずにいた。
ーー旦那様が死んでしまった……!
小雲は見当もつかなかった。このままではいけないと思いながらも、どうすればいいかわからない。金桂奥様は怪我をしているし、史の両親も頼りになるまい。彼女は急ぎ離れの部屋にいる雨娘奥様を訪ね、事の子細を話した。
雨娘奥様は青ざめたものの、こういう時も冷静だった。「夜も遅いわ。義弟のことは、明日の朝、私からお父様方に申し上げるから、お前はひとまずここで休みなさい」
翌朝、小雲が金桂奥様を起こしに行くと、既に奥様は目覚めていた。昨晩の出来事を話そうとした矢先、居間で怒鳴り声がした。例によって史の両親だ。小雲は金桂奥様に肩を貸し、その場に向かった。父親の方はこの事態にさも憤懣やるかたない様子、もう一方の母親は豚のようにぴーぴー泣き叫んでいた。
目元を赤らめた雨娘奥様が近づいてきて、金桂奥様にぽつぽつと昨晩の出来事を話した。金桂奥様は泣いた。あのような男でも夫は夫、それに嫁いだばかりの頃はとても優しくして貰っていたのだ。
ところが、史の両親は金桂奥様を見つけるなり牙を剥いた。息子を殺したのは嫁に違いないと言うのだ。雨娘奥様が、役人を呼んで検死して貰わねば決めつけられないと懸命に説得し、どうにかその場はおさまった。しかし史の両親は終始仇のような目で金桂奥様を睨みつけていた。これでは争いを避けられそうにない。小雲は暗然たる気持ちに襲われた。
午後になると、検死の役人は慌ただしくやってきて、死体を担いでいった。その後一家の全員ーー史の両親、金桂奥様、雨娘奥様、小雲と他に下男が二人ーーが役所へ呼ばれた。
皆は順番に、県知事のいる法廷へと引き出された。史の母親が大音声に、嫁が息子を殺したと叫ぶのが聞こえる。小雲は、どうせならあの母親が死んでくれればよかったのだと心密かに思った。しかし知事も人を見る目が無いわけではない。金桂奥様が人の肩を借りなければ法廷へ入ってくることも出来ないのを見て、すぐさま訳ありだと判断したようだ。ことさら丁寧に話を聞いた。
ようやく小雲の番が来た。よくよく考えれば、一番疑われてしかるべきは彼女なので、自分でも気がつかぬうちに心臓が早鐘を打った。
知事は小雲を見下ろし、尋ねた。
「お前は史家に仕える前は、どこで働いていた?」
「楊金桂奥様のもとでございます」
「では、楊氏が嫁いだ時、お前も一緒についていったのだな」
「そうでございます」
「聞けば、史建英が死んだ時、お前が一番に死体を見つけたそうだが、それはまことか」
「はい」
「ふむ」知事の顔が、やや険しさを増した。「検死の結果、死因は毒によるものだと判明した。先ほど人を遣わせて家の中を改めたが、その毒の在処も見つかった。心当たりはあるか」
「ございません」
小雲は素直に答えた。途端に、知事の顔つきが変わった。
「本当に知らぬか」
端厳な声に問いつめられて、小雲は背中にびっしょり冷や汗をかいたが、どうにか落ち着きを保って答えた。
「存じません」
「毒が入っていたのは、茶葉の入った壷であったぞ。茶葉に毒薬が混ぜてあったのだ! 聞けばお前は、昨晩史に副建茶を出したそうではないか」
小雲は面食らった。茶に毒が? 一体どういうことだろう。小雲はわけがわからず、ひたすら頭叩して訴えた。
「知事様、わたくし、茶に毒が入っていたことなど露ほどにも存じませんでした」
「なるほど。確かにお前はただの使用人。知らぬと言えば、それも真実やもしれぬな。では、二人の下男にも聞いてみるとしよう」
小雲は呆然としながら、役人に引き立てられてその場を出た。彼女の後の下男二人も知らぬで突き通し、取り調べは再びやり直されることになった。
知事はそれにあたり、あらかじめ二人の人間ーー史の両親を省いた。父母が息子を殺すのは、まずありえない。それから下男の一人も同様に省いた。その下男は日頃史の両親に仕えているため、やはり主を殺す動機が殆ど無いからだ。
まず最初に雨娘奥様が取り調べを受けた。彼女の実家は薬商なので、毒を扱っていないとも限らない。しかし彼女は実家との行き来が殆ど無いので、ほどなく無実を証明した。
知事は続いて小雲を呼んだ。法廷に引き出された瞬間、彼女はすっかり怯えてしまった。というのも、知事の顔色が最初よりずっと険しくなっていたからだ。彼は淡々と尋ねた。
「主が死んだ晩、お前はどこで休んでいたのか」
「奥間でございます」
「ほほう。毒が置いてあった場所じゃのう。何故そこで休んでいたのだ」
「わたくし、使用人の身分のため、部屋がございません。それで、いつも奥間に布団を敷いて休んでおります」
おずおずと答えるや、知事はすぐさま言い返した。
「史が死ぬ直前に真っ直ぐに奥間を目指していたのも、何か理由があるのであろう」
「わたくし、存じません。ただ……旦那様は、お水をご所望だったようでした」
「では、お前は史の異変に気がつき、すぐ水を出してやったのか」
小雲はうなだれた。答えられなかった。嘘をつくにもつけず、ようやくしどろもどろに言った。
「あたりが暗かったので……それに、眠気のせいで、すぐには動く気になれなかったので……」
話半ばで、知事がせせら笑った。
「よい。もう十分であろう」
不意に知事は、傍へ控えていた役人に鋭く命じた。
「こやつを打て!」
小雲が驚く暇もあらばこそ、屈強な役人がはや彼女を横から押さえつけた。一人が、じたばたする彼女の体を長椅子へうつ伏せに押しつけ、もう一人が刑罰用の杖で彼女の尻をばしりと打つ。小雲は痛みの余り絶叫を上げたが、声を出しきらないうちにすぐさま二打目が来た。
「知事様、どうかーー」
言うより先に三打目が来た。打たれた衝撃が全身に響き、彼女は己の舌を思い切り噛んでしまった。血が口の中で泉のように湧き出す。その間も打杖は止まらない。六回も食らったところで、彼女は気を失った。が、すぐさま冷水で無理矢理覚醒させられ、さらに十四回打たれた。着物が破れ、彼女の尻は厨房の挽き肉みたいにぐしゃぐしゃの有様だった。激痛に耐えられず、彼女は泣き叫んだ。
知事がやめるように命じ、それから小雲に聞いた。
「史を殺めたのは、お前であろう。主の横暴が気に入らなかったためにやったのだ。違うか」
「わたくしは、存じません」
小雲は涙ながらに答えた。
「よかろう。ではいったん下がって沙汰を待つがよい」
役人が両側から彼女を担いで、引きずっていく。入れ替わりに入ってきたのは、金桂奥様だった。痛みで意識が遠のいていた小雲だったが、彼女の姿を見つけるとにわかに頭がはっきりした。いけない。奥様は史建英にいたぶられて体が弱っている。さらに杖を受けたら、それこそ大変なことになってしまう。
小雲はとっさに叫んでいた。
「わたくしでございます! 知事様、史を殺したのはわたくしでございます」
金桂はその夜、少しも眠れなかった。胸がざわつき、少しも落ち着かない。
ーー小雲、私を許して。私を許してちょうだい。お前を庇ってやれなくて。
小雲が自分こそ犯人であると法廷で叫んだ時、金桂はそれがとても信じられなかった。
まさか、小雲が自分のために殺人を犯したとは。金桂は確かに、小雲を悪く扱ったことは無い。嫁ぐ前は、他の使用人よりも厚遇していた。自分の持ち物を沢山譲ってあげたし、出かけるときはいつも連れていって、二人で楽しい時間を共にした。でも、それだけだ。
なんでまた、彼女は私のために人を殺したのだろう。ああ、きっと真っ直ぐな性分のあの子は、私が我慢ばかりしているのを見て耐えられなくなったのだ。それで夫に毒を盛ったのだろう。
自分にもっと勇気があれば、あの場で小雲と罪を分かちあうことが出来たろうに。いやそもそも、金桂が彼女になりかわって罰を受けるべきだった。その方が、どんなに気が楽だったことか。しかし小雲は自分で罪を白状するなり、泣き叫んでこう言ったのだ。
「……史建英を殺したのはわたくしでございます。奥方様も下男も一切関わりはございません。私一人がやったことなのです」
知事は怒った。その場で小雲を十回打たせると、重い枷をつけて牢屋に入れてしまった。
金桂は彼女のために、何度も牢屋を訪ね物を差し入れてやろうとした。しかし意地悪な夫の両親は、彼女が出かけるのをいつも見張っている。普段は力になってくれる雨娘も金桂に取り合ってくれない。曰く、小雲を庇う真似をすれば、主である金桂が同罪になるのは避けられない。だから諦めるしかないのだと。
彼女が小雲と罪を分け合えないもう一つの大きな理由は、郷里にいる両親のためだった。自分が夫を殺す手伝いをしたとなれば、二人に迷惑をかけてしまう。それに史の両親に楊家を攻撃する口実を与えることになる。
金桂はどうすることも出来ず、ただ小雲の末路を嘆くばかりだった。
小雲は何度も眠ろうと努力したが、無理だった。打たれた尻の傷が未だ酷いので、寝返りはおろか、身じろぎするだけでも激痛が走るのだ。これではとても眠れるものではない。
不意に、牢の格子が二度叩かれた。これは寝ている囚人を起こす時の合図だった。
一体何事だろう。怪我に響かないようゆっくり振り向くと、果たして獄卒が立っている。小雲は思わず身震いした。この男は辛という姓で、罪人に対する扱いがともかく酷かった。食事に自分の尿をふっかけてから差し出したり、寝ている囚人の傷口へ砂をもみ込んだりする。小雲も嫌がらせをされたことがある。口をゆすぐため差し出された水の椀に、虫の死骸が沢山浮いていたのだ。
彼女は辛を見るなり吐き気をもよおした。今夜は、一体何をしに来たのだろう。
「こっちに寄れ」
怖くてならなかったが、言われるままに小雲はのろのろと這っていった。すると獄卒は、手に抱えていた包みを格子の隙間から彼女に手渡した。小雲が訝しんでいると、彼は小さい声で告げた。
「鎮の連中が、お前に差し入れだとよ」
「私に? 何故ですか?」
獄卒はぶっきらぼうに語った。何でも、史建英の道理を踏みにじった振る舞いは、前々から鎮に住む人々にとって気に入らないものだったという。金桂奥様が夫に虐められていたことも、とうに何人かの人間の耳に入っていた。そんな折り、侍女の身分でしかない小雲が主のために史建英を殺したと聞き、多くの者が密かに彼女を称えたのだった。
小雲は毎日家の手伝いに終始していたので、そうした外の噂を余り知らなかった。史建英が鎮の嫌われ者だったのは薄々わかっていたが、まさかその彼の死が喜ばれるほどだったとは。すっかり呆然とした小雲は、事実を事実と受け止めるのに時間がかかった。
「お前を助けて欲しいと、賄賂を寄越す者もいたのだ。しかし、わしごときの力で法は曲げられぬし、うちの知事様は単純な方だから、情状酌量というものを知らぬ。それでせめてもと、鎮の人々はわしに差し入れを寄越したのだ」
小雲が包みを開くと、そこには新しい着物が二枚、下着が一枚、膏薬の瓶、それから菓子や果物が入っていた。
「史の若様ときたら、毎晩のように県城の廓通いをしておったらしいが、そこでの評判がまた悪かった。その着物は明燕という芸妓からの贈り物だ」
小雲の目元に、じわりと涙が浮かんだ。
ーーこれで良かったのかもしれない。
全ては金桂奥様のため、それだけだった。
彼女は包みを横へ置き、獄卒に何度も叩頭した。
「あの、ありがとうございます」
「わしに礼など言ってどうする気だ。金を貰わなけりゃ、お前に届けてやったりするものか」
この辛もろくでなしの人間だから、鎮の人々の金でようやく心が動いたのだろう。
「おい、明日の処刑の時、何かやって欲しいことがあれば聞いてやらんでもないぞ」
小雲はそう言われて、ふと以前金桂奥様の故郷で見た舞台のことを思い出した。題を「竇娥冤」といって、冤罪をきせられた寡婦・竇娥の悲劇を描いた一幕だった。その話の中で、竇娥は自分の無罪を証明するため、斬首にあたって首切り役人に一丈二尺の白絹を旗竿に吊して欲しいと頼んだ。もし自分が無実なら、刀に首を斬られて噴き出した血が全てその布にかかり、地面には一滴も落ちることが無いと。
死刑の当日、彼女の首が飛んだ時、彼女の血は確かに言葉通り全て白絹に散った。そして季節は六月、夏の盛りだというのに雪が降り始めたのだった。
せめて奥様には、私が無実だと知って貰おう。このやり方なら、きっと伝わるに違いない。
「獄卒様、私、白い布を一枚所望したいのですが……」
獄卒は笑った。どうやら小雲の意図を理解したようだった。
「はっは、お前、それは竇娥冤の真似事か。よかろう。白い布を持ってきて、旗に吊してやる。それもお前の血がはみ出さないよう、とびきりでかい布にしてやろう」
「ありがとうございます」
小雲も笑顔を浮かべた。それが喜びの笑みだったか、悲壮な笑みだったのかは、自分でもわからなかったが。
半日にも及ぶ言い争いの末、金桂は史家と離縁し、さらに葬式代の百五十両ーーこれは史の両親を納得させるために、少々上乗せされた額だったーーを払うことで話がついた。
全てが終わった時、史の両親、雨娘、金桂と彼女の両親、いずれも皆へとへとで、喉が渇ききっていた。金桂はまだ心がくすぶっていたが、史家の両親は金さえ貰えればそれで遺恨も無いようだった。結局、彼らはそういう人間達なのだ。
翌朝になって、雨娘が金桂を呼んだ。
「具合はよろしいの」
「大丈夫です。姉さん」
「小雲のことは、残念でしたわね」
「あの子があんなことをしたのは、私のせいよ」
「本当にそう思ってらっしゃる?」
金桂は雨娘を見返した。
「どうして?」
「あなた様の受けた傷を思えば、あの男の最期は自業自得もいいところではありませんか」
突き放すような言葉だ。雨娘は史建英を好いていたわけではなかったが、それでも家族の一人として彼のことを立てていた。それがどうして、こんな冷たい言い方をするようになったのだろう。
金桂はようやく、雨娘の様子がおかしいのに気がついた。背に嫌な感触が走り、思わず後ずさっていた。
「あなた、一体どうしたの?」
「今だから、申し上げます。史建英の死は、私が仕組んだことなんですの」
「そんなーー」
「理由は簡単なことです。わたくし達夫婦とあなたの夫婦、将来はこの史家の土地を両親から分けて貰わねばなりませんね。けれど正直な話、あの史建英のような男には、ここの半分の土地だって与えるのはもったいないと思いますの」
「あなた、まかりなりにも人の夫なのよ……! どうしてそんな言い方が出来るの?」
「まあ、とんでもない。わたくしが計略を用いなければ、あなたはそのうち、あの男に打たれるだけでは済まなくなっていたことでしょう」
金桂はうなだれた。雨娘の言うことが確かかどうかはわからない。ただ金桂は、もし犠牲が必要ならば自分が最初になるべきだと思った。夫にも小雲にも死んで欲しくはなかった。
彼女はすっかり心の抜け落ちた声で聞いた。
「小雲は、知っていてやったの?」
「いいえ。あの子は何も知っておりません。あなたが打たれていた晩、私は小雲がお茶を出しっぱなしにして居間へ駆けていくのを見たのです。すぐに茶葉へ毒の作用がある粉末を混ぜ込みました。騒ぎがおさまった後、私は何も知らない小雲に茶を持ってくるよう言いつけたのです。その後は特に問題もなく、事が済みましたわ」
「つまり……小雲に罪をなすりつけたの?」
「そうです。もっとも、その必要があったかと問われれば、その限りでもありません。わたくしの夫は知事様よりご出世なすったんですもの。私が犯人だと知れてもも、賄賂を出せば知事様も顔くらい立ててくださいます。ただ、身の潔白を証明しやすくするため、あの子に罪を着せたまでです」
今この場で相手の非を責めるのは時間の無駄だと思った。それよりも大事なことがある。彼女は謝らなければならない。
「私、小雲のところに行くわ」
「もう刑を止めるには間に合わないでしょう」
「そんなこと、どうだっていいの!」
金桂は家を飛び出した。
鎮の広場に、人だかりが出来ていた。ある者は念仏を唱え、ある者は喝采し、ある者は悔しそうに歯ぎしりしている。
やがて罪人が広場の円壇に引き出された。その表情は穏やかだった。何故なら、人々の出迎えるような視線に包まれていたからだ。
金桂も群衆の中に加わった。
役人が罪状を読み上げ、その隣でが研ぎ終えたばかりの刀を構えている。小雲はずっとうなだれていた。
そこへ役人が二人やってきて、大きな白い布を円壇の外へ敷いた。
人々は一様に訝しんだ。
「あのでかい布は何だね」
「首と死体をくるむのに使うんじゃねえか」
「それにしたって、大きすぎるんじゃないの?」
金桂は絶句していた。彼女にだけは、小雲の意図がわかったのだ。あれは昔、二人でよく見た「竇娥冤」の場面だ。
ーー小雲、小雲。ごめんなざい。
刀が高く掲げられた。役人はえいと一声、すっぱりと小雲の首を落とした。鮮血が、燃え上がる火柱のようにしぶく。だがその血の殆どは、大きな白い布へと降り注いだ。
金桂は、その場にふらふらと膝を崩した。
彼女の目には、小雲の流した血が目に焼きついて離れなかった。
「竇娥冤」の物語には続きがある。殺された竇娥は、霊になって父親の前に現れ、自分の無実を訴えるのだ。父親は官僚だったので、過去の裁判記録を調べ直し、娘の冤罪を知った。そして、自ら娘の仇を討つのだ。
実家に戻ってきた金桂のもとへ、ある日知らせが届いた。母が慌てふためいた様子で言った。
「ねえお前、史家の一家が毒で死んだんだって!」
金桂は目をしばたいた。
「全員、死んだの?」
「そうなのよ。何でも、お茶に砒素が入っていたとか。でも、誰が入れたのかさっぱりわからないらしいのよ。お役人様もお手上げだって」
「きっと、小雲の祟りがあったのよ」
「祟りですって? あんたったら馬鹿なこと言って」
母は、うちにお役人が来て捜索しなければいいけれど、と不安そうに呟きながらその場を去って行った。 金桂はふっと冷たく笑った。
物語は、しょせん物語だ。現実ではありえない。
でも金桂は、それを認めたくなかった。
小雲。あなたは自分が無実だって、私に訴えてくれたんだものね。私もわかっていたわ。自分が何をするべきだったのか。だから、それをやった。それだけのことなの。
鎮のみんななら信じてくれるわ。あなたの報われない霊が、自分の仇を討ったんだって。