二題噺 地下鉄と電子辞書
平日朝の地下鉄というものは、なんとも陰鬱としている。
ただでさえ暗いトンネルを走っているのだ。
それに加えて、スーツ姿の社会の歯車たちは憔悴しきっていて生気を感じる者がない。
学生たちは脇目もふらず手元の画面を眺めている。その顔には表情も無い。
車両を埋めつくす、黒を基調とした人々は、それぞれがその印象そのままに暗く重い雰囲気を醸し出している。
もちろん、自分とて例外ではない。何をするでもなく、何を考えるわけでもなく、ただ目の前の車窓を眺めていた。
ずっと変わらない景色。無機質なコンクリートの壁だけが流れていく。
強いて何か考えていたというなら、その車窓と自分の平坦な日常を重ね合わせていたくらいのものだ。
シンとした車両が時折薄暗いホームを通り過ぎていく。
朝の車両に会話は無かった。
聞こえるのは車両が線路を踏む音と、人間味を感じないアナウンスの女性の音声だけ。
地下鉄はひたすらに暗いトンネルの中を進み、俺達を平凡で平坦な日常へと運んでいく。
その日常に疲労感と、安心すら覚えながら俺は微睡んだ。
「bright」
「えっ」
ネイティブすぎるほどにネイティブな英語で目が覚める。
俺が目を開けるのとほぼ同時に、何かが落ちる音、滑る音。
目の前にはいつの間にかセーラー服の女子高生が座っていた。何やら慌てふためいている。
ふと足元を見ると、電子辞書が転がっていた。
「す、すいません!」
電子辞書に手を伸ばしながら頭上を見上げると、目の前に座っていた女子高生が顔を真っ赤にしてこちらへやってくる。
おおかた、英単語を調べていたら誤ってリスニング機能のボタンを押してしまったのだろう。
電子辞書所持者なら1度はあのなんとも言えない空気を体感したことがあるに違いない。
同情を含んだ視線を彼女に向けた。
途端、血圧が上がる。照れたようにはにかみながらこちらを見据える二重瞼の瞳とそれをおおう長い睫毛。
すっと伸びた鼻筋と、小さい薄ピンクの唇。それらのパーツが真っ赤に染まる顔に完璧なバランスで存在していた。
真っ直ぐ流れるロングヘアの黒髪が美しい。
その顔に視線を奪われたまま、電子辞書を手渡した。そんな中でも顔を作ってしまうのは男の性であろう。
「はい。」
「ありがとうございます。」
向けられた照れ笑いに、たまらず目をそらす。
車窓には、いつもよりひときわ明るい降車駅のホームが現れた。