Sub 7( 生霊 ) ~1~
もはや不定期更新。
***Function 7( Who's who? ) as 榊識視***
こんな話を聞いたことがある。
ある男が週末を利用して泊りがけで趣味の登山へ出かけた。
特別なトラブルもなく休日を過ごしたその男は帰宅前夜に暇を持て余して友人に電話を掛ける。すると出た友人は彼の声を聞くなりおかしなことを言い出したのだ。
「君は誰だ! 君は死んだはずだろう!」
もちろん男は友人が何を言っているのか判らない。
何とかなだめすかして話を聞いてみると、それはまた不可思議な話であった。
なんと昨日、別の山で男の死体が発見されたというのである。
それは顔も背丈も身に付けた物も何もかも男と全く同じであり、連絡を受けて駆け付けた両親・親族ともに男本人であると認めざるを得ないほどだったのだそうだ。
しかし、実際に男は五体満足で生きている。結局その死体はそっくりな別人のモノであるとされたのだが、それが一体どこの誰だったのかについては結局判らず仕舞いということになった。
興味深く聞いたものの、結局のところは『スワンプマン』の思考実験あたりを参考にして創作された都市伝説、或いは数多ある世界各地の不思議な話の一つだろうと当時のわたしは結論した。
どちらにしろ本当にあった出来事ではない作り話か、もしくは何か天文学的な確率で偶然が重なった結果に起きた事件ということである。この推論をロマンのないものだというほどその頃のわたしは無邪気ではなかった。ようやく歳を数を数えるのに片手では足りなくなったという時期だ、子供だったという理由を立てれば仕方がないと擁護してもらえることだろうが、振り返ってみれば我ながら視野の狭い見解だったと思う。
もっとも、この話を後から再考することをしなかった現在のわたしもそれは同罪だ。
しかし言い訳をさせてもらうなら、今までその必要が発生しなかったし、またしていないからと言って何か困る事が起きるなど全く想定していなかったし、できるはずもなかった。
──まさかこうして、その実例に自分がなってしまうまでは。
さすがのわたしでも、この状況が現実だと認めるのには丸一日かかった。
頭蓋と頚椎を砕き脳漿をぶちまけて死亡しているわたし自身を、野次馬の一員として眺めているときは、たちの悪い夢だと思った。
少し周りの様子を確認してどうにも夢ではないらしいと気付いたわたしは、じゃぁ幽霊になってしまったのだろうかと考えた。
我ながら常軌を逸した発想ではあるが、この時わたしは「ついに幽霊の実証に辿り着いた」と少し興奮したものだ。
しかし、また少ししてみるとすぐに違和感に気付いた。
どうやら自分には物理的な実体があるらしい。人や壁をすり抜けるなどと言うステレオタイプなイメージ通りの幽霊の振る舞いはできなかった。本物の幽霊とはこういうモノなのだろうかと新たな発見に喜ぶほど私もおめでたいわけではない。……いや、もしそこまでならばそう言う解釈もしたかもしれないが、もう一つ気づいてしまったことがあったのだ。
自分の肉体がまだ真っ当に新陳代謝機能を失っていないことに。
つまり、私はどうやら生物学的にまだ生きた身体を持っているらしいと。
遅まきながらと言うにも遅すぎるが、わたしはここでようやく己の置かれた状況に戸惑い、混乱した。
生きていることに戸惑うというのも変な話ではあるが、目の前で無惨に死んだ自分の姿をはっきりと見た後なのだ。しかし生きた自分が此処にいることも、自覚的には間違いない。どうにか振り絞った理性で状況を探ってみても、やはり転落死した人物は榊識視であることに間違いはないとわかってしまった。
まさかこの言葉を意味の裏表無く言う日が自分に来ようとは思いもしなかった。
──わたしは、誰だ?
榊識視が間違いなく死んだというのであれば、今ここに居る、自分が榊識視であるという自覚のあるわたしは一体何者なのだろうか。
あらゆる分野で喰い散らかすように様々な解答を導き出し続けてきたわたしは、殆ど初めて出会ったとすら言える方策すら思い浮かばない難題に、生まれて初めて途方に暮れてしまったのだ。
『わからないもの』を求めて今までやってきた、という自覚のあるわたしにとってコレは本来なら喜ぶべき成果のはずなのに、感慨も達成感もあったものではない。
わからない、ということはこんなにも空虚で不安なものなのか。と、新たな発見というよりは手痛い教訓として実感した。
その後どう動いてどれだけの時間が過ぎたのか、当時のわたしは判っていなかった。
気付いたときには、わたしは百年桜公園駅前の端っこにあるベンチに座ってぼんやりと百年桜を眺めていた。
いや、この言い方は正確ではない。
正しく、わたしが明確に意識を戻したのはこの直後。ふいに声をかけられた時だ。
「この街は万魔殿か何かなのかしらね?」
「……え?」
後から思い出してみると、声をかけられたと思ったのも単なる私の勘違いで、彼女は単に独り言を呟いただけのつもりだったのかもしれない。
それは赤い女性だった。
実際に赤い色彩を放つのは光加減でそう見えなくもない明るい茶髪と装飾品くらいで、特別全身真っ赤な装いをしているというわけでもなかったのだが、何故だかそんなイメージが真っ先に意識を占拠した。
「一区画も歩くともう別の怪異が転がってる…… 同じ地上にある場所とは思えないわね」
「……あの」
やはり口ぶりが独り言のような気配を含んでいたのだが、あからさまにわたしを見つめながらしゃべっているので思わず声をかけてしまった。
少し迂闊だったかとも思ったが、発した声は引っ込めることなど出来ない。それにどうやら赤い女性も髪を掻きあげる仕草をした後、先を促すようにこちらを見据えたまま口を閉ざした。
向けられる視線は驚くほど鋭い。普通の人であれば意味もなく謝罪してしまいたくなるだろう力強い視線だった。が、わたしは残念ながら余り普通とは言いがたい生き方をしてきた身である。この程度で怯むようにはできていなかった。
「……貴女は、わたしのことを知っているのですか?」
複数の意図を含めてわたしは問う。
この意味を判るような人間でないならば、現状で頼るには値しない人間であると判断できる、そんな問いだ。
果たして彼女は──どうやら想像を遥かに超える人物だった。
「──その質問に正しく答えが欲しかったら一つ答えなさい」
「え?」
「あなた、名前は? 名乗ってごらんなさい」
ここで「わたしの名を知らないのか?」と思ったあたり我ながら驕りが過ぎることだが、しかし彼女の目を見てこの質問に単なる名を聞くだけとは違う意図があるのではという直感があった。「名前は?」ではなく「名乗れ」と言われたことに意味があるように思えたのだ。
「榊、識視」
「……なるほど」
わたしの名を聞いた途端、彼女はすっと冷たく目を細めた。
果たしてこのやり取りにどんな意味があったのか、この時のわたしには見当もつかなかったが、案の定単なる名前の確認と言う以上の意味があったらしいことだけは察することができた。この後赤い女性の呟く独り言めいた言葉の意味を、わたしは長らくの時間を費やして知っていくことになる。
「榊と樒で『木姓』の上『木名』、どちらも神木。さらに境木に閾で境界を表す二重の意味名……そりゃあ普通の人生なんて望むべくもないわね。自覚もないようだからそういうのを伝承した家系でもないようだし、名前に縛られた一般人の例としては同情に値するレベルの悪質な偶然ね」
「……は? 何を──」
「良いわ、あなたの質問に三つまで答えましょう」
わたしの反応などは無視して一方的に彼女は言う。会話しているはずなのにまるで赤い女性がひたすら独り言を話しているかのようだ。
「ただし、私は人を導かない。だからあなたは自分で路を選ぶために必要な情報を私から引き出しなさい」
突き放す様なその言葉に、しかしわたしはどこか安堵していた。
プライドが高いと言われてしまうかもしれないが、やはりわたしは人に示された路を歩くというのは性に合わないようだ。だからこそ今までのわたしはできる限り誰も歩いたことのない場所を目指してきた。今回だってそうやって前に進むのが自分らしい正しい行動のはずだ。
ならば、正しく歩んでいくために、わたしはわたしの現状を知り、そしてわたし自身を自覚する必要がある。
そのための質問が三つ。
とても適切な数だ。過不足が無い。
もしかするとこの赤い女性は、必要以上の事を知っているのかもしれない。
だが、それを聞き出すつもりはない。それは自分で導き出すべきものであるはずだからだ。
必要なのは、立ち位置とスタートラインの場所、そして己が身一つ。
「わたしは死んだのですか?」
「その通り、あなたは死んだわ」
「わたしは生きているのですか?」
「その通り、あなたは生きているわ」
「わたしは、──誰ですか?」
「……良い質問ね。答えましょう、あなたは──」
***End Function
「……、いや違う。そんなはずはねぇ。──あんた誰だ?」
「可笑しなことを訊くのね、聖園架折さん? 今ちゃんと呼んでくれたじゃない」
明らかに動揺している聖園架折に対して、したり顔で彼女──榊識視は言う。
言葉面だけ見れば彼女の言い分の方がもっともではあるが、心情的には聖園架折のほうへ同情を禁じ得ない。
「馬鹿いうんじゃねぇよ、榊識視という女は間違いなく死んだはずだ、大勢の目の前で脳天カチ割ったんだぞ? 実は生きていましたなんてお約束は不可能だ。別人が死んだという線もねぇ、つまりお前は榊識視ではありえない」
「あらあら? あなたは悪魔の存在を証明できるとでも言うの? 『ありえない』だなんてどうやって証明するつもりなのかしら?」
「……ちっ」
聖園架折から、さっきまでの私相手の余裕が完全に消失している。かく言う私も識視さんに抱きかかえられたまま状況に付いて行けずにフリーズしているのだが、幸いにも会話の射線から逃れたおかげで身体から切り離されて無駄に冷静さを保っている思考の片隅が場を俯瞰していた。
ついさっきまで完全に場を支配していた聖園架折は、飄々とした態度で余裕を示す識視さんに主権を完全に奪われ、しかし感心すべきことに口調と態度だけは強気な姿勢を崩していない。
もっとも、ただ虚勢にしか見えないのだが。
「……判った判った、つまらねぇ問答をしていられるほど俺も暇じゃねぇんだ。良いだろう、百歩譲ってテメェを榊識視と認めよう。で? だからなんなんだ。もはや世間からは完全に故人扱いされているあんたは一体今さら俺の前に現れて何をしようってんだ? 復讐でもしに来たのかい? 『よくもわたしを殺したわね』とか三流ホラーみたいなセリフでも宣いに来たのか?」
「まさか、むしろ感謝しているくらいよ? こんなに面白い境遇を体験できるキッカケをくれたのだから。なんならお礼の一つもしたいくらいよ」
「じゃぁ今すぐ消えろ、そしてぜってぇ世間様に顔を出すな、あんたが死んでないとバレると俺が困る」
「後者は別にかまわないけど、前者の頼みは残念ながら聞けないわね」
「どういうこったよ? 一体何が目的だ」
「簡単な話よ。そう何でもかんでも難しく論理的に考えるものではないわ、人間の行動理由なんてとても単純なのよ?」
「もったいぶんなうぜぇ! 目的はなんだ!」
強気な態度と言葉の割に判りやすく固唾を飲む聖園架折。
当然の反応と言えよう。このタイミングで現れておいて、まさか彼女にとって都合のいい展開など期待すべくもないのだから。
それに相手の得体も知れない。
たとえ彼女が榊識視本人でも、それを騙る何者かであったとしても、正面切って敵対するのは危険な相手であることはほぼ間違いない。
はたしてこの場の状況をひっくり返すであろう識視さんは──何故か腕の中に居る私を背後から抱きしめなおして言うのだった。
「惚れた相手のピンチに颯爽と登場して、カッコつけたかったのよ!」
この場を取り巻く空気は一変した。
そして……
………………はぁ?
「………………はぁ?」
絶対に判り合えないだろうと思っていた聖園架折と私が心を一つにした瞬間だった。