Sub 6( ジャスパー ) ~2~
***
ギャリギャリギャリ!!
という細かく金属がぶつかりこすれ合うような音が辺りに響いた。
今度は何事かと思うのもつかの間、私はその答えを身を以て教えられることになる。
それは赤い鎖だった。
まるで生きた蛇のようにのたくって地面を走ってきたその赤い鎖は、私が何かしら反応するよりも一歩早く狙った獲物に巻きついてその自由を奪う。……ちなみに動けなくなった哀れな被食者は、私である。
「邪~魔っ!」
つい最近どこかで聞いたような声が聞こえたかと思うや否や、次の瞬間私は宙を舞っていた。さっきから能動的な事をあまりしていないはずなのに位置エネルギーの変動に忙しいなぁ、私。
万有の冠に偽りなく、地球よりの引力に縛られた私は、宙を舞う者の当然の帰結として次は一時的に離れていた地面へと引き戻される。同時に赤い鎖にも縛られているから当然受け身など取れようはずもなく──というかたとえ万全の態勢だったとしても正しい受け身の取り方なんて知らないから結局何もできないのだけれど──私は堅いアスファルトの上へ無造作に投げ出された。
幸い頭からの接地は免れたために大事には至らなかったのだけれど、代わりに背中を強打したおかげで強制的に肺の中にある空気を押し出され、おかげで痛みよりも息苦しさが先行した。
そのまま起き上がることもできずに咳き込んでいると、またギャリギャリという音とともに私を拘束していた鎖がほどけてゆく。
私にこんな酷い仕打ちをしたのは一体何なのか──なんて考える余裕もなく、ただ無意識的な行動として離れてゆく鎖の行く先を眼で追う。そこには、全体的には地味な色彩の格好をしているにもかかわらず、妙に『紅い』印象を受ける女性の後ろ姿があった。
その奇妙な存在感は間違うはずもない、それは数日前に遭遇したイオの言うところの『専門家』であるらしい人物である。
風もないのにベージュのロングスカートがはためいているのは、どうやら神懸り的な演出過多というわけではなく、つい一瞬前までそれなりに大きな挙動をしていたという証左であるらしい。
なぜこんなところに彼女が、という疑問は先ほどまで私を絡め取っていた鎖はギャリギャリと鳴きながら彼女の左手のひらへ吸い込まれていくのを確認したことで氷解する。どうやら私を曲芸じみた方法で荒っぽく放り投げたのは彼女であるようだ。
……というか、なんだあれ。
こんな状況だから逆に判ることだが、今の鎖は何か仕掛けがあって紅い女性の袖口に収納されたとかそういう現実的なギミックでもなんでもなく、見えたとおり本当に彼女の手のひら……正確に言えばそこにある小さな穴──切り傷にも見える──に吸い込まれていったようだった。
……あまり深く考えるのは良くなさそうだ。ただでさえ今は色々とまともに頭が働く気がしない。
出来ればそういう理解の及びそうに無いモノはこれ以上見せないで欲しい、私の世界観が激しく揺さぶられてしまう。
イオに出会った時点で既に大分軸がブレてはいたから手遅れだという意見もある。
「こんばんわ、良い夜ね」
なんて場にそぐわない呑気なな声が挨拶だと気づくのに瞬き三回分の時間を使った。
もはや何を言って良いか判らない。
判らないのでもちろん私は押し黙る。紡ぐべき言葉が無いのに無理やり声を出すほど私の脳も喉も旧態依然とした超過労働を礼賛したりはしないのである。
私の沈黙に対して変わらず背中しか見せていない紅色の彼女はしかし、まるでよくよく私を観察したかのように言う。
「動けるようならさっさとこの場を離れなさいな。別にそこに居られたからといって私の仕事に支障が出るなんて事はないけど、貴女にとって『アレ』は見ていて気持ちいいものじゃないでしょう」
そう言われてやっと気づいた。
毅然と立つ赤い女性の向こうに、私は『ソレ』を見た。
──片腕を無くし頭が縦に割れ開いた、私の姿を。
う、うわぁ……
それはもう、筆舌に尽くし難いオブジェである。なまじ姿かたちが自分と同じだから非常に複雑というか怪奇な気分だ。
しかも、そんな状態であるにもかかわらず『ソレ』の足からは力が抜けることが無く、立ち続けているのである。
否、それだけならば五十歩ほど譲って良しとしよう。
だがあろう事か『ソレ』はじわじわとうごめいているのである。具体的には後方へ飛んでいった片腕が地面を這い、割れた頭が徐々に塞がろうとしている。ビデオの逆再生でも見ているようだ……なんて表現できたらよかったのだけれど、あいにくと『ソレ』の蠢動は嫌になるほど生っぽかった。
数メートルほど離れた場所から本体へ戻ってくる片腕より一歩(一手?)早く元に戻った『ソレ』の顔は、やはり私と同じ形をしていて、まったくそぐわないニヤケ顔をしていた。
「あら、この『ブギーマン』はしぶといのね。人の形をしてるから脳を破壊すれば済むと思ったんだけど……ふむ、なら──」
それはゾンビへの対処法である。どうやら私の生き写しは古式ゆかしい王道アンデット扱いのようだ。どうにもそんな典型的不死者よりもよほど生き汚いようだが。
で、『ブギーマン』て?
「バグの実装体のことよ。名前なんて統一的に決まっているわけじゃないから色んな呼び方があるの……そしてレイ、アナタは今そんなことに首をかしげている場合じゃないでしょう? 早く立ちなさいな、今貴女が向き合うべき相手は『アレ』じゃないわ」
現実逃避が一周して堅実に目の前の素朴な疑問に頭を回すとは、我ながらウィットにとんだ思考回路である。
が、今はそんなユーモアのセンスを鍛える場ではなかった。
目の前の赤い女性やイオの言葉に従って、私は速やかにこの場から離れるべきだったのだ。
そうしていれば、こんな画を目に焼き付ける羽目には至らなかっただろう。
「──《紅刃》」
そんな声が聞こえた数瞬の後、紅い女性を挟んで少し離れたところでほぼ再生が完了しかけていた『ソレ』は、今度は縦横無尽に宙を飛び交う五枚の赤い刃に幾重にも切り刻まれて、すっかり原型をとどめない粗引きのミンチみたいになっていた。
しかも、それで事切れれば良いものを、無数の粘土の破片みたいになった『ソレ』はなおもモゾモゾと蠢いて復元しようとしている。
正直なところ、血の一滴も出ない『ソレ』は切り刻まれた肉片になっているときよりも再生中の方がよほどグロテスクである。
「あぁ、なるほど」
未だ息絶えることのない『ソレ』を面倒くさそうに眺めていた赤い女性は唐突に何かを思い出したみたいに私の方へ目を向けてきた。
ちなみにさっき私の姿をしたモノを容赦なく細切れにしてくれた五枚の刃はいずれも健在で、彼女はそれを曲芸みたいに地面に落とさないように空中で順番にキャッチしては上へ放り投げてくるくると滞空させている。
ついさっきの光景が記憶に新しいから、いつ自分に飛んでくるのかと言う想像が膨らんでとてもじゃないがまともにコミュニケーションを取れる気がしない。
「『参照元』が近くに居るから復元力も強いのね」
そんなことを言うや否や、また一つ手元に落ちてきた刃を今までのように上へ放り上げるのでなく──まっすぐ私に向かって投げつけてきた。……え?
──バシャ
と地面に赤い液体がまき散らされる。立ち込める鉄の匂いは間違いなく血のそれだ。
細長い木の葉のような形をした刃は、円盤に見紛うほど強烈に回転しながらまるで吸い込まれるように私の首元へ飛び込んで、そして通り過ぎたのだ。
……?
だが、そう言った事実を確認できる自分が居ることに気付く。
一瞬自分の首と胴体が泣き別れてしまったのではないかと本気で思ったのだがどうやらそうではないらしい。どころか私は体のどこにも血が出るような傷を負ってはいない。
地面にまき散らされた血は、どうやら飛んできた刃が、その形を失ったなれの果てであるらしかった。
「ふっ、はっ、やっ、とっ!」
攻撃の手は休まることを知らず、残り四枚の刃も余さず私に牙をむき、そのすべてが目の前で鮮血へと還り、私の背後には血の池が形成される。
すべての軌道が確実に一撃で人間を殺しめるところへ向かってくるものだから飛んでくるたびに私の精神力はガシガシと削られていった。……さて、そろそろ気を失ってもいいですかね?
「ちょっと、何の真似よ?」
思考がホワイトアウトしかけている私に代わってイオが抗議の言葉を上げている。
「相手が違うでしょう? 貴女は貴女の仕事をしなさいな」
「それはこっちのセリフよ、そこのお嬢さんはいつまでそこで自分が嬲り殺される様を観察しているつもりなのかしら?」
「メンタル強度にむらがある娘なのよ。アナタの所為で冷静さを保ったまますっかり腰を抜かしちゃってるじゃない」
「だからさっさと離れろと最初に言ったのに、こっちも仕事にならないじゃない。パニック起こしてくれた方がよほど扱いやすいわ」
……どうやら総合的に見て私に非がありそうだ。
一刻も早くこの場を立ち去るのが誰にとっても都合がいいらしい。しかし、イオの言うとおり足腰にちっとも力が入らない。
さてどうしたものかと言うことを聞かない身体にアレコレ命令を送ろうと試みていると、赤い女性の背後で何かが大きく動くのが見えた。
何かも何もない。
いつの間にか再生を終えた私の姿を取るバグの実装体ジャスパーである。
私に成り替わろうという目的意識しか持たないそいつは、どうやらその障害物になりそうなものの排除を決定したようだ。私ならば絶対にしないような俊敏な動きで赤い女性の背後に迫る。
「《紅鎌》」
だがしかし、どうやら相手が悪かったらしい。
いつの間にやら刃渡り一メートルほどと見える大きな鎌、所謂デスサイズなんて呼ばれそうな真っ赤な得物を何処からともなく取り出した赤い女性がさっと身をひるがえした。直後、胴体ごと完全に真っ二つにされた私そっくりの『ソレ』が地面に投げ出された。
そして今までの状況から容易に想像できる通り、『ソレ』はそんな状態のまま動きを止めない。
物理的に左右に別たれた顔がぐにゃりと、生き物にあるまじき動きで首をひねり、各々片方ずつしかない目をまっすぐと、私の方へ向けてきた。
想像できるだろうか。
縦半分に引き裂かれた自分と全く同一の形をしていた存在が、そのまま左右からいっそ熱いと表現してもよさそうな視線を同時にくれたときの気持ちが。
身の毛もよだつ、なんてレベルじゃない。
うっかり腰が抜けていることを忘れて飛び上がるように立ち上がって後ろ向きに幅跳びをしたかのような勢いで後ずさってしまったくらいだ。
「立てるじゃない。ほらここの事はいいから、貴女たちはさっさと自分のすべきことをしてきなさい」
大鎌を肩に引っかけて「ちょっと外の空気でも吸って来なさい」みたいな気軽い声を放つ赤い女性は、なぜか言葉とは裏腹に掌を上に向ける形でくいくいと手招きをする。
その動きの意味を測りかねていると、足元に広がっていた血だまりが沸騰したかのように泡立ち、次の瞬間には日本の細長い槍のような形になって飛び出し、転がっていたハーフサイズの私(達?)の顔面に深々と突き刺さった。
「ほらほら、早くいかないともっとショッキングな映像をお見せしちゃうわよ?」
あまりにも酷いダメ押しだった。
生理的な拒絶感が胸のあたりをムカムカさせる。もしこれで私の似姿が正しく人間らしい構造をしていて血や内臓をぶちまけていたりしたら、私はあっさり嘔吐して意識を手放していたことだろう。
「とりあえず離れるわよ、レイ」
言われるまでもなく、私はもう一目散にこの凄惨な現場に背を向けたのだった。
***
少し移動して遅まきながら気づいたが、現状私は行く道を見失っていた身である。唯一の目印は百年桜のある方角だったのだけれど、肝心のその方向へ続く道からジャスパーだなんて得体のしれないモノが現れ、そしてさらに得体のしれない人物によって解体ショーのマグロにされてしまったのだ。そこから逃げ出しているということはつまり、唯一の目印からさらに遠ざかっていることを意味する。
おうちかえりたい。
なんて悠長なことを言っている場合ではないのは承知しているが、それでもせめて自分の行動範囲には出たいところだ。
そうすると、こうして百年桜と逆方向、つまり百年桜市外縁部に向けてまっすぐ走るのは得策ではない。市の中心部付近こそ、そこそこ地理を把握してはいるが、外縁部となると下宿先のアパート付近と、百年桜学園付近くらいしか出歩いたことがない。さっき見た電柱の住所も見慣れた物でなかったところからしてそのどちらの付近でもなさそうである事が判っているから、これ以上進むとさらに戻るのが困難になってしまう恐れがある。
さっきと違って常に追ってくるナニカがあるわけでもない。私は十分距離を取っただろうと思ったあたりで徐々にペースを落として立ち止まった。何となく不安に駆られて背後を見るがいかなる存在も追いかけてきている気配は感じられない。
……それはそれで、何か引っかかった気もしたがとりあえず保留する。
周囲へ気を配りつつ息が整うのを待っていると、さっきからずっと四肢へ優先的に回されていた血流がようやく頭の方にも流れてくるようになり、改めてさっきまでの光景を思い出してその異常さに戦慄する。
出来る事ならこれ以上、変なものには関わりあいたくない。
がしかし、少なくともあと一回、面倒なことに首を突っ込まなければならない用事が残っている。そう思うとため息の一つもこぼれようというものだ。
「ほらレイ、もうそろそろいいでしょう、行くわよ」
そうイオが急かしてくる。
彼女の急く気持ちはわからないでもないが、しかしじゃぁ行くと言われてもどっちへ行けばいいのかが判らない。周囲を見渡しても現在位置を確認できそうなものが、またしても何もないのである。道を聞けそうな店舗もなければ通行人も誰もいない。
『百年桜町』開催期間中で普段の数倍の人口を抱えているはずの百年桜市でも、外縁部まで来てしまうとこうも静かになってしまうとは。
都合のいいことを考えるならここで知り合いにでもバッタリ出くわしたりすれば、万事解決するのだけれど……いやでもまたさっきの赤い人だけは遠慮したい。
「ほら、他力本願ばかりしていないで自分の足と頭を使いなさい」
とまたつまらぬ小言を言うイオだが、そういえば彼女こそ自称しているところの『電子の妖精』たる本分を発揮してくれるべき場面ではないのか。GSPみたいなこと出来ないの?
「……できなくはないけれど、そんなこと言うなら自分の携帯使ったら?」
………………ごもっとも。
普段あまり使わない機能ゆえに、そういうものを使う発想がなかった。
さっそく端末を手に取り、地図機能なりGPS機能なりを探す。何せ普段使わない機能だからパッとどこにあるのか判らない。
ようやく見つけたGPS機能を起動しようとして、私はまた一つの異変に気付く。
電波状態を示す表示がおかしい。
いまどき街中で電波が届かない場所など存在しないと言って良い。だからある意味、電波状態を示す表示は基本的に『良好』状態が固定表示だと思ってほぼ間違いないのだ。しかし今私の持つ携帯のディスプレイに写っているのは普段見慣れたアイコンではなく、見慣れぬ無機質な文字だった。
『圏外』
現代において街中でこの表示がされる現実的な可能性は故障くらいしかない。
だからこれも、運悪く壊れていたのだと思うのが自然な流れだ。
だがなぜだろう、酷く嫌な予感しかしない。
まるで私を家に帰すまいとする作意が働いているんじゃないかとか、そんな自意識過剰を通り越してセカイ系や陰謀論めいた発想が、なぜか現実的な故障という可能性よりも先に頭をよぎった。
「あれ? キミは確か……」
と、私が使い物にならなくなった自分の携帯とにらめっこをしていたところに、そんな声がかけられた。
さっきまで私以外の人間が周りに居なかったから、自分でもイオのものでもない第三の声に思わず過剰反応して、身体ごとその発生源の方へ向き直る。
「ああ、やっぱり。聖園妹のクラスメイト……桜月さんだっけ?」
その姿をとらえた私は、驚きつつもしかし、思考の奥底では冷静にこう思っていた。
──ついに来たか、と。
「どうしたんだい、こんな所に一人で」
そんな物怖じせず、気さくで人好きするような話し方をする──穿ってみればどこか女性を言いくるめることに小慣れたように感じるその口調と、出来合いみたいな甘いマスク。
「……あれ? もしかして僕の事覚えてない? まぁ、確かに顔を合わせたのはあの日の昼休みと帰り道だけだからね。そのあと色々事件とかあったし無理もないか」
聞いた話を鵜呑みにするならば、こんな所では絶対に鉢合わせることのない人間。
「僕の名前は行方一。聖園姉妹や神無たちと一緒に昼飯食べたの、覚えてないかな?」
行方一。
それは、一家丸ごと失踪したと『噂されている』はずの、少年の名だった。