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霧の向こうの寸法

1:特急車内


レールの継ぎ目が、規則正しい金属音で透の胸を叩いていた。カタン、カタン。心臓のリズムと完全に同期し、やがて区別がつかなくなるほどに。


新2000系の特急「あずさ」は、中央本線の山並みを縫うように走っていた。窓の外には、青みがかった緑の山肌が流れていく。秋の光は斜めに差し込み、葉脈一本一本を金色の糸で縁取っているようだった。透はその光景を、設計図を見るかのように「寸法」で捉えていた。山の傾斜は約25度。木々の間隔は平均して1.8メートル。これは計算ではなく、身体が勝手に測っていた。


鞄から銀のスプーンを取り出し、指先で撫でた。表面には無数の傷がある。祖母が生きていた頃、このスプーンで毎朝、紅茶のミルクを混ぜていた。今は紅茶も飲まないのに、なぜ持ってきたのか、透自身にもわからない。ただ「旅に出るなら」という直感だけで、鞄に突っ込んだのみだ。


隣席には、白髪のお年寄りが座っていた。手元には新聞ではなく、小さな写真のアルバムを広げている。透はちらりと覗き、妻の写った一枚を見つけた。女性は笑顔で、背景には桜の木がある。おそらく春に撮られたものだ。


「軽井沢までですか?」お年寄りが突然、咳き込みながら口を開いた。声は枯れていたが、澄んでいた。


「ええ」透は短く答えた。


「私もです。奥さんの遺骨を……散骨しに来ました」


透は何も言えなかった。ただ、お茶の匂いがした。お年寄りの服から漂ってくる、古い薬品と石鹸の混ざった匂い。それは、祖母の家で嗅いだことのある匂いと重なる。


「奥さんは、どんな人でしたか?」透は尋ねた。自分でもなぜ聞きたくなったのかわからない。ただ、沈黙が耐え難かったのだ。


お年寄りは一瞬だけ目を細め、それからアルバムを閉じた。

「口うるさかったな。毎朝『また寝坊したの?』って。でもね、その声がないと、朝が始まらないんだよ」


透はうなずいた。自分の祖母もそうだった。毎朝、台所から響くフライパンの音と、「まだ寝てるの? 日曜なのに!」という声が、時間の目覚まし時計だった。今はもう、そんな音もない。


特急車内の革シートからは、新しい匂いが立ち上っている。コーヒーを淹れたばっかりのような、焦がした豆の香ばしさだ。透は鞄から紙コップを取り出した。駅で買ったホットコーヒーだった。一口啜ると、舌の先が痺れるような苦味が広がった。砂糖もミルクも入れていない。純粋な苦味だけが、喉の奥まで落ちていく。


「苦いね」お年寄りが言った。透の口元を見ていたのだ。

「ええ」透は答えた。「でも、目が覚める」


レールの音はまだ続いていた。カタン、カタン。それは時計の針ではなく、何らかの巨大な機械が体内で回っている音のようにも聞こえた。透はその音に身を任せ、目を閉じた。車窓の光が瞼を赤く染めている。


2:軽井沢の霧


軽井沢駅に降り立った時、透は自分が「ここ」にいることを確認するために、一度深呼吸をした。空気は冷たくて湿っていた。肺の中まで沁み込むような、生きた水の匂いだ。10月の朝だ。気温は約12度だろう。服の袖口が少し濡れている。


ホームには誰もいなかった。ただ、遠くから犬の鳴き声が聞こえる。透は鞄を肩に掛け、駅舎を出た。足元には落ち葉が積もっている。踏むと、乾いた音がした。それは、夏の間眠っていた土が、ようやく目を覚ました音だった。


霧が出ている。乳白色の薄い幕が、林道全体を覆っていた。前方十メートル先はまったく見えない。透はその中を歩き始めた。靴底が砂利を擦る音が、不気味に響く。自分の足音だけが、この世界で唯一の時間軸を示しているようだ。


林道は狭い。幅はせいぜい三メートル。両側には杉の木が立ち並び、枝が頭上で交差している。光はほとんど届かない。ただ、霧の中にわずかな白さがあるだけだ。透はその白さを追って歩き続けた。


すると、鹿の骨が見えた。道端に転がっている、白い前足の一部だ。指先まで残っていた。誰かが拾おうとしたのか、それとも風で吹っ飛んできたのかはわからない。ただ、きれいに乾いていた。数週間前のものだ。


透はしゃがみ込み、その骨を触った。冷たい。表面には小さな苔が付着している。祖母も鹿を見たことがあると言っていた。「軽井沢の朝には、よく林道に現れるんだ。目を合わせてはいけないよ」と。なぜ目を合わせたらいけないのか、祖母は説明しなかった。ただ「そう言われている」とだけ答えた。


今は鹿はいない。骨だけが、ここで時間を守っている。透はそのことを思いつつ、立ち上がった。霧が濃くなってきた。前方の白さが、次第に灰色に変わっていく。


3:古い家屋の前


林道の突き当りに、家が建っていた。平屋建てで、外壁は苔むした石積みだ。屋根には瓦ではなく、厚い杉板が積んである。年季が入っている。少なくとも五十年は経過しているだろう。


透はその前に立ち止まった。鍵穴は古式ゆかしい円形で、直径約一センチだ。銀のスプーンを取り出し、鍵穴に当ててみた。意味はない。ただ「触れてみたい」という衝動だけで。スプーンの冷たい金属が、鍵穴の縁をなぞる。


すると、家の中から猫の声がした。


「ミャー」


一声だけだった。透は息を呑んだ。中は廃墟のはずだ。窓ガラスも割れているし、ドアも開いたままになっているのに。誰かが住んでいるのか?


もう一度、スプーンで鍵穴を叩いた。「コン」という音と共に、また猫の声がする。今度は二声だった。「ミャー、ミャー」


透はドアを開けた。カギなんてなかった。ただ「開いているだけ」だった。中は暗い。埃と乾いた木の匂いが混ざり合った空気が、鼻腔を突いてきた。床には落ち葉が積もっている。外から風が入ってきているようだ。


猫はどこにいるのか?透は目を凝らした。そして見つけた。庭先にあった瓦の裏に、小さな黒い影が隠れている。目が光っている。黄色い瞳だ。


「出てこいよ」透は無意識に言った。声は震えていた。「ここで何してるんだ?」


猫は動かなかった。ただ、透を見つめているだけだ。その視線には、恐怖も警戒心もない。ただ「知っている」という表情だった。


4:旅の終わりの始まり


透は家の中に入った。足元が軋む。床板が乾いて割れているのだ。一歩ごとに音が出る。猫はその音を聞いていた。透もその音を聞いていた。二人――いや、一人と一匹――が同じ空間にいることを、音だけが証明していた。


窓から差し込む光が、埃を照らしている。微かな粒子が舞っている。それは雪ではなく、時間の残骸だった。祖母が生きていた頃の記憶の断片が、今もこの家の中に漂っているように思えた。


透は鞄を下ろし、床に座り込んだ。銀のスプーンを手放した。もう必要ない。ただ「ここにいる」だけでいい。旅の理由はわからない。軽井沢に来た理由も、この家に立ち寄った理由も、猫がいた理由も。すべてが曖昧だ。


でも、それはそれで構わない。


霧は次第に薄くなってきた。外から光が入ってくる。透はその光を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。胸の圧迫感が少しだけ軽くなったように思えた。あるいは気のせいかもしれない。


猫が瓦から出てきた。静かに歩み寄り、透の膝元で丸くなった。温かい。生きている体温だ。透はそっと手を伸ばし、猫の頭を撫でた。毛並みが柔らかい。それは、この世界で唯一「触れられるもの」だった。


旅はまだ終わっていない。いや、むしろ今が本当の旅の始まりかもしれない。透はそのことを、猫の温もりの中で理解した。特急車内のコーヒーの苦味も、お年寄りの枯れた声も、鹿の骨の冷たさも、すべてが「ここへ来るための準備」だったのだ。


霧の向こうには何があるか、透はまだ知らない。でも、それはそれでいい。ただ「歩く」だけでいい。カタン、カタンというレールの音が、またどこかで響き始めるのを待っているように。

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