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私が贈ったオルゴールを幼馴染に渡した婚約者へ。次の誕生日は、もう祝いません

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/09

 私が婚約者に贈ったオルゴールは、五日後、彼の幼馴染の部屋に飾られていた。


「素敵でしょう。オズウェル様がくださったの」


 ファビオラ様は、窓辺の小卓に置かれた箱の蓋を開けた。

 細い音が、紅茶の香りのする居間にこぼれる。

 黒い木の箱。蓋の縁に巡らせた銀の蔓。内側の、小さな青い花。

 花を描く位置まで職人と相談したのだから、見間違えるはずがなかった。


「それは、私がオズウェル様のお誕生日に贈ったものです」


 膝の上で指を組み直す。今日はファビオラ様のお母様と、私の母も同席するお茶会だった。

 母がカップを置いた。

 ファビオラ様は、私の顔を見ても蓋を閉じなかった。


「ええ、伺っています。でも、オズウェル様が私にくださるとおっしゃったので」

「……この曲は、初めて二人で音楽会へ行ったときに聴いた曲なんです」

「まあ。では、リゼーヌ様もお好きなのね。でしたら、同じものをもう一つ注文なさればよろしいのでは?」


 困ったことなど何もない、という微笑みだった。

 今、私がどんな顔をしているかは分からない。けれど、もう何か言えば泣いてしまうことは分かった。

 母の手が、そっと私の手に重なった。


「娘は同じ物が欲しいと言っているのではありません」


 母の声を聞いて、ファビオラ様のお母様が娘をたしなめた。

 オルゴールの蓋が閉じられる。

 私は残っていた紅茶を飲めなかった。


 帰りの馬車で、母が尋ねた。


「オズウェル様から、譲ったことは聞いていたの?」


 私は首を横に振った。


「まず、本人に聞きたいです」

「ええ。お母様も一緒に伺いましょう」


 そう答えてくれたことがありがたかった。

 何かの間違いかもしれないと信じているわけではない。

 ただ、私の贈り物がどんなふうに彼の手を離れたのか、彼の口から聞いておきたかった。


 ◇


 オズウェル様との婚約が決まったのは、私が十五歳の春だった。

 両家の紹介で会った彼は、私のぎこちない挨拶を笑わず、隣の椅子を引いてくれた。

 初めて届いた手紙には、庭の梨の木に鳥が巣を作ったことが書いてあった。

 私も、家の薔薇が咲いたことを返した。

 難しい話をしなければいけないと思っていたのに、こんなことでもいいのだとほっとした。


 初めて一緒に行った音楽会では、彼が一曲だけ、身を乗り出して聴いた。


「この曲、好きだな。昔どこかで聴いた気がする」


 終演後に尋ねても、曲名は分からなかった。

 けれど帰りの馬車で、彼は覚えたところだけ口ずさんだ。途中で音が違ったので私が笑うと、彼も笑った。

 その顔を、長い間覚えていた。


 オルゴールを注文するために、当時の演目表を探してもらったのは、四か月前のことだ。

 作れるかどうかを職人に尋ね、贈答用に許されている予算を確かめ、箱の意匠を選んだ。

 彼の誕生日に渡したとき、私は曲の由来も話した。


「覚えていてくれたんだね」


 彼は蓋を開けたまま、最後まで聴いてくれた。

 よかった、と思った。

 この一年、私の誘いを断ることが増えていた彼と、久しぶりに話が合った気がしたから。


 ファビオラ様を送っていくため、約束のお茶を切り上げたこと。

 私と行くはずの観劇を、彼女の頼みで別の日に変えたこと。

 私が嫌だと伝えたとき、彼は二度とも謝ってくれた。


「悪かった。次は気をつける」


 まだ、戻れるのだと思っていた。

 あの馬車の中で、一緒に笑った二人に。


 けれど、変わったのは私との約束だけではなかった。

 冬、ドルネイ伯爵家を訪ねた折、廊下で伯爵の叱る声を聞いたことがある。


「業者との面談を変えたと言ったな。相手は予定どおり来ていたぞ」


 私は足を止めた。

 すぐに応接間の扉が開き、弟のユルバン様が出てきた。書類の束を抱え、私を見ると申し訳なさそうに頭を下げた。


「父が面談を引き受けております。少しお待ちいただけますか」


 後から来たオズウェル様は、ファビオラ様の買い物が長引いたのだと言った。

 相手に連絡はしたのかと尋ねると、彼は眉を寄せた。


「父がもう片づけたよ。君までその話をするのか」


 それ以上聞けず、私は黙った。

 あの日、ユルバン様の袖口に、黒いインクがついていたことまで覚えている。


 ◇


 二日後、母とともに訪ねた私を、オズウェル様はいつもの応接間で迎えた。

 母と伯爵夫人が隣室に控え、扉は開けてある。

 彼は私の顔を見るなり、ああ、という顔をした。


「ファビオラのところで見たんだね」

「私が贈ったものを、差し上げたのですか」

「彼女が気に入ったんだ。君はもう曲を知っているだろう」


 たったそれだけだった。

 彼は、先日までオルゴールを置いていた棚へ目をやった。そこには今、馬の置物があった。


「あなたが好きだと言った曲を探して、作っていただいたんです」

「分かっているよ。だから、礼も言ったじゃないか」

「二人で聴いたことを、覚えていてほしかったんです」


 彼は小さく息を吐いた。


「ファビオラも悪気はない。そんなに怒ることかな」


 私は彼の顔を見た。

 この人は、私を泣かせようとしているのではない。

 私が泣くようなことだと、思っていないのだ。


「あのオルゴールを返してほしいのではありません」

「じゃあ、どうしてほしいんだ」


 訊かれて、少し考えた。

 大事にしてほしかった。

 私が嫌だと言ったことを、一度で覚えていてほしかった。

 それはもう、前にも話したことだった。


「婚約を解消したいです」


 彼の指が、カップの取っ手から離れた。


「リゼーヌ。いくら何でも、そこまで」

「約束を変えられるのが悲しいと、お伝えしました。私よりファビオラ様を優先するのをやめてほしいとも」

「だから謝っただろう」

「謝ってくださったので、待っていました」


 オルゴールの注文をした頃も、まだ待っていた。

 私の好きな人が、私のことを考えてくれる日を。


「君のために何もしていないみたいに言わないでくれ。最初の頃は、よく出かけただろう」

「はい。楽しかったです」


 声が少し震えた。

 楽しかったことまで、嘘にはしたくなかった。


「でも、今のあなたと結婚することはできません」


 隣室から母が立ち上がった。

 私は膝の上に置いていた手をほどいた。指の跡が、手袋の上からでも分かるほどついていた。


 ◇


 父は、私の話を最後まで聞いてから、婚約解消の申し入れをしてくれた。

 ドルネイ伯爵からの返事は、三日後に届いた。

 まず両家で話し合いたい、と。


 その席で、オズウェル様はオルゴールを譲ったことを認めた。

 私との約束を変えた理由も、ファビオラ様が困っていたからだと説明した。


「リゼーヌなら分かってくれると思っていました」


 彼の父は、その言葉を聞いて長く黙った。


「相手が嫌だと伝えてもか」

「……そこまで大きな問題だとは」

「お前にとって小さければ、相手にも小さくなければならないのか」


 オズウェル様は答えなかった。

 伯爵は私の父へ向き直り、息子の振る舞いを詫びた。そして、私に婚約を続けるよう求めることはなかった。


 両家の合意で解消することになった。

 まだ渡していなかった持参金を巡る揉め事もなく、婚姻準備のために預けた家の品だけを返していただく。

 個人的な贈り物は、互いに返還を求めない。

 父と伯爵が一つずつ確かめ、書面にしていった。


 署名が終わったとき、伯爵が私に言った。


「君がオズウェルを見限ったから、後継者を変えるのではない。それだけは、先に伝えておきたい」


 私は顔を上げた。

 伯爵は、机の端に置かれた別の書類へ手を添えた。


「冬の面談のことは、知っているだろう」

「少しだけ、伺いました」

「あれから改める機会を与えた。ところが今月も、水路補修の協議を無断で欠席した。相手には日を変えてもらったと、また私に言った」


 その日も、オズウェル様はファビオラ様に付き添って出かけていたという。

 伯爵自身が協議を引き受けたため、水路の工事は予定どおり進む。けれど、先方は次からオズウェル様を窓口にしないでほしいと申し入れたそうだ。


「家令の報告を受け、先週から後継者の変更を検討していた。領地を任せることはできないと判断した」

「父上、今回はたまたま」

「冬に注意したはずだ。それでも、また同じことをしたのか」


 伯爵の声は低かった。

 オズウェル様は、父ではなく私を見た。

 私は膝の上の書面に目を落とした。

 私が求めたのは、この一枚だった。

 ほかの約束について、私が代わりに説明することはできない。


「ユルバンには、以前から会計と陳情対応を学ばせている。家令からも報告を受けた。私の下で引き続き学ばせ、後継者として申請する」


 この国では、長男が優先されるものの、後継者は自動では決まらない。

 当主が指定し、変更する場合には理由を添えて王室の承認を受ける。

 ユルバン様はこの春、十八歳になった。成人した直系の息子として、指定を受けられる年齢だった。


 伯爵は、自分の息子から私へ責任を移さないために、ここで説明してくださったのだと思う。

 帰り際、応接間の外でユルバン様に会った。


「ご迷惑をおかけしました」


 弟が頭を下げたので、私は首を振った。


「ユルバン様に謝っていただくことではありません」


 彼は手にしていた書類を抱え直した。

 廊下の奥から家令に呼ばれると、私たちへ一礼してそちらへ向かっていった。


 ◇


 ファビオラ様から手紙が来たのは、その翌週だった。

 伯爵家の招待が取り消され、今後の訪問も控えるよう告げられたという。

 私が何か誤解を与える説明をしたのなら、訂正してほしいと書いてあった。


 父に見せると、父はドルネイ伯爵へ確認を取った。

 ほどなく、事情を説明する返書が届いた。

 父は私にも読ませてくれた。


 伯爵はファビオラ様とその父を招き、贈り物について何を知っていたのか尋ねていた。

 ファビオラ様は、私からの誕生日の贈り物だと知っていたことも、お茶会での言葉も認めたという。


『贈った後は、オズウェル様の物でしょう。受け取った私まで責められるのは困ります』


 その返答を受け、伯爵は告げたそうだ。


『息子が譲ると決めた責任は息子にある。しかし、相手が傷ついたと知ってなお、その気持ちを軽く扱う方を、我が家へ迎えるつもりもない』


 息子との縁談は認めない。

 家としての招待と贈答は、今後取りやめる。

 その決定だった。


 長年の付き合いを理由に、ファビオラ様には家の催しへの招待が続いていた。婚約者がいる息子との近すぎる付き合いを見直さずにいた点は、伯爵家にも落ち度があったと、返書には書かれていた。


 私は、ファビオラ様の手紙に返事を書いた。

 お茶会で伺った言葉は、そのとおりに伝えたこと。

 ご自身で認めた言葉を、私から訂正することはできないこと。

 それだけを、短く。


 さらに数週間後、ユルバン様を後継者とする変更が承認され、正式に登録されたと父から聞いた。

 オズウェル様は伯爵家の別宅へ移り、家の代表として出席する立場も、当主候補としての権限も失った。

 生活は保障される。ただ、以前のように家の予算で自由に贈り物をすることはできず、父の監督下で仕事を学び直すという。


 ファビオラ様が、将来の伯爵夫人のつもりでいたことも、その頃知った。

 たとえ二人が結婚しても、爵位を継ぐのはユルバン様だ。

 あの居間に飾られたオルゴールだけが、彼女の手元に残った。


 オズウェル様からも、一度、謝罪の手紙が届いた。

 贈り物を軽く扱ったことを詫び、もう一度話す機会が欲しいと書いてあった。

 私は謝罪を受け取ったうえで、婚約を戻すつもりはないと返した。

 それ以降、彼から手紙は来なかった。


 ◇


 解消からひと月ほど経って、ラヴェン子爵夫人から音楽会の招待が届いた。

 私は招待状を持ったまま、しばらく迷った。

 母が、行きたくなければ断ってもよいと言った。


「……音楽は、聴きたいです」

「では、行きましょう」


 母の返事は簡単だった。

 私はもう一度、招待状の演目を読んだ。

 知らない曲が三つもあった。


 当日、会場に着くと、子爵家の嫡男のベルティユ様が席へ案内してくれた。

 以前もこちらの音楽会で、何度か話したことがある。

 ある曲の楽譜をどこで買えるか私が尋ねたとき、次の会で店の名前を書いた紙を渡してくれた人だった。


「今日は、こちらでよろしいですか。前より少し近い席ですが」

「はい。演奏する方の手がよく見えますね」

「この位置、私も好きなんです」


 彼は笑い、母の席も確かめてから、ほかの客を迎えに戻った。

 誰も婚約解消の話を持ち出さなかった。

 始まった曲を聴いているうちに、肩に入っていた力が少し抜けた。


 休憩の時間、私は母と庭へ出た。

 ベルティユ様が飲み物の載った盆を使用人から受け取り、私たちの卓へ運んできた。


「二曲目はいかがでしたか」

「初めて聴きました。ゆっくりなのに、途中で急に景色が変わるようで」

「そこが好きなんです。終わったと思ったところから、もう少し続くでしょう」


 彼は自分の好きな箇所を、指で卓の縁に拍子を取りながら説明した。

 私はつられて、曲を思い出した。

 楽譜について話したときも、こんなふうに少し早口になっていた。


「リゼーヌ様は、ああいう曲がお好きですか」


 私は頷きかけ、止まった。


「今日聴いた曲は好きです。でも、普段はもう少し速い曲を聴きます」

「舞曲ですか」

「はい。つい、靴の先で拍子を取ってしまうような」


 ベルティユ様は、私の足元を見そうになって、慌てて目を戻した。

 私が笑うと、彼も笑った。


「あなた自身は、どの曲がお好きですか。よければ、教えてください」


 私は、幼い頃から好きな舞曲の名を挙げた。

 母の楽譜棚にあったもので、雨の日によく弾いてもらった曲だ。

 彼は知っていた。

 けれど、弾いたことはないという。


「私には少し速すぎて」

「聴くのはお嫌いですか」

「いいえ。聴いていると楽しいです。自分で弾こうとすると、楽しくなる前に指が困ります」


 今度は、母まで笑った。

 私は、好きな曲を話しただけなのに、もう一曲聴いたような気持ちになった。


 ◇


 次の音楽会の招待状には、私が挙げた舞曲が載っていた。

 嬉しくて、会場でベルティユ様にお礼を言うと、彼は少し困った顔をした。


「私がお願いしたのは確かですが、ほかの方からも希望があったそうです。独り占めするところでした」


 その正直な言い方が、おかしかった。


「では、ほかの方にもお礼を言わないと」

「私から伝えておきます」


 軽い音が始まると、客席のあちこちで足が動いた。

 私も動かした。

 隣の母が気づいて笑ったけれど、やめなさいとは言わなかった。


 その後、両家の母同士が親しいこともあって、訪問の機会が増えた。

 ベルティユ様は、母の音楽会の手伝いだけでなく、領地の仕事も学んでいた。

 訪問の日を決めるときは、先に予定を確かめて返事をくれた。

 一度、雨で橋の点検が必要になり、約束を変えてほしいと手紙が届いた。


 事情とお詫びの後に、翌週ならいつ空いているかが書いてあった。

 私はその中から一日選び、返事をした。

 変更はあった。でも、私は玄関で来ない人を待たずに済んだ。


 夏の終わり、私と母が子爵家を訪ねた日、奥の小部屋からヴァイオリンの音がした。

 子爵夫人が扉を少し開けて呼びかけた。


「ベルティユ、お客様がいらしたわよ」


 音が止まった。

 私たちを見ると、彼は弓を下ろした。


「すみません。時間を間違えていました」

「私たちが少し早く着いたの。もう少し聴いてもいい?」


 子爵夫人に言われ、彼は私を見た。

 私は頷いた。

 途中からだったけれど、聴いていたかった。


 彼が弾いたのは、春の音楽会で話した、ゆっくりした曲だった。

 一度だけ音が掠れた。

 彼は眉を寄せ、それでも止めずに最後まで弾いた。


「お耳汚しを」

「最後の、少し小さくなるところが好きです」


 言うと、彼は楽器を持ったまま動きを止めた。


「あそこ、難しくて。音が消えないようにすると、強すぎる気がするんです」

「今日は、まだ先を聴きたくなりました」


 彼は、私の言葉を確かめるように楽譜を見た。

 それから小さく笑った。


「そう聞こえたなら、嬉しいです」


 普段の彼より、少し幼い顔だった。

 私は胸のあたりが温かくなるのを感じた。


 お茶の席で、彼は人前で弾くのが苦手だと話した。


「母に頼まれて、一度だけ会で弾いたんです。途中で失敗して、そこから何を弾いているか分からなくなって」

「私も、親戚の前で鍵盤を弾いたとき、途中から最初に戻ってしまいました」

「それは……戻ってから、最後まで?」

「いいえ。また同じところで止まりました」


 彼は笑っていいか迷った顔をした。

 私が先に笑うと、ようやく肩を揺らした。


「今日も間違えました」

「でも、続けてくださいました」


 また聴きたいと伝えると、彼は次に来るまで練習しておきます、と言った。

 私は帰りの馬車で、その返事を何度か思い出した。


 それから二か月後、彼は十人ほどの小さな会で、同じ曲を弾いた。

 始まる前、弓を持つ手を二度握り直していた。

 私は前の席で、膝の上の手をぎゅっと握った。


 今度は、あの音も掠れなかった。

 最後の一音を聴き終えてから、手を叩いた。

 彼は礼をして、顔を上げたとき、真っ先に私を見た。


 胸が跳ねた。

 自分の好きな舞曲を聴くときとは、違う速さだった。


 会が終わってから、彼が訊いた。


「前より、よくなっていましたか」

「はい。でも、今日より前の演奏も好きです」

「失敗したほうも?」

「あの日、続きを聴かせてくださったので」


 彼は笑わなかった。

 目を伏せ、楽器の箱を閉じる留め具に指をかけた。


「あなたが、また聴きたいと言ってくださったことを、ずっと覚えていました」


 私は、何か返そうとしてできなかった。

 代わりに、もう一度小さく頷いた。


 ◇


 冬、ベルティユ様が父へ面会を申し入れた。

 その後で、私も応接間へ呼ばれた。

 彼は立ち上がり、いつもの挨拶をした。けれど、座ってからも、背筋がいつもよりまっすぐだった。


「リゼーヌ様に、求愛をお許しいただきたいのです」


 父と母は、少し離れた席にいた。

 私は彼を見た。

 彼も、私の返事を待っていた。


「音楽会でお会いするたび、次もあなたがいらっしゃるか、気になるようになりました。知らない曲を聴いたときは、あなたならどう思うだろうと考えます」


 言葉を一度切り、彼は息を整えた。


「次の音楽会も、その次も、ご一緒したいです。音楽会のない日にも、あなたに会いたい」


 私は、膝の上で握っていた手をほどいた。


「私も、お会いしたいです」


 声にすると、彼の顔が変わった。

 いつもよりはっきりと、嬉しそうに。


「新しい曲を聴くたび、ベルティユ様ならお好きかしらと思っていました。私の好きな曲も、もっと聴いていただきたいです」

「指の速さが必要な曲もですか」

「弾いていただかなくても大丈夫です」


 笑うと、彼も笑った。

 母が、静かにお茶を注いだ。

 私は彼と一緒に、そのカップを受け取った。


 ◇


 翌春、二十一歳の誕生日を迎えたオズウェルのもとには、家族からの贈り物が届いた。

 母からは上着。父からは、仕事で使う帳簿と筆記具。

 ユルバンからは、以前兄が欲しがっていた歴史書が一冊。


 弟は、今も父の下で働いている。

 先週の協議では答えに詰まり、持ち帰って調べ直したと聞いた。完璧ではない。ただ、約束した日に返答を送り、その控えを父にも渡したという。


 オズウェルは新しい帳簿を開いた。

 自分にも、来週までにまとめる仕事がある。

 今度は、先に予定を確かめて返事をした。


 窓の外で馬車が止まる音がした。

 顔を上げかけて、やめた。

 今日は何も届かないと、分かっていた。


 三年続けて、リゼーヌからの贈り物があった。

 最初は好きな菓子。翌年は、前に欲しいと言った本。

 去年は、オルゴールだった。


 彼女は、いつも贈り物について少しだけ話した。

 どの菓子店のものか。どこで本が見つかったか。

 あの曲を、いつ一緒に聴いたか。


 その説明を、彼は最後まで聞くことも、途中で頷いて済ませることもあった。

 彼女が来ることも、来年も自分を祝うことも、疑ったことはなかった。


 ファビオラは、今も男爵家にいる。

 伯爵家への招待も、家から届く贈り物もなくなった。

 後継者変更の後、一度だけ会ったとき、彼女はこれからどうするのかと何度も尋ねた。

 オズウェルが答えを持っていないと知ると、話は続かなかった。

 その後、互いに訪問を申し込んでいない。


 オルゴールを返すかと、彼女の父から問い合わせはあった。

 オズウェルは、そのままでよいと答えた。

 自分が渡したものだ。取り戻せば済むことでもなかった。


 彼女の居間の小卓を思い出す。

 あの曲を選んだのはファビオラではない。自分を思って探したのは、リゼーヌだった。


 謝罪の手紙への返答は、机の引き出しにある。

 話したい気持ちはあっても、もう返事はもらっていた。


 オズウェルは帳簿へ視線を戻した。

 紙の上の数字が滲み、一度目を閉じた。

 部屋は静かだった。


 ◇


「今日は、靴の先で拍子を取っても大丈夫です」


 会場に着いた私に、ベルティユ様が囁いた。

 私が笑うと、彼も笑った。


 演目表には、私の好きな舞曲と、彼が弾いたあの曲が並んでいる。

 今日は楽団の演奏だから、彼も客席で聴く。

 隣には、二人の母が座っていた。


 春の音楽会の日程は、冬から決まっていた。

 私はこの日を楽しみにして、新しい靴を用意した。

 少し明るい色のものにするか迷ったとき、母は私が履きたいほうを選びなさいと言った。

 裾の下に見える淡い青を、私は気に入っている。


「前に弾いてくださったところ、今日も楽しみです」

「楽団の演奏と比べられると困ります」

「比べません。また、ベルティユ様の演奏も聴きたいです」


 彼は照れたように演目表を折った。


「では、次にいらっしゃるときに。日を、後で相談しても?」

「はい」


 照明が落とされた。

 彼は少し身を寄せ、もう一つだけ、と囁いた。


「その靴、よくお似合いです」


 返事をする前に、最初の音が鳴った。

 私は隣を見た。

 ベルティユ様もこちらを見ていて、唇に指を当て、ちょっと笑った。

 後で話すことが、一つ増えた。


 舞曲が始まる。

 靴の先で小さく拍子を取ると、隣でも同じように靴が動いた。

 私は演目表を膝に置き、二人分の拍子に合わせて、もう一度つま先を動かした。


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― 新着の感想 ―
貰った物なら確かにその品の所有権は贈り側から贈られた側になるので、その品をどうしようが贈られた(所有権のある)人の自由なんだろうけど、その品に籠もった気持ちや思い出は贈られ側の自由にできる物ではなく、…
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