江風(こうふう)に消える香
夕暮れ時、将軍府の赤い土壁は沈む陽に染まり、いっそう深い紅へと変わっていた。宣徳炉の中では、粉に挽かれた麝香と幽蘭がくゆり、煙とも霧ともつかぬ薄靄となって、庭全体を幻想的に包み込んでいる。
「彼は、まだ戻らないのか?」沈無咎は傍らの従者に尋ねた。
「はい。将軍は練兵場におられ、夜にはそのまま江辺の軍営へ向かうとのことです」
沈無咎は立ち上がると、袖口にこびりついた香の残りを払い、屋敷の外へと歩き出した。
そこは大河が交わる場所に位置し、手つかずの野洲には、青々とした杜若が群生していた。それは白玉のように清らかな花を咲かせる、極めて生命力の強い香草だった。
江風が吹き抜け、その独特な草木の香りを数里先まで運んでいく。彼が川岸の乱石の上に立つと、銀の帯のような月光が降り注ぎ、その影を長く引き延ばした。
「ここにあるのは苦い草の匂いだけだ。お前が好むような名香はないぞ」
低く響く声がした。大将軍・裴驍が、川べりの焚き火の傍らに座っていた。
沈無咎は、波間にきらめく月影を見つめた。
「私は、風に吹かれれば消えてしまうような、この草の香りのほうが好きですよ」
画像のURL:https://50514.mitemin.net/i1127199/




