第三幕「三拍子は崩れる」①
いつも読んで頂きありがとうございます
屋敷は、光でできていた。
窓という窓に灯りが入っている。
石壁の凹凸が金色に浮き、庭の影は薄い。
夜は追い払われ、代わりに嘘が満ちる。
嘘は光を好む。
闇は真実の居場所だが、真実は今夜ここに招かれていない。
馬車が列を作る。
車輪が濡れた石畳を擦り、泥が跳ねる。
外套の裾が汚れる。
貴族は汚れを嫌う。
だから汚れは、最初から計算に入っていない――はずだ。
エドワード・ケリーは馬車から降り、玄関の段に足を置いた。
足元がわずかに滑る。
石畳が濡れている。
湿り気が残っている。
そこへ真新しい絨毯が敷かれている。
濡れた石と乾いた絨毯の境目。
境目は危険だ。
「転びませんように」
背後から声がした。
振り向くと、深い青のドレスの女がいる。
黒い仮面。
目の切れ込みが細く、視線が刃のように滑る。
笑っていないのに、余裕だけがある。
「お気遣いどうも」
ケリーは軽く頭を下げた。
「あなたは転ばないでしょう」
「どうして?」
「転ぶと困る人間だから」
真っ直ぐすぎる。こういう女は、値札を隠さない。
「……名前は?」
「ソフィア」
「姓は?」
女は肩をすくめた。
「利」
冗談ではない。冗談の顔ではない。
「利・ソフィア?」
「いいえ」
女はゆっくり言う。
「私は利で動くの。善悪はない。祖国もない。忠誠もない。あるのは私だけ。だから保険は何重にもかける。あなたもそうでしょう?」
ケリーは笑った。笑うしかない。
「僕は貧乏なので、保険は二重が限界です」
ソフィアは微笑みもしない。
「貧乏は嘘。あなたの匂いは、夜会慣れしている」
「香水が?」
「心臓」
その言葉に、ケリーはほんの少しだけ背筋を固くした。
今夜の会話は、刃物ばかりだ。
扉が開く。
中から音楽が漏れる。
まだ弱い。
合わせの音だ。
弦が試しに鳴らされ、管が息を吐く。
笑い声は早い。
酒の匂いは甘い。
だが――その奥に別の匂いがある。
ほんのわずか。
硫黄の針。
ケリーは、玄関の段で一度立ち止まった。
ここで立ち止まると目立つ。
目立つのは嫌いだ。
だが目立つことより嫌いなものがある。
死ぬことだ。
「迷っているの?」
ソフィアが言う。
「観測しているだけです」
「観測」
女はその言葉を口にしてから、少しだけ唇の端を上げた。
笑いではない。確認だ。
「今夜は皆が観測しているわ。誰が誰を、どこから見ているか。……そして、誰が見られていないか」
ケリーは玄関ホールへ足を踏み入れた。
熱い。
香が濃い。
人が多い。
そして音が多い。
仮面がいくつも揺れている。
鳥の群れのようだ。
喋り声は羽音に似ている。
ドレスの裾が擦れる音、靴の踵が床を叩く音、グラスが触れ合う音。
そこに音楽が乗ると、全てが一つの波になる。
波は溺れさせる。
ケリーは壁際へ寄った。
踊らない人間が最もよく見える。
踊らない人間は、最も早く狙われる。
「あなた、踊らないのね」
ソフィアが隣にいる。
いつから?
わからない。
気づかせない動きができる女だ。
「仕事中です」
「仕事は仮面?」
「仮面は仕事」
「上手いことを言う」
「上手い嘘を言うのが仕事です」
ソフィアは一拍置いた。
「じゃあ、私と踊って。上手い嘘を見せて」
言い方が命令に近い。
命令でもない。
依頼でもない。
提案の形をした、取引だ。
ケリーは断ろうとして、ふと天井を見た。
梁。
闇。
その闇のさらに奥に、影がある。
仮面を付けていない横顔。
ありえないほど落ち着いた目。
ジョン・ディー。
彼女は踊らない。
彼女は座らない。
彼女は上にいる。
ここまで読んで頂きありがとうございます




