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第二幕「仮面は笑わない」②

いつも読んで頂きありがとうございます

初めて――彼女が“見る”から“走る”へ変わる。


梁の上を横切る。


踏み方が粗い。


だが迷いがない。


走りながら、指を動かしている。


拍。距離。角度。人の流れ。


三。三。三。……四。


ディーの目は、階段の陰に置かれた木箱へ落ちている。


しかし同時に、別の一点へも落ちている。


ケリー自身へ。


その瞬間。


銃声が一発。


柱の影から抜けた弾が、人波の隙間を縫ってケリーの胸へ向かってくる。


時間が薄くなる。


ケリーの身体が固まる。


――間に合わない。


声が落ちた。


「右」


薄い。冷たい。命令だけ。


ケリーは反射で右へ半歩ずれる。


ずれた瞬間、弾は空気を裂いて、

彼のいた位置を通過した。


背中が、遅れて汗をかく。


「……っ」


ケリーは息を吸う。


硫黄が肺に刺さる。


「今の、」


言いかけて、飲み込む。


礼を言う間はない。


礼は後でいい。


生きていれば。


梁の上で、ディーがわずかに首を傾けた。


違う。


その顔だ。


彼女が「違う」を選ぶ時の顔。


「ここではありません」


声は薄い。


だが断言だ。


ディーの視線が、木箱から逸れる。


逸れた先――書庫。


半開きの扉。


人の流れと逆方向に、一人だけ“戻っていく”影がある。


火薬商――ではない。


もっと背が低い。


紙を抱えている。


抱え方が必死だ。


ケリーの目が追う。


「おい、待て!」


叫ぶ。届かない。


届かないのに、ディーはそこを見ている。


見ているだけではない。


動こうとしている。


梁の端へ。


しかし梁が――鳴いた。


木が軋む音。

熱で歪む音。


炎が梁の腹を舐めている。


遅れて火が回る。


遅れて崩れる。


ディーは足を止めない。止めないまま、踏み込む。


次の瞬間。


梁が沈んだ。


ディーの靴底が滑る。


落ちる。


落ち方が悪い。


受け身が取れない角度。


下は人波。

銀の杯。

割れた硝子。

尖った世界。


ケリーが動いた。


考える前に、体が動く。


この瞬間だけは、諜報員ではない。


ただの腕だ。


「ディー!」


叫びながら、波の中へ飛び込む。


肩で人を押しのけ、肘で壁を作り、

落下点へ自分を滑り込ませる。


衝撃。


重い。


思ったより重い。


ディーは細いのに、落ちてくると重い。


制度は重い、という言葉が一瞬だけ頭をよぎる。


ケリーの腕に、ディーの体が落ちた。


痛みが走る。肩が抜けそうになる。


ケリーは歯を食いしばって踏ん張る。


床が滑る。

膝が沈む。

ワインが足元を濡らす。


ディーは息を吐いた。


「……受け止めたのですか」


「当たり前だろ!」


ケリーは低く怒鳴る。


怒鳴っているのに笑いそうになる。


笑わないと吐きそうだ。


ディーは腕を動かそうとして――止めた。


掌。


皮膚が赤い。


火傷だ。


梁の熱を掴んだのだろう。


握った瞬間の反射。

計算より先に出た本能。


ディーは眉を寄せた。


ほんのわずか。


ほんのわずかだけ、人間の顔。


「……誤差です」


ぼそり。


ケリーは呆れた。


「誤差で火傷するな!」


「誤差だから火傷します」


「意味がわからない!」


ディーは真顔で言う。


「誤差は、いつも現場にあります」


その言葉だけは、妙に正しい。


上から木片が落ちる。


火の粉が舞う。


ディーはケリーの腕の中で、もう一度書庫を見る。


「行きます」


「今その手で!?」


「今しかありません」


「あなた、さっきもそれ言った!」


ディーは答えない。


答えないまま、足をつく。


ふらつかない。


ふらつくべきなのに、

ふらつかない。


火傷した掌を外套の内側で軽く押さえ、

痛みを切り捨てるように動く。


ケリーは舌打ちした。


「……だから疲れるんだよ、あなたは!」


言いながら、ついていく。


ついていってしまう。


そこに理由は、もう理屈だけでは足りない。


二人が動いた瞬間、また銃声。


ケリーは反射でディーの前に出る。


「前、出るな!」


「あなたが出ています」


「黙れ!」


笑いが混じる。


怒鳴り声に笑いが混じる。


最悪だ。

最高だ。

最悪の最高だ。


視界の端で、ソフィアが立っている。


人波の外側。


彼女は倒れていない。


転んでいない。

押されていない。

押されない場所を選んでいる。


利の人間。


ソフィアはケリーと目が合うと、

肩をすくめた。


“私は安全。あなたは現場。”


そう言っている。


ケリーは目だけで返す。


“次に会ったら請求書を渡す。”


ソフィアは笑わないまま、

わずかに唇の端を上げた。


そして――銀縁の仮面。


観測者は、すでにいない。


いるはずなのに、いない。


いなくなる速度だけが、異様に早い。


階段の陰。


木箱。


導火線――ではない。


導火線が見えない。


見えないのに、

匂いだけが濃くなる。


四拍目。


来る。


爆ぜる。


ディーが言った。


「まだ早い」


世界が逆に回り始めた。


そう見えただけだ。


回しているのは、

ディーの思考だ。


爆風が戻る。


熱が引く。


粉塵が床へ吸い込まれていく。


悲鳴が喉へ戻り、

ワインが杯へ戻り、

銃声が銃口へ戻る。


ケリーは目を瞬いた。


息が戻る。


肩の痛みが戻る。


火傷の匂いが、

まだ鼻に残っている気がする。


――気がするだけだ。


「……今のは?」


ケリーが言いかける。


ディーは答えない。


答えないまま、指を開いた。


「……ここも違う」


その声に苛立ちが混ざっている。

苛立ち? 

彼女に? 

本当に?


「ここは結果です」


「じゃあ、どこが原因なんです!」


「もっと前です」


「もっと前って――いつ!」


ディーが、わずかに眉を動かした。


それが合図だった。


舞踏会が、もう一段巻き戻る。


幕が引かれるように、

笑い声が吸い込まれ、

仮面が外套に戻り、

外套が椅子に戻り、

人が入口へ引き寄せられ、

扉へ戻る。


青い炎は消え、

黄色い蝋燭が戻る。


硫黄の匂いが薄れ、

香水が支配する。


そしてさらに。


雨音が戻る。

屋敷ではなく、

別の場所。


私室。


火鉢の匂い。

濡れた革の匂い。

紙とインク。


ディーの部屋だ。


テーブルの上に招待状が一枚。


黒い封蝋。

紋章。

仮面の線画。


ケリーがそれを指で弾く。


「舞踏会、ですか」


言い方は軽い。


だが目は軽くない。


ディーはソファに寝転がっている。


靴を脱いでいない。

外套も脱いでいない。

寝転がっているのに、

姿勢は堂々としている。


「ええ」


「行くんですか?」


「行きません」


「嘘だ」


「嘘です」


ケリーが溜息を吐く。


「……僕に行けと?」


ディーは目を閉じたまま言う。


「あなたは踊れます」


「褒めてます?」


「道具の評価です」


「ひどいな」


ディーは片目だけ開けた。


「あなたは私の監視役です」


ケリーが一瞬だけ固まる。


すぐに笑って誤魔化す。


誤魔化せる顔だ。


「……さすが、椅子はよく見てる」


「見ています。だから、報告してください」


「陛下に?」


「陛下に。ダドリーに。あなたの財布に」


「最後の一つ、いらないでしょ!」


ディーが真顔で言う。


「良い飯とワインが必要です」


「……あなた、国家の椅子ですよね?」


「副業です」


ケリーは頭を抱えた。


外では雨が石を叩いている。


まだ、この夜の青い炎は起きていない。


だが封蝋の黒だけが、先に燃えている。


ディーが招待状を指先でなぞった。


「仮面は、嘘です」


ケリーが目を細める。


「それ、章題みたいですね」


ディーは言う。


「ええ。ここから始まります」


私室の空気が、ほんの少しだけ冷えた。


そして、物語はようやく“本当に”動き出す。

ここまで読んで頂きありがとうございます

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