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第二幕「仮面は笑わない」①

いつも読んで頂きありがとうございます

雨は止んでいた。


石畳だけが、

まだ夜を濡らしている。


馬車の車輪が水を跳ね、

外套の裾を黒くする。


だが屋敷の灯りは過剰で、

窓という窓が黄金色に光り、

庭の影を押しつぶしていた。


今夜は貴族の夜だ。


そして――嘘の夜だ。


エドワード・ケリーは馬車から降りると、

仮面を掌で転がした。


白地に金縁。


口元が笑っている。


「気に入らない」


独り言。


顔を笑わせると、

喉が油断する。


階段を上がりかけ、

ケリーは立ち止まった。


匂い。


香水。

蝋燭。

酒。

汗。


その奥。


ほんの、

針のように刺さる硫黄。


強くはない。


強くないから、

怖い。


「迷っているようね」


音もなく、

女が隣に立っている。


深い青のドレス。


黒い仮面。


切れ長の目だけが覗き、

そこに温度がない。


視線は測っている。


「美人に見惚れてるだけですよ」


ケリーが言う。


「それは危険ね。私は高くつくわ」


「払える範囲なら」


「払える範囲で生きている人間は、今夜ここに来ないの」


刺す言い方だ。


刺す言い方をする人間は、

自分が刺されない位置を知っている。


扉が開いた。


音楽が溢れる。


三拍子。ワルツ。


一、二、三。

一、二、三。


完璧すぎる。


完璧なものは壊れる。


「良い夜になるわ」


女が言う。


「予言ですか」


「いいえ。観測よ」


またその言葉。


観測。


ケリーは一瞬だけ眉を動かした。


女は気づいたふりをしない。


気づかないわけがない。


「名前は?」


「ソフィア」


「姓は」


「利」


微笑もしないまま、言う。


「姓はいらないの。私は自分に忠実。善も悪も、私の財布には入らない」


「愛国心は?」


「高すぎる」


きっぱり。


「……正直だ」


「利で動く人間は読みやすいでしょう? あなたの友人のように」


「友人?」


ソフィアの視線が、天井へ上がる。


梁。

闇。


その闇に、

闇より黒い影。


仮面のない横顔。


ありえないほど落ち着いた目。


ジョン・ディー。


踊らない。


座らない。


ただ、見ている。


「同僚です」


ケリーは言った。


言い方が少し荒い。


「命が軽い人間と組むと疲れる」


「あなたが軽いの?」


「彼女だ」


ソフィアは首を傾げる。


「見えないのに、怖い?」


「見えないから怖い」


人混みがうねる。


仮面の群れが流れる。

笑い声が跳ねる。

グラスの音。

布の擦れる音。

肌の熱。

香の甘さ。


そこに混じる硫黄が、

薄く、

しかし確実に鼻孔を刺す。


ケリーは壁際へ寄る。


踊らない人間は見える。



見える人間は、狙われる。


「踊らないの?」


ソフィアが言う。


「監視の仕事です」


「誰を?」


ケリーは軽く笑った。


「天井の梁を」


「それは足元を見落とす」


ソフィアの声が、

ほんの少しだけ低くなる。


ケリーは反射で足元を見る。


何もない。


だが、その「何もない」の中を、


逆流するものがあった。


黒手袋。銀縁の仮面。

歩き方が違う。

急がない。

押されない。

ぶつからない。

ぶつからない位置にいる。


人波が彼を避けているように見える。


“観測者”。


ケリーの喉が一瞬だけ乾いた。


「知り合い?」


「知らない」


「利になる存在?」


「まだわからない」


ソフィアの返答が早い。


早すぎる。


彼女は知っている。

だが知らないふりをする。


利で動く人間は、保険を何重にもかける。


嘘もその一つだ。


楽団がワルツを続ける。


三拍子。


だが――ほんの一瞬、

拍が滑った。


三。三。三。……四。


四拍目。


来てはいけない拍。


ケリーの背筋が凍る。


「ディー!」


返事はない。


いる。


来ないと言った。


あの人は来ないと言うほどいる。


ケリーは天井を見る。梁の上の影。


ディーは、こちらを見ていない。


床を見ている。


視線が梁の隙間から落ちる。


階段の陰。


書庫の半開きの扉。


人の流れの逆。


銀縁の仮面。


そして。


観測者が、火薬商の肩に触れた。


触れたのは一瞬。


耳元で、何かを囁く。


音楽に紛れて聞こえない。


だが口の形が見える。


――「四拍目を、忘れるな」


火薬商の顔色が変わる。


仮面の下で、


唇だけが青くなる。


観測者は、笑わない。


一歩も急がない。


その手が、床に何かを置いた。


小さな木箱。


椅子の脚ほどの長さ。


目立たない。

目立たないのに、

空気が変わる。


甘い香が消え、

硫黄だけが残る。


四拍目。


来る。


天井が、青い。


青い線が走る。

音はない。

だが熱だけが先に来る。


蝋燭の黄色が塗り潰され、

蒼が広間を染める。


一拍遅れて、

悲鳴。


仮面が顔を失う。

いや、仮面のせいで誰の顔も見えない。


見えないのに恐怖だけが増える。


「下がれ!」


誰かが叫ぶ。

誰かが押す。

誰かが転ぶ。


床板が波のようにうねり、

身体が波に飲まれる。


ケリーは笑っていた。


笑っていないと、

呼吸が止まる。


「最悪の夜会だな……!」


言いながら、

肩を沈めて人の足の間を滑る。


腕を掴まれる。

振りほどく。


銀の杯が跳ね、

ワインが飛沫を上げる。


赤が青に照らされ黒く見えた。


銃声。


一発ではない。

二発。

三発。


壁に跳ね返り、

仮面の中で膨らむ。


「おいおいおい! ここは舞踏会だぞ!」


誰も聞かない。


ケリーは柱の影へ飛び込む。


指先が冷たい石に触れた瞬間、

頭上から白い粉が落ちた。


細かすぎる粉。


喉に絡む。


――舞台装置。


そう思った刹那、銃弾が柱を削った。


粉塵が光った。


火花が散る。

火花は床に落ちない。


落ちる前に、空気を噛む。


ケリーの喉が反射で閉じる。


「まずい!」


言い終わる前に、火が走った。


燃えるのは木ではない。

布でもない。

空気だ。


息が、熱を持つ。


ケリーは身を伏せた。


熱が頭上を撫で、

髪の先が焼ける匂いがする。


視界の端で、仮面が一つ転がった。


笑っている口元が、床を滑る。


上。


梁。


ディーが動いた。

ここまで読んで頂きありがとうございます

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