081:鯨岡家での夕食会
僕が家に戻ると、リビングに金森智哉さんと母さんがいて、何やら深刻そうに話し合っていた。だけど、直ぐに僕が入って来たのに気付いた母さんが、「樹、遅いわよ。何処に行ってたの?」と言われてしまい、母さん達の話の内容は聞けなかった。
「ほら、何をボーっとしてるの? さっさと隣に行くわよ」
母さんに言われて、ようやく僕は、今日の夕食は隣の鯨岡家に呼ばれているのを思い出した。
「そういや、翔太は?」
「もう随分と前から、隣に行ってるわよ」
「そうなんだ……」
そう呟きながら、再び僕は鯨岡家にお邪魔した。ところが、最初に僕を迎えてくれたのは翔太で、いきなり彼は僕の耳元で囁いたんだ。
「なあ、樹、お前、大事な事を見落としてねえか?」
さすがの僕も、それだけじゃ何の事か分からない。ところが、その直後に朱美さんから、「樹くん、いらっしゃい。待ってたわよ」という声が掛かり、それ以上、僕は翔太に確認できなかった。
朱美さんは相変わらず陽気で、リビングダイニングの食卓テーブルに早く座れと促してくる。
食卓の上には既に食事の準備があらかた終わっていて、あとは食べるのみになっていた。メニューは、そうめんにサラダ。焼きナス。そして、ビールを飲む金森さんのおつまみとして、チーズとハムが用意されている。
菜摘の父親の栄太さんは、今日も遅くなるらしい。今日、僕が見聞きした事から判断するに、たぶん栄太さんも信用金庫では仕事なんてしていない筈。それでも、今までの習慣は変えられないって事なんだろうか?
いや、それ以前に、そんな状態で仕事が回っている事が僕には不思議でならない。お金の貸し借りとかは、いったいどうなっているんだろう?
その時、翔太が隣に座ったので、さっきの事より先に僕は訊いてみた。ここへ来る車の中で、市役所の後、「できればスーパーにも寄りたい」と、金森さんが言っていたのを思い出したからだ。
「なあ、翔太。スーパーには行ったんか?」
「ああ、行った。けどな……」
またもや翔太は、僕の耳元で囁いた。
「一応、商品はあったんだ。だけど、カートンに入ったまま置かれてて、客は欲しい物を自分で持って行くって感じ」
「それって、レジを通さないって事か?」
「そうなんだ。金なんて払わすに、ただ持ってくだけでさ、レジには誰もいないんだ」
残念ながら翔太との会話は、そこで途切れてしまった。菜摘が僕に話しかけて来たからだ。
「ねえ、樹。久しぶりの学校はどうだった?」
僕は、少しだけ考えてから、「別に」と言って受け流すことにした。
「ふふっ、びっくりしたでしょう? 今は、何だって自由なんだ。アタシには、今のやり方が合ってるみたい」
「確かに、お前にはそうなんだろうな」
僕は皮肉を込めて言ったつもりだったんだけど、菜摘は素直に受け取ったようで、ニコニコと笑っている。
朱美さんには、そんな僕らの会話など聞こえていなかった様だ。最後に冷奴が乗っているお皿を運んできて食卓の上に置くと、「さあ、揃ったわ。じゃあ、食べましょうか」と言った。そして、自分もエプロンを取って空いている金森さんの隣の席に座った。
「さあさあ、樹くんも翔太くんも食べて食べて……」
朱美さんの言葉で、菜摘が勢い良くそうめんの入った器に箸を伸ばし、汁に付けて啜り出す。それを見た翔太が、「しょうがねえな」といった感じで、いつもより控えめに食べ始める。母さんも同様だった。
仕方がないので、僕も箸を取ったけど、色々な事が在り過ぎて全く味がしない。
今、この場にいるのは六人。大人が金森さん、母さん、朱美さんの三人で、子供が翔太、菜摘と僕の三人だ。つまり、どう考えても一人足りない訳で……。
「なあ、さっき俺が言った事、分かっただろ?」
翔太の言葉に、もはや僕は頷かざるを得なかった。
それは、あまりにも恐ろしいが故に、僕が今まで敢えて考えないようにしていた事だ。だけど、もはや目を逸らしている訳にはいかない。
「さっき菜摘には言ったんだけど、こいつ、なーんにも覚えてねえんだ」
「どういう事だ?」
「直接、本人に訊いた方が早いぞ」
「ああ、そうだな」
僕は、思わず震えそうになるのを懸命に堪えながら、そうめんに夢中になっている菜摘に問い掛けた。
「あ、あのな、菜摘。『愛奈ちゃん』は、どうしたんだ?」
菜摘の箸がピタッと止まる。ところが、彼女の返事は意外なものだった。
「愛奈って誰の事?」
「えっ?」
菜摘の表情が険しいものになる。
「ねえ、樹? うちらって一人っ子どうしだよね? さっきも翔太にしつこく言われたんだけど、アタシには何の事かぜーんぜん分かんないんだけど」
「そう……なのか?」
「当然じゃん……。あ、でも、その名前を聞くと、なんかイラっとするっていうか、凄く嫌な感じがするんだ。だから、もうアタシに言わないでくれる?」
「あ、ああ、ごめん」
「別に、良いよ」
その後、何も無かったかのように、菜摘は再び箸を動かしている。
それから僕らは、ずっと無言だった。
★★★
僕にとっての鯨岡愛奈は、愛おしい妹のような存在だった。
僕は、愛奈の事を産まれた時から知っている。彼女が産まれた日、僕は母さんと一緒に産婦人科の病院に行って、顔を真っ赤にして泣いている赤ちゃんを見ているからだ。
その日から小学校に上がった愛奈まで、ずーっと僕は彼女の成長を見続けてきた。つまり、何が言いたいかというと、僕にとっての愛奈は、大事な大事な妹なんだ。
僕と母さんがナコヤに引っ越した日、せめて愛奈だけでも連れて来るべきだった……なんて、今更、そんな事を思っても後の祭り。もう手遅れだ。
僕は、人生には取り返しの付かない事があるのを初めて知った。
夕食の後、母さんは早々に僕ん家に引き上げたがった。朱美さんは名残惜しそうだったけど、「今日は疲れてるから」で押し通した。
僕はと言うと、見るからに憔悴している様に見えていたからか、全く引き留められなかった。それどころか、菜摘には「今日はグッスリ寝て、明日、また遊ぼう」と言ってくれた。
金森さんと翔太はホテルを予約していたけど、キャンセルしたとかで、僕ん家の一階の和室で寝る事になった。
今日の街の様子からして、まともにホテルが営業しているとは思えなかったからだという。言われてみれば、当然の事だ。
僕ん家に戻ると、母さんは僕らにコーヒーを入れてくれた。もちろん、トキオのスーパーで買ったレギュラーコーヒー。水もペットボトルの物を使っている。
その間、僕と金森さんと翔太は、無言で食卓テーブルに座って待っていた。どうやら僕は相当に緊張していたようで、いつも以上にコーヒーの香りが心に染みる。
母さんはコーヒーを淹れ終わると、僕に昼間の事をポツリポツリと話し出したのだった。
★★★
母さんが金森さんと街に行って訪れたのは、JRヒカリ駅とその周辺の商店街、銀行、病院だったという。そして、それらの全てが機能しておらず、従業員も医者も看護師も、まるで子供のように遊び呆けていたそうだ。
その間、金森さんは誰かれ構わずインタビューを試みたようだが、まともな会話が返って来た事は片手で数えるくらいで、その全員が今週末には出て行く予定だったという。
「私達は、午後五時前には帰って来たのよ。予定ではもう少しいるつもりだったんだけど、金森さんが「これ以上は、意味がありませんね」とおっしゃったんで早めに戻る事にしたの。そうしたら、家の前に由希さんがいらっしゃって……」
「えっ、由希さんって、瑞希のお母さんの?」
「そうよ。緑川由希さん。彼女、こっちに樹が来てるって、瑞希ちゃんから聞いたんでしょうね」
僕は、それを聞いて一瞬、期待した。『瑞希をヒカリ市の外へ連れ出せるかも』って思ったからだ。だけど……。
「由希さんは、まだしっかりしてらしたわよ。でも、旦那さんは市役所から返って来ないらしくて……、時々、様子を見に行ってるそうなんだけど……」
「瑞希のお父さんもおかしくなってるって事?」
「いや、そうじゃないみたい。逆に、ちゃんと仕事ができる人がいないから、やる事がたくさんあるって事みたい」
「だったら、逃げちゃえば……」
「それが、駄目みたいなの。由希さんが言うには、『色々な事を知り過ぎたから』って事らしいわ」
「えっ?」
「それで、私、『それなら、由希さんと瑞希ちゃんだけでも逃げましょう?』って勧めたんだけど、どうしても首を横に振るばかりなのよ」
「どうして?」
「ひとつは検問所で止められるって事なんだけど、それをクリアしても、やっぱり旦那さんを置いては行けないみたい」
「でも、瑞希は……」
「それと、瑞希ちゃんの事もあるみたい。由希さんが言うには、瑞希ちゃん、ここを離れたがらないみたいなの」
僕には、母さんが言ってる事が今ひとつ分からなかった。ここから瑞希が離れたがらないのは、単に彼女が頑固だからじゃないんだろうか?
僕の疑問に答えをくれたのは、金森さんだった。
「樹くんは、イルージョン症候群って言葉、聞いた事があるかい?」
END081
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
次話は、「イルージョン症候群」です。
できましたら、次話も引き続き読んで頂ければ幸いです。
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★★★
本作品と並行して、以下も連載中ですので、できましたら覗いてみて下さい。
(ジャンル:ローファンタジー)
銀の翅 ~第一部:未確認飛行少女~
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