061:引っ越しの告知
その日は、朝から素晴らしい天気だった。玄関から一歩外に出た途端、どこまでも透き通る青空が目に飛び込んできた。
ようやく出揃った街路樹の若葉が、朝陽に透けて輝いて見える。ちょうどツツジが満開になり掛けていで、緑川瑞希の家の前庭や、道を挟んだ先の公園のあちこちで、赤やピンクの花々が所狭しと咲き誇っていた。
それなのに、僕の気分は最悪だった。
瑞希に会ったら何て言おう。その事ばかりを考えて、結局、昨晩は一睡もできなかった。
明日の憲法記念日からは、再び三連休になる。今度の三連休は、滅茶苦茶に忙しくなりそうだ。だから、何としてでも今日中に伝えておきたい。ああ、こうやって気ばかり焦るもんだから、僕は駄目なんだ。もっと気楽に行かなきゃ……。
僕は、その場で思いっ切り深呼吸をした。もちろん、マスクをしたままだ。それでも気分は、だいぶ晴れた。
もう一度と思ったら、問題の瑞希が、ツツジの木の向こう側からひょっこりと顔を出した。
「樹くん、待たせちゃった。ごめんなさい」
そう言って笑う瑞希の顔を見た途端、僕の気持は再び萎えてしまった。
「あの……」と言い出してみて、後の言葉が続かない。
「どうしたの? 何かあるの?」
いきなり、気付かれてしまった。そうなると、ますます焦ってしまう。
仕方ない。やっぱり学校で話すことにしよう。
「何でも無いよ。行こうか?」
何だか、棒読みみたいな言い方になってしまい、僕は心の中で苦笑を浮かべた。
★★★
あれ程に頑固だった祖父が、「お前がそこまで言うなら、帰って来い」と母さんに返事をくれたのは、先週水曜の朝のことだった。母さんは、即座に学校に来て、菊池先生と教頭先生に転校の話をした。
菊池先生は、予め予想していた事のようで、すぐに納得して手続きを進めてくれた。そして、その足で母さんを教頭先生の所に連れて行き、転校の説明をしてから必要書類に署名と捺印を求めた。
先日の先崎先生とのトラブルの際、教頭先生には、僕に無理やり謹慎を押し付けた負い目がある。だから約束通り、とても素直に手続きに応じてくれたそうだ。いや、案外、やっかいな生徒を追い出す事ができて、せいせいしていたのかもしれないけど……。
母さんによると、「発電所事故の影響で、全校レベルだと相当な数の生徒が転校している筈よ」との事だ。
「だから今更ひとりくらい出て行ったって、学校としてはきっとどうでも良いんだわ」
本当だろうか? 母さんの言う通りだとすると、これからだって僕らの学校の生徒は、どんどんと他所へ移って行く事になる。
いや、逆に北からの避難民の生徒は、もっともっと増えるかもしれない。
ここセンターヒルズニュータウンでは、まだ開いている分譲地や団地の中央にある大きな運動場などで、今も仮設住宅の建設が急ピッチで進んでいる。そこに発電所事故の避難民が住むことになっているから、今後、更に転入生が発生する可能性があるのだ。
その一方で、この後も転校する生徒が出ないとも限らない。だから、これから生徒数がどうなるかは、微妙な所なのだ。
実は、親友の金森翔太も、昨日、トキオに引っ越して行った。うちと同じで父親だけがヒカリ市に残って、単身赴任の形になった。
ちなみに僕のクラスでは、青木麻衣がヒカリ市を去った後、転校ラッシュが続いている。そこには、例のオバサン先生の横暴な振る舞いも影響しているのは明らかで、あの時、ジャージを脱がされた挙句に転倒した女子と、彼女を庇った女子達の計三名が揃って教室を去ってしまった。
そして、その直後に翔太、更に五月に入って、この僕が転校する事になったって訳だ。その上、鯨岡菜摘によると、僕と同じようなタイミングで更に女子三人が引っ越すとも聞いている。その情報が正しいとすると、僕がいたクラスは男子が十五人、女子は僅か六人になってしまう。合わせると、二十一人。そのうち、転入して来た避難民四人と菅波奈々子を除くと、元からいたクラスメイトは十六人しか残らない事になる。最初が三十人だから、ほぼ半減だ。
女子の方が多く減っているのは、将来、赤ちゃんを産んだ際、奇形児になるリスクを恐れての事だろう。そうなると、僕はますます瑞希の事が心配になってしまう。
いや、菜摘や愛奈の事も心配だし、最近になって親しくなった菅波奈々子の事だって、気にならない訳じゃない。それに、菊池先生の事だってある。
そうやって考えると、渡部市長が出したヒカリ市の安全宣言の事が本当に僕には腹立たしかった。
★★★
五月二日の今日、母さんは市役所に転出届を出しに行く。
三連休開けの六日が、僕の最終登校日だ。その後、八日の日曜日に母さんの実家へと移動して、月曜の九日は移転先での手続き。来週火曜の十日から新しい中学校への登校を始める予定だ。
ところで、『転校の事を瑞希に伝えるのは、学校に着いてからにしよう』と決めた僕だったけど、考えてみれば今朝のホームルームで、リカちゃんが皆に話してしまう可能性がある。いや、口が軽いリカちゃんの事だから、間違いなく話すだろう。そうなったら、最悪だ。
それで僕は、先週の木曜日のことを思い出してしまった。
金森翔太から転校の話を打ち明けられたのは、まさに彼の登校最終日の朝だった。つまり、それが木曜だったという訳だ。
僕と瑞希が校門を通り過ぎようとした時、スーッと翔太が目の前に現れて言った。
「実はさ、お前等に話があるんだ」
何となく話の中身を察してしまった僕は、「お前も麻衣と一緒か?」と静かに言った。
「ああ、すまん」
そんな風に言われたら、もう返す言葉が無い。それに僕だって、もうすぐ転校する身だ。むしろ、『仲間がいて良かった』って思うぐらいだ。
どうせなら、僕の話もついでに今ここで言ってしまおう。
そう思った僕が、瑞希に向かって口を開こうとした時だった。
「樹くんも転校するなんてこと、無いよね?」
そう言う瑞希の悲しげな顔を見てしまうと、僕は何も言えなかった。そして気が付くと僕は、「うん」と頷いてしまっていたんだ。
『ああ、最悪だ』と、僕は思った。
菜摘は、既に母さんと僕がナコヤに行ってしまうことを知っている。もっとも事故が終息したら戻ってくると思って、それ程は深刻には捉えていないのかもしれない。僕がアメリカに行っていた二年間、菜摘と離ればなれになったことがあるから、その時よりはましだくらいに思っているんだろう。
四月中旬、首都電力は新型発電所事故の収束に向けた作業工程表を公表した。それによると、遅くとも年内には発電所避難民が自宅に戻れることになっている。だから、僕等が戻る時期も年内だと思い込んでいるのかもしれない。
もちろん現実には、そんなに早くあの発電所事故は収束しない。絶対に有り得ない。
★★★
あれこれ考え込んでいるうちに、いつの間にか瑞希は、僕の前を歩いていた。
学校指定のジャージの上に、白いウィンドーブレーカー。背中には、教科書やノートが詰まったリュックを背負っている。
「瑞希!」
もうひとつ角を曲がれば校門が見える所まで来て、突然、僕は足を止めた。
「話があるんだ」
瑞希もまた、立ち止まった。そして、ゆっくりと振り返った。
僕は、その顔を見て全てを悟った。不安げで今にも泣き出しそうな表情。
瑞希は、もう知っている。ああ、きっと誰かに聞いたんだ。誰かと言えば、一人しか考えられない。菜摘だ。あんちくしょう!
僕の頭の中で、それらのことが一瞬で駆け廻った。
でも、だからと言って、ここできちんと僕の口から、それを話さない訳にはいかないんだ。
「ごめん。僕、引越しするんだ」
「いつ?」
「今週の週末」
「そう」
そっけなかった。
瑞希はそのまま振り向くと、一人で歩き出した。
僕は焦った。瑞希が怒ってしまったように思ったからだ。
ところが走って彼女を追い抜いてから、振り返ってみると、瑞希の目からは大粒の涙がポトポトと滴り落ちていた。
ああ、しまった。また泣かせちゃった。
僕は自分の不甲斐なさ、無力さに腹が立った。
僕には、何もできない。今の彼女の淋しさの前で、僕は実に無力な存在でしかない……。
「お願い、あっち行ってて」
瑞希は、掠れた声で絞り出すようにそれだけ言うと、全力でその場から走り去った。
「あーあ、彼女、泣かせちゃった」
振り向くと、菅波奈々子が立っていた。声からして、いつもの不敵な笑みかと思いきや、シリアスな表情でじっと僕の顔を見ている。
「で、どうするつもり?」
僕は、「分からない」と正直に答えた。
「そう。香山くんって、案外、だらしないんだ」
その言葉に、僕の心の中の何かが弾けた。そして、気が付くと僕の目からもまた涙が溢れ出てしまっていた。自分ではどうしようもない、止められない涙だった。
「泣きムシね。まっ、アタシもそうなんだけど……」
そう呟きながら、さりげなく菅波は僕の背中を押して、目立たない繁みへと連れて行ってくれた。
そこで十分くらい気を落ち付かせて、僕らは二人は、チャイムが鳴るギリギリの時間に教室へ駆け込んだのだった。
END061
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
次話は、「引っ越しの日」です。次話からは、第十章「転校」になります。
できましたら、次話も引き続き読んで頂ければ幸いです。
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★★★
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