055: 母の焦燥
僕が家に帰ると、珍しく母さんがテレビを見ていた。チャンネルはローカル番組で、水道復旧工事の状況を説明している。既に、市の半分を超えた地域で、水道が復旧していると言う。
「今週いっぱいで、センターヒルズも復旧するみたいよ」
当初の計画より早まったことで、母さんは嬉しそうだ。
「でも、また強い余震があったら、どうせすぐ出なくなっちゃうんじゃないの?」
「そうかもしれないわね」
今度の母さんの声は、意外な程に真剣だった。僕は軽い気持ちで言っただけなのに、母さんは固い表情で僕を見詰めてきた。
そのまま母さんは、有無を言わせぬ強い口調で言った。
「今度、強い余震が来たら、母さんはこの家を捨てるから。もう覚悟はできているの。この家もこの街も大好きだったけど、もう良いわ。終わった事だもの。私は、ハッピーアイランドを出て行く。その時は、樹、あんたも一緒よ」
僕は、母さんの強い視線に耐えきれずに俯いてしまった。
母さんの思いは、前から分かっている。でも、面と向かって言われると辛いんだ。
だって、僕にとっては、ここが故郷なんだから……。
それに何よりも、僕には緑川瑞希の事がある。僕は、彼女との別れが何よりも怖い。
僕は、無言のまま二階へと上がって行った。
★★★
週の半ばの水曜日、珍しく僕は早起きした。時計はまだ六時になったばかりだ。
もうひと眠りしようと一度は布団に潜ってみて、やっぱり止めた。窓の外があまりにも良い天気だったからだ。
僕が一階に降りて行くと、普段はいない父さんがいた。父さんは、朝、誰よりも早く会社に行くのが美徳だと思っている人だ。
「俺は、毎日一番で出社していたから、こんな風に偉くなれたんだ」
以前、そんな風に父さんは僕に言ったことがある。でも、そんな単純な事で偉くなれるんだったら、結構、会社って楽な所だと思う。中学での人間関係の方が、よっぽど難しいんじゃないか……。
「おっ、樹、珍しく早いな。いつもこの時間に起きれば、お前は俺以上に立派な大人になれるかもしれんぞ」
相変わらず父さんの価値観は、早起きにあるらしい。
その父さんが無塩のトマトジュースを一気飲みしていた時、突然、母さんが「ええーっ!」と大声で叫んだ。
その母さんは、父さんが激しく咽たのにも気付かずに、テレビの前へ走って行く。そして、急いでリモコンを操作して、お目当てのニュース番組を探し当てた。
『先程からお伝えしておりますように、文部科学省は昨日、生徒や児童が空気中のイルージョンに触れても良い量を、今回の緊急時に限って年間二十ミリイルまでと定めました。これを一時間当たりの値に直しますと、三.八マイクロイルとなります。この値を目安として、この限度を超えた小中学校は、校庭などでの屋外活動が制限されることになりますが、教育現場ではこの決定に戸惑いの声が広がっています……』
そのニュースによると、屋外活動の制限を受ける小中学校は、ハッピーアイランド全体で十三校だと言う。『思ったよりも該当する学校が少ないな』というのが、その時の僕の印象だったんだけど……。
「政府はね、一般の人が身体に取り込んでも安全なイルージョンの量を、年間一ミリイルまでと法律で定めているの。あなた、知ってた?」
いきなり話を振られた父さんは、新聞を片手に気まずそうな顔で僕の横に立っている。
ちなみに「イル」っていうのは、イル―ジョンの人体への影響を示す単位だ。
「年間一ミリイルは、大人の値なの。しかも、肺から吸い込んだり皮膚から取り込む分だけじゃなくて、水や食べ物から体内に吸収される分も含んでの総合的な値よ。それなのに、子供が肺や皮膚から身体に取り込む分だけが、何で年間二十ミリイルなの? もう、訳が分からないわ」
母さんは怒り心頭な様子だ。そして急いでノートパソコンを取り出すと、ネットに繋げてあちこちのブログをチェックし始めた。
しばらくの間、母さんがキーボードを叩くカタカタという音が、雨戸を締め切っていて薄暗い我が家のリビングに響く。僕と父さんは、そんな母さんを無視するのも何となく憚られて、ソファーに座ったままでじっとしていた。
やがて、母さんのキーボードを叩く音が止んだので、僕らは立ち上がった。
「興味深い記事があったわ。発電所で働く労働者の許容量が年間で五.八ミリイルなんだって。男性の場合、緊急時の名目でその値が引き上げられたんだけど、今でも女性労働者には、従来の五.八ミリイルが適用されているらしいの。つまり、今回の文科省が子供に対して定めた20ミリイルよりも、遥かに厳しい数値よね。この矛盾を、あるNGO団体が文科省に問い質したんだけど、そしたら、その時のお役人、何て答えたと思う?」
当然、僕らは、そんな答えなんて知らない。
「その役人が言うには、『五.八ミリイルは労働者の基準だから、働いていない小学生には適用できません』ですって。子供は働いてないから、年間二十ミリでも大丈夫っていう事らしいわよ? 笑っちゃうわよね。子供の方が大人よりも、ず-っとイルージョンの影響を受け易いってのは、今まで文科省が言ってた定説じゃなかったの? それとも、同じ子供でも、ハッピーアイランドの子供は違うって事?」
その後で母さんは、こうも言った。
「それとね、水や食べ物から間接的に体内に取り込む分については、どう考えてるかを文科省に質問した時の答えもあるわよ。その時の返事が、また役人らしいっていうか……、その時の返答はね、『その部分に関しましては、農林水産省の管轄でありまして、文科省としては判断のしようがありません』ですって。つまり、『自分達では判断できないから、基準から除外した』って言ってるのよ。その数値が、子供達の命に関わる事だってのにね。もう、文科省って、いったい何の為の役所なのかしら……」
僕は思わず、「研究最優先って事なんじゃないの?」と答えてしまった。
「そうね。悲しい事に、その通りなのよ。文科省は、子供の事なんて考えてない。少なくとも、ハッピーアイランドの子供は、どうなったって良いって思ってる……」
母さんは頭を抱えて、まるで呪文を呟くように言った。
「今までの基準値は、水や食べ物から間接的に取り込む分を含めて、年間1ミリイル。文科省が子供の為に定めた値は、水や食べ物からの分を除いて年間20ミリイル。海外の学説だと、成長期の子供は、大人の5倍から10倍はイルージョンの影響を受けやすいって言われている……。当然、そんな事は文科省だって知ってる筈。それって、要するに……」
「要するに、何なの?」
僕の問いかけに対し、母さんはボソッと言った。
「要するに政府は、ハッピーアイランドの子供達を、本気で見殺しにするつもりなんだわ!」
母さんの激しい口調に恐れをなした父さんは、いつの間にかいなくなっていた。
せっかく早起きしたっていうのに、貴重な時間を母さんの怒りに奪われてしまった感じだ。僕は僕自身の怒りを、いったい何処にぶつければ良いんだろう?
END055
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
次話は、「窓開けバトル」です。
できましたら、次話も引き続き読んで頂ければ幸いです。
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