047 : 水が出た!
日曜日、つまり、僕がヒカリ市の自宅に戻って六日目の朝、僕は憂鬱な気分のままにベッドを出て、適当な服に着替えて庭に出てみた。一応、マスクをしてウィンドブレーカーを羽織ったものの、今までと比べたら簡易的なイルージョン対策でしかない。
それでも、以前のようにゴーグルや手袋までするのは、毎回となると疲れてしまう。だから、学校に行くのも、今のような恰好だ。
ところで、僕が庭に出たのは、ミモザの木がどうなったのか気になったからだ。実は、こっちに戻ってから、まだ一度も庭に出たことがない。母さんが今だに一日中、雨戸を閉めたままなので、庭の様子が全く分からないのだ。
そうして目にしたミモザの木は、花が跡形もなく消えている事を除けば、地震があった日の状態のままだった。それ以外の庭の様子も、『ちょっと草が伸びたな?』と思ったくらいで、それほど変化がある訳じゃない。例年通りにタンポポの綿毛があちこちにあって、蹴飛ばすとふわっと種が飛んで行く。クローバーが庭の半分くらいにまで勢力を伸ばしており、『そういや、瑞希が四つ葉を探すのを良く手伝ったな』とか、つい昔の事を思い出してしまったりした。
そんな時だった。家の中から、微かに母さんの悲鳴が聞こえてきたんだ。
今日も父さんは、朝早くから車にガソリンを入れに行っていて不在。その後は会社に行くらしい。
僕は、早足で勝手口に向かい、ドアを開けて「母さん、どうしたの?」と問い掛けた。
「あ、樹、大変なのよ。早く、こっちに来てみなさい」
母さんが呼ぶので、僕は慌てて玄関に回ると、ウィンドブレーカーを無為で、それを外で軽く払ってから、いつもの所に引っ掛ける。それから、履いてたスニーカーを脱いで、母さんのいる洗面所に急いだ。
★★★
「ほら、樹。凄いでしょう!」
洗面所にいる母さんは、満面の笑顔だった。昨日のお風呂の後よりも、更にグレードアップした期限の良さで、僕を手招きする。
洗面台では、蛇口から水が勢い良くほとばしり出ている。
「水、出たんだ」
「そうよ。水が出たの。ああもう、なんて嬉しいのかしら……。なんか、最高の気分だわ……」
尚もはしゃいでいる母さんを横目に、僕は手を蛇口に伸ばして、止めたり出したりを繰り返す。それから、そっと手を当ててみる。
あ、冷たい!
しばらくの間、水に手を浸しているうちに、僕もだんだんと嬉しくなってきた。
「あ、そうだ。まだ少し心配だから、風呂桶に水を溜めとおかなきゃね。で、それが終わったら、順番にシャワー浴びましょう。あ、それから、お洗濯もしなくちゃ……」
母さんは、早速、風呂桶に水を貯めて行く。僕は母さんに、「先にシャワーを浴びて良いから」と言い残して、取り敢えず洗面所を後にした。
「ひょっとすると、この週末辺りに水が出るかも」という噂は、僕も学校で聞いたことがある。でも、本当に水が出るなんて……。あ、そうだ。皆にも教えてやらないと……。
母さんがシャワーを浴びている間、僕は次々と幼馴染達に電話を掛けた。
「瑞希、蛇口を捻ってごらんよ」
『えっ、何言ってるの? 蛇口って水道の事?』
「そうだよ。待っててやるから、まずは捻ってみなよ」
『えっ、じゃあ、ちょっとだけ待っててね……』
緑川瑞希の所も親子電話だから、たぶん、今、彼女は子機で話しているんだろう。
『あ、水、出た。うわあ、やったあ! お母さーん、お母さーん、水、出たよーっ! あ、樹くん、教えてくれてありがとう。また電話するね』
鯨岡菜摘も金森翔太も、だいたいこんな感じだった。
水が出た事で、僕らの生活の質は格段に改善した。ただ蛇口を捻るだけで水が出るってことが、実はこんなに凄い事だったとは思わなかった。もし僕が震災に遭わなければ、きっと、一生、分からなかったんじゃないかと思う。
★★★
翌週の月曜日、僕は、学校を取り囲むように植えてある桜が既に散り掛けているのに気付いて、だいぶ驚いた。
考えてみれば、既に四月十一日。桜が咲いていて当然だ。きっと、イルージョンが気になって、周囲に気が回らなくなっていたんだ。
僕は、瑞希と一緒に散り掛けの桜を眺めた。ナコヤでも見たから、今年二度目の桜だ。ここハッピーアイランドはナコヤよりも北にある分、例年、桜が咲くのが一週間くらい遅い。
「凄い。桜、ちゃんと咲いてたんだ。イルージョン浴びても咲くんだね。偉いな、桜」
そう言って瑞希は、嬉しそうに微笑んだ。そんな瑞希の笑顔に、僕も凄く嬉しい気分になった。
今年は二度も桜が見られて、本当にラッキーだと思った僕は、浮かれていた。思えば昨日、水が出た時からの僕は、ずっと浮かれた気分のままかもしれない。
それで、つい僕は、こんな事を口走ってしまったんだ。
「来年も、きっと咲くさ」
言ってから、すぐに『しまった!』と思った。隣を見ると、瑞希の表情が固まっている。
「来年?」と瑞希が小声で問い返す。
「うん、来年もまた、この桜が見られるといいな」
それは、僕の心からの願望だった。でも、『そんな事は、本当は有り得ないんだ』ってのも、ちゃんと僕にだって分かってはいたんだ。
今の僕らには、来年どころか、来月の事だって全く想像ができない。これからの事を考えられるような状況じゃないってのは、僕の周りじゃ当たり前のこと。先の事を話すのは、僕らにとってはタブーなんだ。
「来年かあ……」
瑞希がまた呟いた。さっきまでの笑顔はもうどこにも無くて、とても淋しそうな表情だった。
「そうだよ。来年も一緒に見ようね」
夢でも良いから、言ってみた。これが瑞希と一緒に見られる最後の桜だなんて、僕は絶対に思いたくない。
だけど瑞希は、ずっと淋しい表情のままだった。
★★★
教室に入ると、皆の顔が心持ち明るかった。菊池先生も例外ではない。
「みんな日曜日の朝は喜んだでしょう? 私も嬉しかったあ。こんなに嬉しい事なんて、今までの人生で初めてってくらい。思わず部屋中飛び回っちゃった。もっとも、うちは狭いワンルームのアパートなんだけどさあ……。シャワーって、ほんと良いよね。もう、こんなに幸せなこと無いわって感じ。でもまだ余震があるし、いつ水がまた止まるか判んないから、お風呂に入ろうって勇気までは無かったけどさ……あ、だけど、皆、忘れちゃダメよ。首都圏ですら、水道水からイルージョンが検出されているの。だから、少なくとも飲んじゃダメ……。まあでも、シャワーとかは大丈夫だと思うから、今は水が使えることの喜びを分かち合いましょう。ばんざーい!」
リカちゃんは、いつになくテンション高めだった。その勢いのままにペラペラと、どうだって良い事を喋り続ける。そして、一時限目のチャイムが鳴ったのを聞いて慌てて出て行った。
ともあれ、この時の僕らは、誰もが間違いなく浮かれていた。全員が束の間の幸せに浸っていて、ずーっと、それが続くような錯覚さえ覚えていたんだ。
だけど、それが本当に錯覚であって、そんなに早く再び失意のどん底に突き落とされるだなんて、きっと、僕らの誰もが思わなかったに違いない………。
END047
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
次話は、「もうひとつの大地震」です。
できましたら、次話も引き続き読んで頂ければ幸いです。
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★★★
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