024: 苦悩する母
この日、父さんはいつもより早く、夜七時前に帰ってきた。
お土産にレトルトのカレーをいくつか持ってきてくれた。会社で配られたんだそうだ。すぐに僕らは、お湯を沸かして温めて、ご飯の上に掛けて食べた。そんな物でも今の僕らにとっては、久し振りの御馳走だった。
それなのに、母さんの表情は暗いままだ。
食事の後、母さんが父さんにヒソヒソと話しているのを、僕は何気なく聞いてしまった。
僕としては、緑川瑞希と一緒に祖父母の所に行けるかもしれないという、淡い期待がある。だから、いつ母さんが父さんにその話をして、その結果がどうなるかって事には、大いに関心があったのだ。
「……食料のストックがほとんど無いってのは、分かった。うちの会社でも、社員食堂での昼飯の提供が問題になっとってな。総務が必死に食材を搔き集めてるんだが、なかなか上手く行かなくて困ってるみたいなんだ」
「食料だけじゃないわよ。水だって、もうほとんど無いのよ」
「えっ、そうなのか? 水だけは、結構ありそうなこと言ってたじゃないか?」
「それは、おとついの話よ。ご飯を炊いてるだけでも、水って思いの外に早く無くなって行くものなの。今回からお風呂の水でお米を研ぐようにして、少しでも節約してるんだけど、それでも明後日までもつとは思えないわ。手を洗ったり身体を拭いたり、それにトイレの水だって必要だし……、でも、それより、飲み水をどうするかよね」
「会社の自販機も水はもう無いぞ。中学校の水が出るって言ってたじゃないか?」
「あれはね、学校のタンクに残ってたのがあっただけだったみたい。もう出ないわ」
「そうか」
それだけ言うと、父さんはリビングの方に行ってしまった。そして勝手にテレビのスイッチを入れる。
「あなた、まだ話は終わってないわよ」
母さんが、リビングまで父さんを追い駆けて行く。
「私、もう駄目。お風呂だって、このままだといつまで待っても入れそうにないし、洗濯だって出来ないのよ。下着くらいは洗いたいけど、それも、もう無理。お風呂に溜めた水が、見る見るうちに減って行くのよ」
「給水所に行けば、水が汲めるんじゃないのか?」
「私、長い間、外で並ぶのなんて絶対に嫌よ。あなただって、今日、三号機が爆発した事ぐらい知ってるんでしょう? それなのに、イルージョンの濃度とかは全然、発表にならないし……。この辺の空気だって、もうイルージョンに汚染されてるんだと思うと、とても外に出たいとは思えないの」
テレビの音声を打ち消す為なのか、母さんの声はしだいに大きくなってゆく。
「俺は、毎日、工場に出勤しとるんだがな」
「それは、私だって感謝してるわ。だけど何もかも、もう限界なのよ」
「そりゃあ、外に出ないんだから、そうなるだろうよ……。まあ、店が開いてないってのは、事実なんだろうが……。そんでも、水ぐらいは、もっと何とかなるんじゃないのか?」
「あのね、私、もうこれ以上はガソリンを使いたくないの。ガソリンが無くて避難できなくなってしまったら、もうここで野垂れ死にするしかないじゃないの」
「やっぱり、避難するのか? だけど、お前達がいなくなったら、俺はどうすりゃ良いんだ。さっきから葵は、自分の事ばっかじゃないか!」
父さんが突然怒鳴った。父さんが家の中でこんな大声を上げた所を、僕は初めて見た。普段、僕に怒る時でも、こんな風に声を荒げたりはしない。
さすがに母さんも、黙り込んでしまった。
テレビの音声が急に大きく感じられた。ようやく首都圏で実施された計画停電での混乱について、最近人気の女子アナが報じていた。
そんでも、今の僕らにとっては、全く関心が無い。さっき、母さんが零していたように、僕らにとっての一大事は、物資の不足だからだ。
水が無い、食糧が無い、そして、それらを買いに行く為の車のガソリンが無い。その上、外にはイルージョンの粒子が舞っている……。まあ、最後のは政府が認めた訳じゃないけど……。
とにかく、もう八方塞がりだった。
そんな中、時計は夜九時を回り、枝松官房長官の記者会見が始まった。
枝松長官は、三号機の爆発で心配を掛けた事をまず詫びた後、注水作業が再開した事を説明した。実は、二号機もかなり緊迫した状況が続いているらしい。その二号機に対しても、夜八時過ぎには注水が開始されたと長官は説明した。
『注水が始まった事で、二号機の状況はこれから落ち着いて行くとお考えですか?』
どこかの新聞記者が、枝松長官に質問をした。
『そんなのは、もうどうでも良い』と僕は思った。肝心な事をテレビは何も教えてくれない。
父さんが、チャンネルを替えた。どこかの大学教授とその聞き手の若い女性タレントが現れた。教授は、イルージョンの人体に対する影響について話していて、女性が質問すると、口元に不気味な薄ら笑いを浮かべながら、こう答えた。
『この程度のイルージョンの濃度では、人体に影響なんか有り得ませんよ。全く問題はありません』
父さんが立ち上がった。
「寝る」
その一言だけを残して、父さんはリビングを出て行ってしまった。
そして、取り残された母さんは、ぼんやりと宙を見ていた。
★★★
今日は、昼間に瑞希と会ったから、わざわざ夜に会いに行くのは止めにした。
母さんがちょっとおかしいのも理由だ。こんな時に内緒で外に出てったりしたら、何を言われるか分かったもんじゃない。
それに、三号機が爆発したのは、僕だってショックだったんだ。やっぱり、この辺でもイルージョンが空中に漂っていると思うと、さすがに安易に外に出ようとは思わない。僕だけならまだしも、瑞希を危険に晒すわけには行かないのだ。当分、外で会うのは控える事にしよう。
自分の部屋から瑞希に電話した時、最初に僕はそんな話をした。それで、今夜、会いに行かないのは分かってくれたけど、明日以降は状況次第だという。昼間、母親の由希さんと一緒に瑞希がうちに来た時にも聞いたけど、瑞希の家も色々と大変みたいだ。
考えてみると、これは生死にだって関わる問題なのだ。大人だって、色々と悩んだりするのは仕方のない事なのかもしれない。
その後、食べ物の話をしたら、瑞希に『うちは、大丈夫みたい』と言われて驚いた。
『今日、お父さんが役所から救援物資を持ってきたの。自衛隊が凄くたくさん運んで来たんだって。でも、ガソリン不足で配るのは無理ってお父さん、言ってた。お母さん、本当に持って来ちゃって良いのかって、心配してた』
「その救援物資って、行けば貰えるのかな?」
『分かんない。お父さんが、役所は混乱してるからって。何でも、市長がいないとか言ってた。逃げたんじゃないかって、そんな噂があるみたい』
何か、役所も凄いことになっているようだ。でも、市長がいないって、いったい、どういうことなんだろう?
瑞希とは、僕の祖父母の家に避難する話を含めて色々と話したい事があったのに、僕は早めに電話を切った。
ベッドに入った時、漠然とした不安が込み上げてきそうになったけど、敢えて考えない事にして、僕は無理やりに目を瞑ったのだった。
END024
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
次話は、「迫り来る恐怖」です。
できましたら、次話も引き続き読んで頂ければ幸いです。
また、ログインは必要になりますが、ブクマや評価等をして頂けましたら励みになりますので、宜しくお願いします。
★★★
本作品と並行して、以下も連載中ですので、できましたら覗いてみて下さい。
(ジャンル:ローファンタジー)
銀の翅 ~第一部:未確認飛行少女~
https://ncode.syosetu.com/n9786lf/
また、ご興味ありましたら、以下の作品も宜しくお願いします。
【本編完結】ロング・サマー・ホリディ ~戦争が身近になった世界で過ごした夏の四週間~
https://ncode.syosetu.com/n6201ht/




