017:中学校での水汲み
お昼も、おにぎりだけだった。僕はいいかげん厭きて、ひとつしか食べなかった。ずっと家の中にいるせいか、お腹が空かないこともある。でも、どんなにお腹が空いたとしても、もうおにぎりは食べたくないと思った。
お昼過ぎに隣の朱美さんから母さんに電話が掛かってきた。何でも、中学校で水が汲めると言う。給水車が来たとかではなく、校庭にある手洗い場の蛇口から普通に水が出てるというのだ。
鯨岡家も、さっき母子三人で行って、鍋とかペットボトルに水を汲んで来たらしい。朱美さんによると、「全然、並んでなくて、楽勝だったわ」という事だった。
「樹、行くわよ」
母さんの一声で、ごみの日に出す筈だった空のペットボトルを風呂の水で適当に洗って、大きめの手提げ袋に詰めた。更に大型の鍋やバケツを見繕うと、母さんと一緒に家のミニバンで中学校に向かった。
中学校の校庭の手洗い場には、小さな人だかりが出来ていた。そんなに大勢ではないが、やっぱり口コミで情報が広まっているようだ。
十組くらいは並んでいたけど、蛇口が多くある事もあってか十五分程で僕らの順番が回って来た。早速、持参したペットボトルへ手当たり次第に水を入れて行く。すると、後ろからポンと肩を叩かれた。
「あら、翔太くんじゃないの」
僕が振り向くより早く、母さんが言った。
翔太は既に水を汲み終えて、迎えの車を待っている所だと言う。
ようやく水汲みを終えた僕が、ペットボトルを手提げ袋に詰めていると、翔太の手がすっと伸びてきて、横に置いたバケツ二つを持ってくれた。
「おっ、サンキュー」
お礼を言って前方に目をやると、校舎の脇に台車が二台置かれていた。その上にはポリタンクが四つずつ置かれていて、その横にジャージ姿の女子がしゃがんでいるのが見える。近付いて行くと、その子が小さく手を振ってきた。大きなマスクをしていて分かり辛かったけど、どうやら青木麻衣のようだ。
「葵さん、こんにちは」
麻衣は最初に母さんに挨拶して、今度は午後なのに「おはよう、樹くん」と声を掛けてきた。彼女が言うには、翔太と一緒に、ここまで台車を押して歩いて来たのだそうだ。
「帰りは、車で運んでくれる事になってるの」
「でも、良くこんなにポリタンク、あったよな」
「うちって病院だからね。たいていの物は倉庫いあるのよ……。あ、そうだ。これ使って良いよ」
麻衣は、そう言って台車の上のポリタンクを下に降ろし始めた。翔太と僕も手伝って、代わりに僕ん家のペットボトルやバケツ、鍋とかを載せて行く。その台車を三往復させて、うちのミニバンに全てを積み込んだ。その作業が終わると、母さんには先に車で帰ってもらって、もう少し僕は、翔太や麻衣と一緒に居ることにした。
「ありがとう、麻衣。助かったよ」
僕がお礼を言うと、「どう致しまして」と麻衣が返してくれる。
やがて翔太のお母さんが来て、さっさと台車とポリバケツを運んで行ってしまった。『あれっ、麻衣ん家の車じゃなかったの?』と思っていると、麻衣が「さっきのポリタンク、全部、翔太にあげた物なの」と言う。
僕らは、三人でゆっくりと家路を辿りながら、その続きを話した。
「私、これから家族でオキナワに行くことになったんだ。今日中に車でナリタに移動して、一泊した後、明日の朝の便で飛ぶの」
「ナリタって、道路は大丈夫なの?」
「うん、下道だったら、何とか通れるようになったみたい」
「でも、良いなあ。こんな時に旅行だなんて」
「旅行じゃないわよ。緊急避難」
「えっ?」
「だって、パパが言うには、この辺りのイルージョンの濃度、もうだいぶ危険なレベルになってるみたいなの」
それで僕は、何で麻衣がマスクをしているかが判った。
「避難って、いつまでなの?」
「オキナワは、取り敢えず一週間かな。その後は様子を見て、パパの実家のあるオサカに行く事になってるの」
「えっ、そんなに長いんだ。でも、学校の方はどうするの?」
「学校なんて、どうせ、この先ずっと無いわよ。何か、学校なんて行ってる場合じゃなさそうだし……」
麻衣は、その後に彼女が父親から聞いた話を、かいつまんで話してくれた。
もし、母さんから聞いた話が頭に無かったら、きっと僕は、『麻衣は、頭がどうにかなっちゃったんじゃないか?』って疑ったに違いない。でも、麻衣の話は、今朝の母さんの話と合致するのだ。僕には、麻衣を笑えなかった。
「なあ、樹。麻衣の奴、おかしいと思うだろ? 俺ら、さっきまで散々やり合ったんだけど、どうも話が噛み合わないんだ」
仕方ないので、僕は今朝、母さんから聞いた話を二人に披露した。母さんの話は、翔太にとっては衝撃的だったみたいだけど、麻衣は『そんなの、当然』といった感じだった。
僕の長い話を聞いた後、麻衣が言った。
「昨日、一緒に見た一号機の爆発の映像があったでしょう? 今となっては、私、あの爆発の様子を見て恐怖を覚えない人がいたら、その人の方が『頭、おかしい』って思っちゃう。あんな風に爆発が起こってて、イルージョンが飛んで来ない訳なんてないじゃない」
翔太は、麻衣が話している間、ずっと俯いていた。
その後で聞いた所によると、麻衣から「ポリタンクの水は、お餞別よ」と言われたらしい。
「ねっ、翔太も判ったでしょう? だから、せめてトキオでも良いから逃げて頂戴。もちろん、本当は引き摺ってでも一緒に連れて行きたいくらいなんだけど、翔太の家族全員って訳にも行かないし、何とか翔太からご家族を説得して逃げて欲しいの。ねっ、私からの一生のお願い。たぶん、明日にでもなれば、この辺でもうちみたいに避難する人が増えてくると思うわ」
ここまで麻衣が話した時、僕は自分の家に着いてしまった。翔太と麻衣の家は、ここから更に歩いて十分ほど掛かる。
麻衣が、僕の胸の前に右手を差し出してきた。僕は、その柔らかい手をしっかりと握ると、「元気で」と言った。
「樹くんも気を付けてね。たぶん、樹くんのお母さんだったら大丈夫だと思うけど、とにかく早めに逃げてね。いいこと、少しでも早く逃げるのよ。もう、ここは戦場みたいな所なんだもの。中学生が、そんな所にいつまでも居ちゃ駄目」
いつも冷静な麻衣が、今日は妙に熱くなっていた。
「それとね。できれば瑞希も一緒に連れてってあげて。彼女、お父さんが公務員だから、なかなか逃げられないと思うの。そういう時は、瑞希だけでも一緒に連れて行くのよ。分かった? 樹くんが瑞希をここから連れ出すの。頼んだわよ」
麻衣の目は、真剣だった。
最後にもう一言「がんばるのよ!」と僕に言い残して、麻衣は翔太と一緒に歩いて行った。
僕は、翔太の事も気掛かりだったけど、結局、「またな」とだけ言って二人を見送った。
大丈夫だ。翔太となら、また直ぐに会えるさ。
そう思い込む事で僕は、自分の不安な気持ちに無理やり蓋をした。そして踵を返すと、再び家路に着いたのだった。
END017
ここまで読んでくださって、どうもありがとうございました。
次話は、「忍び寄る災厄」です。
できましたら、次話も引き続き読んで頂ければ幸いです。
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