2.ヒイロ
「言ってよ」
翌日ヒイロは自室のベッドの上で突っ伏していた。
喚びだされてから半年間、自室としてあてがわれた部屋は居室と寝室が分かれていて、風呂トイレ付。高そうな装飾品にびくびくしていたらそれらはいつの間にか取り払われたので、当初よりはいくらか簡素な雰囲気になっている。それでも聖女様と呼ばれる者が使用するにふさわしいといえる広くて立派な部屋だ。聖女様なんて初めは気恥ずかしかったけど、女神さまと言葉を交わした今となってはなんとお似合いの称号か。元気いっぱいのヒイロならそう思えただろうが、残念ながら今の私にはその元気がなかった。
「普通、そんなこと考えてるとは思わないだろう」
うつ伏せにベッドに突っ伏すヒイロの足元に浅く腰かけて、護衛騎士の男がため息をついた。あからさまに呆れて「だめだこいつ」と言いたげな雰囲気満々で、普段ならおおいにムカついて即クビにしてやると意気込むところだが、
「ううっ……」
今、口から洩れるのは嗚咽ばかり。
顔の下にベッドが濡れないように布を何枚も重ねてあるが、もうすでに涙も枯れ果てている。
つまるところ、私は人生最大の過ちを犯してしまったのだった。
こんなことを他の人が言ったら、齢十七で人生を語るとは、と鼻で笑うこと請け合いだ。しかし、私の場合はまさに人生が懸かっている。いや、懸かっていた、のだ。
女神さまの申し出を断ったとき、後ろでざわついた気配がしたのはやっぱり気のせいじゃなかった。そしてヒイロの聖女っぷりに感嘆したのでもなかった。――あれが元の世界に帰れるチャンスだったのだ、唯一の。今までの人たちはみんな、女神さまに「元の世界に帰りたい」という願いをひとつ、叶えてもらっていたのだ。――わかるか!
そして言えよ! 誰か一人くらい、お前元の世界に戻れなくなるけどいいの?! って! あのとき! 即座に!! 気を利かせて!! 聞けよ!!
私の、人生が懸かった渾身の叫びだったというのに、しかし男はすでに半笑いだった口元をこらえきれないように決壊させた。無遠慮な笑い声が室内に響き渡る。
「な、なに笑ってんの?! レヴィのバカ! バカ!」
思わず男に向かって手が出るが、これは誰がどう見ても正当な八つ当たりである!
「くっ、ふ、わ、わるい……」
どう見ても悪いと思っていなさそうだし、私の人生が懸かっているというのに絶対に他人ごとのように思っているし、その証拠にいつも出世に抜け目ない鋭い顔を思いっきり緩めて、初めて見るほどの大爆笑をしている。
「だって、こんなアホな話っ……、まさか目の前で、起こる、なんてっ」
ひいひい言いながら腹を抱えて悶える姿に、恥ずかしさでかあっと顔が熱くなる。
「だって普通こんなのおかしいじゃん!」
普通、元の場所に帰れるのは大前提で、それプラスお願いをひとつ聞いてくれるってことかと思うじゃん。勝手に喚んだんだから、戻るのもオプションに入ってるんだと思うじゃん。勝手に喚ばれてご褒美が元の世界に戻ることって、そんなん差し引きゼロじゃん。ゼロどころか無駄に拘束されていた期間と練習させられた儀式のいろはを差し引いたらマイナスまである。
「そんなん変じゃん! 勝手に喚ばれたこっちは何の得もしないじゃん!」
「それは……、たぶん人間的成長が」
「夏休みこども自然教室じゃないんだから!」
そういうのはキャンプとかボーイスカウトとかで経験できるんだよ、わざわざこんなところに来てまでするようなことではないっ!
「強欲だぞ、聖女サマ」
笑いすぎて出た涙を拭いながら半笑いで言われても火に油を注ぐだけである。
「うるさいっ! だいたいあんた私の護衛なんだから、あのとき引っぱたいてでも止めるべきだったのに!」
「そんな、儀式を中断させるようなことできるわけないだろ」
「じゃあ事前に教えてよっ!!」
そうだ、事前に教えてないのが悪い。いざとなったら全責任を押し付ける勢いで睨むと、レヴィははあとため息をついて肩を落とした。ようやく自らの落ち度を認めたか、と腕を組んでふんぞり返っていると、
「お前最後のパーティーで自分がなんて言ったか覚えてるか?」
思いもよらない言葉に、ついきょとりとまばたきをする。
「最後の……パーティー?」
パーティーってなんだっけと少し考えたところで思い出した。確かに昨日の夕方、儀式の直前に、お城ではパーティーが開かれてヒイロも参加を強制させられたのだった。こっちはこれからの儀式のために気を張っているというのに、当の本人たちはすでに儀式が成功したかのようなのんきさで優雅にパーティーなんか開きやがってなんておめでたい奴らなんだとヒイロはずっとご立腹だったあれか。
「『集中してんだから話しかけないで!!』」
レヴィは再現のつもりなのか、妙な声色で身振り手振りまで変なふうに動かした。そんな変な顔してなかったとヒイロはむっと頬を膨らます。
確かにそう叫んだのは事実だ、だってこっちは長ったらしい呪文みたいなのとか変な儀式の踊りとかを間違わないように忘れないように必死なのに、のんきな奴らが次から次へとわいわい寄ってきて、顔もよく知らないようなやつらまでもがぺちゃくちゃと話しかけに来るのだ。儀式を失敗させようとしてわざとやってんじゃないかと疑われても仕方がないだろう。
そしてそのヒイロの一喝で会場はしんと静まり返り、もとの控えめなざわめきが戻ってくる頃にはヒイロのそばには誰も近寄っては来なくなった。話しかけてこようとするやつがいたら撃退しろと命令されたレヴィ以外は。
「あのパーティーは聖女と話す最後のチャンスだからな。ふつうはみんなあそこで別れの挨拶とかするもんなんだよ」
確かにあのあとすぐに儀式があって女神と会って、儀式の最後に願いを一つ聞いてもらう……、となれば、誰かとのんびり話す暇もなく元の世界に帰されるのか。本来なら。
「でもお前、仲良かった奴らすら寄せ付けなかったからさ。もしかしたらと思って聞いてみようとしたけど……」
そこでレヴィは呆れたようにふうとため息をついた。ヒイロだって覚えている、話しかけようとするやつを撃退しろと命令されてるのにお前だけは例外だと思うなよともう一度一喝したのを。それでレヴィもおとなしくなって、いらいらと儀式の手順を脳内で反芻するヒイロだけが残された。そのあとも何度か喋りたそうにちらりと見られるたび、般若の形相で黙らせていた……。
「だ、だって。あの時は必死で……まさかそんな……」
今さらになって己の失態を自覚して慌てふためく私を、
「はい自業自得」
レヴィはばっさりと切り捨てた。
そんなまさか。このままではただ働きした挙句、元の世界にも戻れないという大損の結果が待っているだけではないか……。
がっくりとうなだれて、ヒイロはしばらく起き上がることができなかった。
やっぱり私は人生最大の過ちを犯してしまったのだ。