睫を読まれる
●平瀬 走から見た、喜咲 静来という女
「静来」
燐に名前を呼ばれた少女は、部屋の中を見回すとびくりと俯いた。
「えー、燐くん誰?その子」
「可愛いー。中学生」
半年前まで自分たちだって中学生だったくせにお姉さんぶってきゃらきゃらと笑う女子たちに、燐はへらりと笑った。
「幼馴染だよ、隣に住んでるんだ。静来、悪いな今友達が遊びに来てて」
「見れば、分かる」
静来と呼ばれた少女が出した声はようやく絞り出した、といった風情で掠れていた。小柄な少女にしては、低くてハスキーな声だったから意外だな、くらいは思ったが。
「今日は、帰るね」
力なく呟いた声を部屋に置き去りにして少女を部屋を出る。瞬間、射貫くような視線で睨まれた気がして、その内気そうな少女に鳥肌がたった。
燐は、高校になってからの友達だが、何だか馬があった。喋っていても、遊んでいても心地いい。絶妙な距離感で隣にいる。少し前まで中学生だったとは思えないほどに成熟した奴だった。基本的に人が嫌がることはしない。相手をよく見ている。何を求めているのかを即座に察してほしい言葉をくれる。だから、なんだか気が合うなと思うのは俺だけではなかったはずだ。そんな奴だから当然モテる。俺は、燐の側にいると女子も寄ってくるし、気のいい奴らと適度な距離感で付き合えるという理由で凛とつるむようになった。
「おい」
その日は、放課後付き合いだけは悪い燐が時間があると言っていたので俺等が舞い上がって燐をあちこちに連れまわした日だった。学校が終わってからそのままゲーセン、カラオケ、ファストフード店と中々にハードなスケジュールだった。最寄り駅が同じ俺と燐が改札を出た瞬間、俺は燐の肩を叩いた。
「なんだよ」
さっきまでのテンションを引きずっているのか、いつもよりも心なしか上機嫌な燐が俺に笑いかけるので、俺は黙って顎で前を見るように示す。
「・・・静来!」
静来ちゃんの姿を認めた瞬間、燐はさっきとは全く違う表情を見せる。ぱあっと顔を輝かせながら静来ちゃん近づく燐とは対照的に、静来ちゃんは不満顔で燐を睨む。
「どうした?こんなところに」
「お兄ちゃん、中々帰ってこないし、いつもと帰り道違うルートみたいだったから、気に、なって」
「そっか、悪いな。静来に言ってなかった。今日は、学校の奴らと遊んでたんだ。・・・遅くなってごめんな」
「・・・ふう、ん」
静来ちゃんは不満顔のまま燐の腕に自分の腕を絡めると「早く、帰ろ?」と燐に訴えた、ように見えた。声は掠れてよく聞こえなかったが。
「うん。・・・またな!」
「ああ、また明日ー」
振り返って声をかけてきたから俺は燐と静来ちゃんに手を振る。朗らかな燐とは対照的に静来ちゃんは不思議そうな顔をしている。その顔のまま燐の目を見て、
「・・・誰?」
と聞いた。
「静来、覚えてない?この前うちに遊びに来てた」
「ああ・・・、そうだっけ?」
そう呟いた静来ちゃんの声に、あまりにも温度がなさすぎてぞっとした。
腕を組んだまま駅を去っていく二人の後ろ姿を見ながら、静来ちゃんって燐のことお兄ちゃん呼びなんだ、とか多分その日あった出来事の中で一番どうでもいいことだけが脳内を反芻していた。
「静来、俺等の一個下だから、今中3」
「へえ・・・」
次の授業が体育だったから更衣室に行く途中で燐に静来ちゃんについて聞いてみる。けどジャブをうつように一番どうでもいい質問が最初に口をついてしまった。そんな俺の質問に燐は丁寧に答えてくれる。
「・・・昨日、静来ちゃんが帰り道違うって言っていたのは?」
やっと本題に入る。
「ああ、静来は、俺の携帯にGPSつけてるんだよ」
なんてことない顔で燐は答える。ぽかぽかとうららかな陽気だったはずなのに、更衣室の温度が3度は下がった気がした。しかし燐の発言に違和感、というか恐怖を感じているのは俺だけで(今燐と話しているのが俺だけなだけだが)、周りはいつも通り着替えを済ませていた。
「えっと・・・それは・・・」
なんで、とか、聞いてもいいのだろうか。窺うように燐をちらりと見る。
「平瀬?」
不思議そうに俺の名前を呼ぶ燐と目が合った。
「・・・付き合ってんの?」
動揺している、と思った。目の前の友人は間違いなく光属性だ。運動部所属。成績も悪くはなく友達も多い。今は高校に入ってひらひらと舞う蝶のように自分に群がる女子から最適な子を選別している段階で、あと数カ月もしたら可愛い彼女ができると思っていた。
束縛とか、嫉妬とか、そういう感情とは一番縁遠そうな立ち位置にいるのに、燐が静来ちゃんに許している行為は幼馴染としては異常だ。多分、恋人だったとしても普通の彼氏彼女はそこまでしない。でも、仮に付き合ってると言ってくれたら、まだ納得できる気がした。
「まさか」
なのに、燐は俺の質問にケラケラと笑った。会話の内容の不健全さを全く感じさせない爽やかな笑顔だった。
「静来、今は中学ほとんど通っていないし昔から友達少ないから・・・。ある程度の我儘は許してやりたいだけだよ」
GPSつけられて平然と笑っているのは許しすぎじゃないのか、と言いたかったのに燐はもう更衣室をするりと抜け出していた。
「静来ちゃん、でしょ?」
コンビニで漫画雑誌を立ち読みしていた小柄な少女に見覚えがあり、誰だろうと思っていたが誰かが認識出来た瞬間思わず声をかけていた。名前を呼ばれた静来ちゃんは、びくりと肩を震わせたが、俺の顔を見た瞬間ああ、と興味なさげに頭を下げ、それから再び漫画雑誌に目を戻した。
「ちょ、ちょっと待ってよ。お話、しない?」
「・・・話?」
胡乱気な瞳には、明らかに面倒くさいと書かれてある。
「え、えっと・・・えーっと・・・クラスでの、燐の話とか・・・?」
他に興味をひけるような話題なんて思いつかなかったが、それでもう少し何かなかったのかと自分で自分に呆れる。それでも静来ちゃんは、ぱたんと雑誌を閉じると俺を真っすぐに見た。
「えっと・・・何か奢ろうか?」
コンビニのイートインスペースで抹茶ラテをちびちびと飲む静来ちゃんは、俺の顔を見ないまま早く話せを促しているように見えた。正直彼女の方から何かを話してくれることは期待していないし、お互いに何も話さないこの状況も気づまりだ。静来ちゃんが満足できるような会話ができるかは分からないが、俺は学校での燐の様子を2、3話した。
静来ちゃんは、それを興味深そうに聞いていたが、燐が学校っで五本の指に入る美人に言い寄られているという話をした瞬間眉を顰めた。
「静来、ちゃん・・・?」
「お兄ちゃんは、学校じゃモテるの?」
「そりゃ、顔も性格もいいし、それなりには・・・?」
「そう・・・」
静来ちゃんは俺の顔なんか目に入らないという顔でぶつぶつと呟いている。正直、かなり怖い。
「ねえ、私と付き合わない?」
やがて一つの結論を出したらしい静来ちゃんは、相変わらずの無表情で俺に提案した。
「静来と付き合い始めたって、マジ?」
静来ちゃんの提案に頷いた次の日に話しかけてくるとは、仕事が早いのは静来ちゃんの方か、燐の方か。まあ。両方だろうな。
朝から人ひとり殺してきました、みたいな形相で俺を睨む燐は、正直怖い。俺、燐と友達やめたのかなってくらい、怖い。
「なんで?静来ちゃんに聞いた?」
「昨日、静来が夜家にいなかったから。帰ってきた時に聞いたら、お前と付き合うことになったって」
何となく、俺が静来ちゃんを深夜に外に連れ出したみたいな構図になっていないか、きおれ。いやそれは濡れ衣もいいとこなんだけど。・・・でもまあそれよりも怖いのは夜静来ちゃんが家にいないことに気づくこいつだけど。何、ストーカーなの。そういえば、数日前に燐にGPSつけてるって聞いた時にも静来ちゃんに対して同じこと思ったなあ。本当にお似合いだよ、お前ら。
「別に俺が呼び出したわけじゃないよ。たまたまコンビニで会ったんだ」
「お前んち、俺等の家と近くないよな」
「知らないよ。燐の家に最寄りじゃなくて、学校近く乃」コンビニだったし」
「静来は昨日学校休んでたのになんでそんな所にいるんだよ」
「だから知らないって。本人に聞けば?」
朝、教室について早々に教室の片隅でこそこそと話す俺等はクラスメイトからしたら結構異様な光景なんじゃないだろうか。それでも声を顰めながらも誰も話しかけてくれるなと
いうオーラを発する燐の周りに俺以外の人間は近づこうとしない。いっそ空気の読めない女子でも話しかけてくれたらこの追及からは逃れられるのではないかと思ったが、期待出来そうにない。
静来ちゃんの提案を呑んだ時点で、燐が何か言ってくるかもなあくらいは予測していたが、想像以上の厳しさに泣きそうだ。やっぱりあの時断ってしまえばよかった。でも、断ったら殺されると思ったんだよ。ふと、思いついたみたいな口調で言ったくせに人でも殺しそうな剣呑な視線の静来ちゃん。あんな恐ろしい女をまるで壊れ物みたいに守ろうとする燐が、滑稽で凄いと思った。
というかなんで高校に近いコンビニにいたって、そんなの燐のことつけてたか、待ってたかの二択だろう。友達少なそうな静来ちゃんが燐以外の誰かのために俺等の高校の近くを移動圏内にするように見えるのか。
「ていうかさあ、俺から静来ちゃんに告白したわけじゃないから」
腹が立った。どうしようもなく、気分的には窮鼠猫を嚙むって感じだけど。俺を利用しようとする静来ちゃんにも。見当違いな嫉妬をする燐にも。俺はなんだ。当て馬か。当て馬なんだろうなあ。でも、当て馬にも、当て馬なりの意思があるんだぜ。
「あ?」
俺の挑発に、燐はそれはそれはもう不機嫌な顔をした。
「静来ちゃんが俺に付き合おうっていって、俺もそれにいいよって返した。それだけ。あとは静来ちゃんを問い詰めたらいいんじゃない?」
ぐ、と押し黙った燐が俺に睨むのと、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴るのは同時だった。名残惜しそうに自席に戻る燐の後ろ姿を見ながら俺は他人事のように分析する。多分、燐は静来ちゃんに聞けないから俺を問い詰めたんだろうし、今日家に帰ってからも、静来ちゃんには聞けないんだろうなあと思った。実際、他人事か。
「平瀬さん、お兄ちゃんに何か言った?」
静来ちゃんと付き合い始めて最初の週末。映画館でつまんなそうに恋愛映画を選択した静来ちゃんは今日初めて俺に笑いかけた。
俺に全く興味のなさそうな静来ちゃんだが、最低限の義務みたいに俺に時間を割いてくれた。一日一回は連絡が来て、初デートに映画に行こうと言われた。声も顔も分からないけど、多分全く笑ってないんだろうなあとは思った。
多分、家に唯一あったスカートととりあえずとかすくらいはしました、みたいな地味な恰好で映画館に現れた静来ちゃんは男女交際の教科書を何となくの知識でなぞろうとしていた。
「スカート、持ったんだ」
「見たこと、なかった?」
「うん。初めて会った時は燐のジャージ着てたよ。めちゃくちゃぶかそうだったけど。で、次とその次はパーカーにジーパンだった」
「なんで覚えてんの」
キモイ、というい言葉を呑み込んだようだったが、軽蔑にあふれた表情が隠せていないのでどっちにしろアウトだ。
「恋愛映画なんて、意外だね。好きなの?」
「全然」
話題を変えてみるも、静来ちゃんはにべもない。
「普段、映画はよく来るの?」
「そんなに・・・」
「じゃあ、休みの日は何してる?」
「いつもは・・・・お兄ちゃんの家、行ったり。お兄ちゃんがうちに来たり・・・」
「外には出かけないんだ」
「たまに、本屋とか・・・ゲーセンとか・・・?」
「燐と?」
「うん」
あっさり認められると、やっぱり会話がなくなる。気まずい。静来ちゃんも、積極的に話しかけてこようとはしないが、居心地悪そうに視線を彷徨わせている。そんなに気まずくなるくらいなら、最初から誘わなかったらいいのに。そもそも、付き合わなかったらいいのに。
静来ちゃんは、内気そうで実際人見知りで口下手なんだろけど。ふとした瞬間にぞっとするくらい雰囲気のある子だから、俺はそれが怖い。なんだか、普段話している女子とは違う恐ろしさがある。
でも今日は人見知りの部分が勝っているようできょどきょどと俺を見ようともしない。こうなるとなんだか小動物を扱っているような気持ちになって面白い。
俺は静来ちゃんに軽い気持ちで話しかける。
「じゃあ、燐以外とはどっかに出かけないの?」
「別に・・・お兄ちゃん、以外に仲、いい人とか、いない・・・」
「中3だよね?学校の友達、とか・・・」
「私、学校ほとんど、行ってない、から・・・」
「えっと・・・何で、とか」
聞いてもいいですか?と言おうとして息を飲む。静来ちゃんが静かな笑顔でこちらを見ていた。これは、あれだ。怖いやつ。何度か見た、独特の雰囲気のやつ。
案の定、静来ちゃんは落ち着いた口調で語りだす。
少しハスキーなその声は、多分聞く人によってはとても落ち着く声音なのだろうけど、今の俺には恐怖しか感じない。蛇に睨まれた蛙と化した俺は、静来ちゃんの言葉を硬直したまま聞いていた。
「学校、行かないとお兄ちゃんが心配、してくれるしね。一応学校に行かなくなった理由もあるには、あるんだけど・・・」
思案顔でと映画館の入り口を見た静来ちゃんは「映画終わったら教えてあげる」と聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
●喜咲 静来から見た、椋木 恵那という女
守られていた、と感じたのは丸腰の自分に向けられた鋭い悪意を浴びた瞬間だった。
体育倉庫なんてベタだなあ、どころかこんな所で気に入らない相手に詰め寄る人って実在したんだ、と考えていると苛立ち隠しもしない相手に蹴れらた。尻もちをついた私を後ろに控えていた女子がげらげらと笑う。
醜いなあ、と思う余裕はあるのに反撃する気はさっきから自分の頭には浮かんでこない。
「燐先輩も、なんであんたみたいなやつ・・・」
正解を決して教えてもらえないクイズを突き付けられた、みたいな顔で呟かれる。さっきから率先して私を攻撃する彼女は確か陸上部の部長だ。
「どういう、意味・・・?」
乾いた喉から出た声は、掠れていた。でも、それが恐怖から来るものでないことくらい、私は知っている。
「だからさあ、佳奈は燐先輩に告白したのね」
出来の悪い生徒に教えるように控えの生徒が声をあげる。当然、そんな情報は初耳だ。
「それが・・・なに?」
「そしたらさあ、今誰かと付き合う余裕ないからって断られたの」
女子生徒の言っている意図することが理解出来ず、思わず首を傾げた。
「あんたのせいじゃないの!?」
ガアン、と大きな音が響いた。女子生徒が傍に置かれていたバケツを蹴ったようだ。
「私の・・・せい?」
「あんたが燐先輩の傍にくっついて離れないから、先輩は佳奈と付き合う余裕がないんだよ!先輩が断れないからって、迷惑かけて、恥ずかしくないわけ!?」
・・・えっと、ひょっとしてこれはコントの練習だったりするのだろうか。そんなことを考えてしまう程には、目の前の生徒たちの意見は的外れで滑稽だった。
まずお兄ちゃんは告白を断る理由に私を使ったりしない。お兄ちゃんが誰かと付き合う余裕がないと言ったなら、それは本当に時間なのか気持ちなのかは知らないが余裕がないのだろう。
次にもしもお兄ちゃんが誰かと付き合いたいと思ったとしても相手が目の前の女子生徒である可能性は万に一つもない。お兄ちゃんの好みのタイプからはかけ離れてそうだし、こんな五月蠅いだけの女たち、お兄ちゃんに相応しくない。
ただそれを面と向かっていう度胸はない。だって、言ったら火に油を注ぐようなものだ。だからといって、ここで兎みたいにぶるぶる震えていてもそれもまた相手を煽るだけなことくらい分かっている。どうしたものか・・・。
「静来ちゃん!」
思ったよりも数段冷静な頭でそんなことを考えていると、名前を呼ばれた。
「恵那」
クラスで目立たない私に唯一話しかけてくる級友に名前を呼んでみると、恵那は心配という顔を貼り付けたまま私の顔を見た。
「静来ちゃん、先生が呼んでたよ」
「そう、なの・・・?」
「うん」
「ちょっと!まだ話の途中なんだけど」
突然の珍客に呆気に取られていた女子たちが声を荒げる。しかし、一瞬怯んだ恵那が冷静に告げる。
「でも、先生急ぎみたいだったから静来が職員室来ないってなったら多分先生探しに来るよ?その時にこんなところ見つかったら、貴方たち、怒られるどころじゃすまないんzyない?」
確かに、絵面はまさしく大人しい女子生徒をクラスのボスたちが虐めている、の図だ。まあ、間違ってはいないんだろうけど。図星をつかれた女子たちが、舌打ちを残して去っていく。
「あ、の。・・・恵那」
「なあに?」
「・・・ありがと」
「・・・どういたしまして!」
私の顔を見た恵那が、お礼を言われたことがよっぽど嬉しかったのか破顔する。
「ところで先生って、どの先生?」
「ああ、あれ嘘」
照れくさいのを誤魔化すために本題に移ると、恵那はあっさりと告げた。
「嘘・・・?」
「うん。だって私あそこで殴り合いの大立ち回りとか出来ないもん」
「しなくて、いいよ・・・。というか、無理に、助けようと、しなくても・・・」
一人でそつなく対処出来た、とは言えないが、別に怖くもなかった、も本音だ。私のそんな様子を見て恵那が手をぎゅっと握る。
「いいの。私が静来ちゃんの力になりたかっただけだから。静来ちゃんにとってそれが必要なことじゃなくても。それより今日一緒に帰らない?」
邪気のない顔で笑う恵那を見て、やっぱり、大事にされている、と思った。
「3年生になってから、静来ちゃんと帰れるようになって嬉しいなあ」
「おおげさ・・・」
「だって静来ちゃん、いっつも燐先輩と一緒に帰ってたじゃない?静来ちゃんも燐先輩もいっつも二人でいるから、放課後遊ぼうとか、一緒に帰ろうとか言いにくくて、正直寂しかったんだよね」
屈託なく笑う友人は、私にとって唯一の友人だが、恵那には友人が何人もいるわけで別に私にこだわることはないのに。そう告げると、恵那はやっぱり私を見て笑った。
「燐先輩より私を優先するとは言ってくれないんだね、静来ちゃん」
恵那の言葉に私は首を傾げる。
だって、お兄ちゃんより誰かを優先するなんてありえない。今日だって家に帰ったら私はお兄ちゃんの家に行くし、高校に入ったらまたお兄ちゃんと一緒に登下校をするだろう。それは恵那のことが好きとか嫌いとかだからではない。私の人生において、お兄ちゃんが常に最優先事項なだけだ。他の人なんて、割って入る隙間もないくらいに。
地獄の1年。小学校6年生の時にもあったけど、1年の年の差というのは残酷だ。私は高校には行けないし、一足先に高校にいったお兄ちゃんと私が一緒に学校で過ごすことはない。どうせ同じ高校に入ったらお兄ちゃんとまた一緒に過ごすことになるんだろうけど、それでもこの1年は長くて、私にとって地獄だった。
一人で地獄を過ごすよりも、誰かが隣にいてくれた方が、まだまし。恵那と一緒に過ごす1年なんて、それが理由で私には十分だった。
お兄ちゃんのことが好きな人たちにいじめられたことくらい、大したことじゃない。恐くない、わけじゃないけど。あのくらいなら恵那も助けてくれるし、自分でも逃げられる。お兄ちゃんとの時間が減ってしまうなら対応策を考えたけど、新しい学校で楽しそうなお兄ちゃんは以前ほと私の家に来ようとはしない。それはそれでどうにかしないとなあ、とは思っていたけど。それはそれとして、お兄ちゃんがいない校内でのいじめなんて、小蠅にたかられているようなものだ。鬱陶しいけど、だからなんだというレベル。
それが甘かったと気がついたのは、放課後一人きりで教室に残っていた時だった。
どうしてこんなことになったんだっけ。痛む体と対照的に、頭はクリアで冷静だった。それがとても、嫌だった。
目の前で私の身体を無遠慮に触っているのは学校でも有名な不良数人で、何が言いたいかというと、今までの私の人生とは全く関わりがなかった人たちだ。
「ちょっと先生に呼び出されちゃって。すぐ終わると思うから待ってて」
と恵那が職員室に向かったのが10分前。
そんな恵那に対して
「分かった。じゃあトイレにでも行って待っている」
と答えた私と、今の私はもう違う生き物だと思う。
トイレの個室から出ると、品のない笑顔を浮かべた不良数人が私を見ていて、さっきまで私が入っていた個室にもう一度連れ込まれた。
「女子トイレですよ?」なんて間の抜けた台詞を言う暇すらなかった。
痛かった。殴られていないのに。暴言も吐かれていないのに。ただ、人形みたいに汚い不良たちの欲望のはけ口にされたことが屈辱的で何よりも心が痛かった。苦しかった。
すぐに終わると言っていた恵那は助けに来なかった。トイレに行くと言っていた私が教室にいないことに気が付くと、真っ先に女子トイレに向かうかと思っていたが。そのことに、絶望して、安堵した。
助けてほしい、恵那に。見ないでほしい、こんな私を。
助けて、見ないで。助けて、見ないで。来て、来ないで。誰か、どうにかして。お兄ちゃん、助けて。
全部が終わって、ぼろ雑巾みたいな私が取り残されても、やっぱり恵那は来なかった。痛む身体を引きずって、恵那を置いて家に帰った。それから1週間、私が家から一歩も出なかった。元々共働きの両親は私よりも早く家を出て遅く帰ってきていたから私が学校に行っていないんことにまだ気が付いていない。一足先に高校生になったお兄ちゃんも、今は一緒に登下校していないから私が家に引きこもっていることに気が付いていない。
家で一人でいると、ずっと考えてしまう。あんなの、どうってことない。嘘だ、お兄ちゃんに、合わせる顔がない。恵那は心配しているだろうか。でも、暫く連絡がない。
私は、私が傷ついたことはどうでもいいのに、自分が雑に扱われている時に初めて自分が大事に守られていたことを知ったから、お兄ちゃんが、恵那が大事にしてくれた私を私が守り切れなかったことが何よりもショックだった。
だから、私が苦しいことに気が付いてほしいのに見られたくない。知ってほしいのに知られたくない。その矛盾から、ずっと抜け出せないでいた。
リビングに、人の気配を感じたのは多分いつもよりも人の気配に敏感になっていたっからだろう。お兄ちゃんは私の家に、自分の家のような気軽さで入るし、お母さんが手のかかる娘の私よりもお兄ちゃんのことを信用しているのも知っている。お母さんがお兄ちゃんにうちの鍵を渡していることも。
お兄ちゃんのうちに来た気配にほっと安堵の息を吐く私が嫌だ。今の私をお兄ちゃんに見られたらきっと私は死んでしまうのに、お兄ちゃんがうちのことを忘れずにいてくれたことも死にそうなくらい嬉しい。滑稽だ。
暫く目を閉じて聞いていた生活音に違和感を覚える。お兄ちゃん一人ではない気配。藩士越えがするとかではない。足音、食器を用意する音。確実に一人ではない何かを感じる。両親が帰ってくるには早すぎる時間なのに、どうして・・・。
ベッドの中で丸くなって、思考を巡らせる。そして、気が付いた真実に自分がここ数日で何度目かの自分が歩いていた地面が揺らぐような衝撃を感じる。それを振り払うようにベッドから飛び跳ねると、パジャマのままリビングに向かった。
「なんで・・・いるの」
多分、今息があがっているのはさっき走ったせいだけじゃない。明らかに、動揺している。私が。こんな女なんかに。
「・・・静来」
私の姿を認めたお兄ちゃんが私に気づかわしげな視線を向ける。お兄ちゃんのことはなんでも知っている。小さい時から一番近い距離で見ていた。どんなタイミングで怒るのかも、悲しむのかも。この視線が何を意味するのかも。当然知っている。分かっているから、悟ってしまった。
「・・・恵那!」
地を這うような声が出た。私は多分今酷い顔をしている。嫌だ。お兄ちゃんの前でこんな顔をしたくないのに我慢が出来ない。
「静来ちゃん・・・」
お兄ちゃんの隣で心配そうな顔で私を見つめる恵那に、私は多分射殺すような顔をしているのだろう。
むかつく。
むかつく。むかつく。むかつく。
恵那がお兄ちゃんの隣に座っていることにも。
恵那が私の表情に心配のスタンスを崩さずに、それでも一切の動揺を見せないことにも。
お兄ちゃんが恵那の側に座っていることにも。
恵那がここに来ることを許してしまった、私の迂闊さにも。
「お兄ちゃんに、何を言ったの・・・!」
「何って・・・」
「話したの!?」
「おい、静来落ち着け・・・」
「お兄ちゃんは黙ってて!・・・恵那!」
「だって・・・静来ちゃん、学校、来ないから・・・私、心配で・・・」
「嘘つき!」
「え・・・?」
「嘘つき、嘘つき!嘘つき!分かって、るよ。恵那が、どういう人かくらい。・・・私を貶めるのが、そんなに、楽しい?」
「貶めるなんて・・・。私そんなつもり・・・」
「じゃあなんでお兄ちゃんに話したの!?・・・誰にも言わないでって・・・言った、のに」
「だって、燐さんって静来ちゃんが一番信用してる人だから。だから、事情を全部知ってる人が近くにいた方が静来ちゃんも安心かと思って」
「嘘・・・嘘、嘘!恵那で、しょう?」
「え・・・?」
恵那の眉がぴくりと動く。
「私を、虐めるように・・・裏で話してたの、恵那でしょう?」
「私がそんなことするわけ・・・」
ショックを隠しきれないといった顔で視線をうろつかせていた恵那は、さっきまでが嘘のように凪いだ私の顔を見て、全てを悟ったようににんまりと笑った。
「・・・いつ、気づいたの?」
「言う必要、ある・・・?」
「必要はないけど、聞きたいな。・・・今後の参考のために」
「・・・放課後のトイレで襲われた、時。最初から、私がここにいるのが、分かっているような・・・そんな動きだった。私は、あの日の放課後空き教室に行くこと、恵那にしか、言って・・・ない!」
「ああ・・・。なるほど、確かにあれは急ぎすぎたね。反省だわ」
「・・・出てってよ」
「ん?」
「出てって・・・出てってよ!今すぐここから出てって!そうしたら・・・深追いはしないで、あげるから・・・!」
くすくすと笑いながら恵那は立ち上がる。あの笑顔を見た瞬間、私は膝から崩れ落ちたい衝動に駆られる。だってあんな醜い顔、見たことがない。
まだ・・・まだ倒れるな。必死に自分を鼓舞する。
「今日はもう帰るよ。いい顔見れたしね」
「はあ・・・?」
「今更・・・気が付いているでしょう?」
「何に・・・」
「私が静来ちゃんを嫌いだって」
「今更・・・」
「何で、とか聞かないの?」
「聞いてほしいの?」
「うん」
「だったら、聞いて、あげる。・・・何で?」
投げやりな返事を返した私と対照的に、恵那はどこまでも楽しそうだ。クスクスと笑いながら私を見た。
「嫌いなのに、理由なんてないわ」
「はあ?」
「初めて会った時から、嫌いだなあって思っていたの。ずっと、その顔を歪ませてあげたいと思っていた。でも、ただ虐めるなんてつまらないじゃない。だから、仲良くなりたいなあって思ったの」
気が付いたら、お兄ちゃんが隣にいた。挑むような視線で恵那を見ている。
「仲良くなって、信用させて、裏切れないくらいに好きになってもらってから傷つけるの、いいなあって」
ぞわりと全身の毛が総毛だつ。目の前の女は、私の理解を超えたところにいる女だ。だから怖い。でも、私と同じ女な気がする。これは多分同族嫌悪でもある。
「今日はいい顔が見れた。・・・だからもう、帰るね」
まるで今日は楽しかったね。また明日も遊ぼう。そう言った後のような晴れやかな笑顔で恵那は告げる。
ひらりと私の横を通り過ぎて家を出て行った、瞬間私は膝から崩れ落ちた。
●葛西 燐から見た、喜咲 静来という女
「静来!」
「触んないで!」
崩れ落ちた静来に手を伸ばした瞬間、絹を裂くような悲鳴を上げられてびくりと手が宙をかく。俺に支えられることのなかった静来の身体は玄関にべしゃりと沈んだ。
荒い息を繰り返す静来は、怯えた顔で虚空を見ていた。静来は何に怯えているのか。椋木恵那か。かつて静来に乱暴したという男たちか。静来を虐めていた部活仲間か。それとも、俺か。
「静来、息、吐いて。ゆっくり。・・・吸って、吐いて。吐いて」
何度か深い呼吸を繰り返しているうちに落ち着いてきたのか、胡乱な瞳をした静来と目があった。
震える静来の手を握ろうと手を伸ばしたら、静来はやっぱり怯えたように手を引いた。
「静来・・・俺が、怖い?」
「違う!」
ばっと俺の方を向いた静来は、思ったよりも俺の顔が近くにあることに驚いたのか、ふいと目を逸らした。
「違う・・・。お兄ちゃんを怖いと思ったことなんて、一度もない」
「じゃあ、なんで・・・」
何で俺に触られるのを避けるのか、とは怖くて聞けなかったが、静来は俺の質問を正しく理解したようだった。
ゆるゆると俺の目を見ると、その眼にぶわりと涙を浮かべた。
「だって・・・私・・・汚い」
「は?」
本気で意味が分からなかった。
静来は俺に責められているかのようにびくりと震えると、首を振った。静来の涙がぽたりと落ちた。
「私、汚いよ。お兄ちゃんに、触ったら、お兄ちゃんまで、汚れちゃう・・・」
何となく、小学生の時にクラスの男子で流行っていた遊びを思い出した。クラスで一人、いじめられっ子を決めてそいつの机や持ち物に触らないようにする。〇〇菌なんて言われて。そいつの持ち物に触らないといけない場面が来たら、みんなで逃げるんだ。触ったら、少しずつ菌が感染していくと宣う、残酷な遊び。俺はその遊びに積極的に関わったことはなかったが、かと言って止めたこともなかった。だって、馬鹿だと思った。そんな遊びをすることも。ターゲットにされる方も。両方迂闊で馬鹿だと思った。
俺は目の前で嗚咽を漏らす小柄な少女を見つめる。
小さな頃から側にいて守ってきた。俺のことをお兄ちゃんと呼んで笑う、泣き虫の少女を。警戒心の強い、猫みたいに周りを威嚇して避けるくせに俺に対してはどうしようもなく無防備だった。俺のことを世界で一番信用しているんだと言葉はなくても態度で示して、身体を預けるその軽くて熱い感覚すら愛しかった。
俺はいじめをするやつもいじめられるやつも馬鹿だと思っていた。思っていたけど、静来は馬鹿じゃない。
汚くもない。
ただ、無垢で、自分を守る方法を知らないだけだ。今まで俺が守ってきたから。静来を推そう脅威から。
気の強そうな同級生がいたら静来を背後に隠したし、きつい口調で問い詰められていたら代わりに答えた。
ずっと、ずっと守ってきた。お互いに思春期を迎えて周りに一緒にいることを揶揄われても平気なふりして側にいた。それほどまでに大切だったから。
情なのか、愛なのか、執着なのか、分からないくらいに。
それを、ふざけんなと叫びたい。俺の幼馴染に。俺の静来に何してんだと静来を傷つけた全員の顔を原型がなくなるくらいに殴りたい衝動に駆られたし、静来を守れなかった自分を殺してやりたいと思った。
「静来」
名前を呼ばれた静来が、びくりと震える。
「静来、抱きしめてもいいか?」
「な、なん、で・・・?」
「静来が、汚くないって、証明するから」
静来の手を取ると、静来はびくりと震えたがさっきみたいに拒否はしなかった。ゆっくりと、小さな体を俺の胸に寄せると静来は猫が甘えるように俺の身体に頬を擦りつけた。着ていたシャツにじんわりと涙が滲んでいく。
「静来は綺麗だよ。・・・ごめんな」
守れなくて、ごめんな。気づけなくて、ごめんな。
そう、言外に伝えると、静来はようやく心得たという顔で泣き笑いを見せた。
●平瀬 走から見た、喜咲 静来という女
「何で、それを俺に教えてくれたの・・・?」
「平瀬さんのこと、何とも思っていないから」
さっきの映画館で飲み切れなかった紅茶を飲みながら、静来ちゃんは語る。
俺だって静来ちゃんのことを好きとかではないが、はっきりと言われると傷つく。
「ええ・・・」
静来ちゃんは興味なさげに窓の外を見ていたが、やがて早く飲み終われという視線を向けてきた。一刻も早く俺と別れたいのがバレバレで、意外と分かりやすい子だよなあ、なんて苦笑してまうしまう。
「ごめんごめん、飲み終わったから。帰ろうか」
「うん」
「家まで送るよ」
「いい、ここで。お兄ちゃん、迎えに来てくれるから」
俺を待っている間、スマホをいじっていたのは燐に連絡を取っていたようだ。仮にも彼氏とのデートの迎えに幼馴染を呼びつける静来ちゃんのことは理解しているが、燐の方も簡単に応じるのはどうなんだ。確かに、二人ともその距離感なら誰か別の人と付き合うのは厳しいだろう。
「静来ちゃんって、燐のこと好きだよね」
燐が来るまで一緒に待っているよと告げると好きにすればとばかりにため息を吐いた静来ちゃんが、初めて俺を顔をじっと見た。ため息を吐かれても、俺と一緒にいる自分を燐に見せなきゃ意味がないだろうに、馬鹿だなあ。
「なんで、そう思うの」
「だってあからさまだもん。俺のこと対して好きでもないのに付き合おうとする目的とか考えたら自然と・・・ねえ?」
多分今自分は静来ちゃんを煽ってしまった。静来ちゃんの目が挑戦的に燃える。
「平瀬さんて、もっと頭悪いと思ってた」
「それ、普通に悪口だからね」
「別に、悪口でもいいでしょ」
「おい」
「だって、私お兄ちゃん以外の人に嫌われても痛くも痒くもないもん」
ぽそりと、小さな声で呟かれた本音を聞いた瞬間、初めて静来ちゃんの素顔を見た気がした。
「燐のことが・・・好きだから?」
「中学生とか、高校生になると、みんな異性を好きになるって恋愛にしか、絡めなくなるの。・・・ほんと、ばっかみたい」
映画館から静来ちゃんの家まで3駅。燐の家は静来ちゃんの家の隣だからやっぱり3駅分だ。この会話は、3駅分で済むような気軽な会話だろうか。だって、多分燐は静来ちゃんが迎えに来てっていったら飛んで来るのに。
「でも・・・私だって、そうなのにね」
「そうって・・・?」
「お兄ちゃんが、他の誰かと一緒にいるだけで気分が悪くなるのは、嫉妬だと思う」
聞かれているわけではない。断定する言い方に、どう反応していいか分からなくなる。
「私、お兄ちゃんの一番近くにいられるなら、何でもいいの。・・・妹でも。友達でも」
俺の相槌なんて求めていない静来ちゃんは低い声で淡々と語る。
「でも、一番じゃないと嫌なの。・・・昔は、妹が、一番お兄ちゃんにとって優先される立ち位置だったから、お兄ちゃんの妹になれるように仕向けた。・・・でも、高校生になると、妹よりも、彼女を優先するのが普通でしょう?」
「そう、だね?一般的には・・・」
「だから、あの時間違えたと思った」
「何を?」
「・・・戦略を。多分、あの日、私はお兄ちゃんの妹としての立場を盤石にするんじゃなくて、ポジションを変えるために、動かなきゃ、いけなかった。・・・他人からどう見えるかを考えながら動くなんて、馬鹿らしいけど」
「だから、俺と付き合ったの?」
静来ちゃんはこくりと頷いた。その眼に俺が写っていないことくらい、俺だって知っている。
「他の人と、付き合ったら、お兄ちゃん、私のこと意識してくれると、思う?」
俺を真っすぐ見つめる瞳は、迷っていた。余計なことを言ったと後悔しているのか、俺の回答を聞くことを怖がっているのか。自分が迷子であることに気が付いて泣きだす寸前の子どもみたいな顔だった。
「そんなの、燐にしか分からないよ」
俺がイエスともノーとも言わなかったせいで、静来ちゃんは出鼻をくじかれた、みたいな顔をした。
「倫理的には、いいとは言えない行為だとは思うけどね」
「うん・・・」
「でも、かっこいいとは思う」
「え・・・」
「ほしいもののために、手段を択ばずにまっすぐに向かっていけるのは長所だし、かっこいいとは思うよ。大部分の人には後ろ指さされるような戦略だったとしてもね」
「そ、そう・・・?」
まんざらでもない、みたいな表情で照れる静来ちゃんの少し後方に見慣れた背の高い男を見つけた。まだこっちには気が付いていないようだった。
だから俺は、この猪みたいな彼女(仮)のために軽い口調で聞いてみた。
「静来ちゃん、燐のこと別に恋愛感情で好きなわけじゃないんだよね」
「うん、好き、だけど。恋愛とは・・・違う、かな」
「燐の一番なら、どんなポジションでもいいんだ」
「う、うん・・・」
「じゃあさ、もし、燐が静来ちゃんのことを、そういう対象として見て、燐が静来ちゃんのことを抱きしめたり、そういうふうに触れていたら、どう思う?」
「分からない・・・分から、ないけど。・・・多分、そんな風に触れられたら、嬉しくて死んじゃう、かも」
少し考え込んだ後で、静来ちゃんは今まで見たことがない笑顔でそう言った。
「へえ、それはまだ静来には早いんじゃない?」
「お兄、ちゃん」
都合よく、最後の言葉だけ聞いた燐が射貫くような視線で俺を見る。多分燐には、俺(彼氏)が静来ちゃん(彼女)に触りたい、みたいな話に聞こえてるんだろうなあ。青筋が浮かんだ顔に、こいつ、こんな怒った顔できるんだなあ、怖いって。なんて他人事見たいに思った。
「早瀬、お前静来に何もしてないだろうなあ」
「何もしてないよ。まだね」
「まだって・・・」
静来ちゃんが呆れたような顔で見る。俺に触られる予定なんてこれまでもこれからもないのに何言ってんだと言いたげな表情だ。その冷めた目やめてくれ。君のためにやってるんだからさ。
「でもさあ、それって燐に許可とるようなことじゃ、なくない?」
燐の眉がピクリと上がる。
「ああ?」
「だって、燐と静来ちゃんの関係って、ただの幼馴染でしょ?そんなの、ちょっと付き合いが長いだけの他人じゃん」
俺の言葉に傷ついたのは、燐か、静来ちゃんか、両方か。
「家族でもない、恋人でもない、他人に俺は俺の彼女との付き合い方を説教されるいわれはないよ」
「・・・ぽっと出の彼氏なんて、俺より他人だろうが」
地を這うような声で燐は言うと、静来ちゃんの手を引いてさっさと歩き始めた。静来ちゃんは俺と燐を困った顔で交互に見つめいたが、やがてい内気そうな顔で燐の背中を見つめながら小走りで手を引かれるままに歩いて行った。
確かに、彼氏彼女には見えないかもなあ。雑踏の中に消えていく二人の後ろ姿を見ながら俺は一人ごちる。
燐が高校生にしたら大人びていて、静来ちゃんが小柄で地味な印象を抱かせる見た目だからだろうか。かっこいい兄と内気な妹、に見える。だから、最初の静来ちゃんの戦略は間違っていなかっただろう。多分、燐があの気弱に見える少女を守るためには妹という免罪符が必要だっただろうし、結果的に今燐は妹枠にいる幼馴染をクラスで一番可愛い女子生徒よりも優先している。
でも、俺に妹を触られるかもと危惧して威嚇したあの顔は、到底妹に対する感情ではない。
燐に触られるだけで死んじゃうと語った静来ちゃんの感情も、ただの兄に向けるものではに。
だってそんなの
「普通に、恋で、愛じゃん」
思わず口から零れ出た恥ずかしい台詞に思わず辺りを見回したが、俺の言葉は誰の耳にも届かないままに泡になって消えたようだった。
●喜咲 静来から見た、葛西 燐という男
「お、お兄ちゃ・・・」
私の手を引いて家まで帰ってきたお兄ちゃんは、私の家ではなくお兄ちゃんの家に私を連れ込むと、玄関のドアを閉めて黙り込んだ。家の中には誰もしないようで、しんと沈黙が降りている。お兄ちゃんが家の中に入らないから私も自然とお兄ちゃんの行動を窺うように玄関で立ち尽くす。
「静来・・・」
しびれを切らした、わけではないのだが思わずお兄ちゃんを呼ぶと、ようやくお兄ちゃんが私の顔を見て、私の名前を呼んだ。お兄ちゃんは、自分が迷子であることを思い出したような、頼りない顔をしていた。その顔に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「中、入ろ・・・?」
小首を傾げてみると、お兄ちゃんは視線をうろうろと彷徨わせた。こんなお兄ちゃんは初めて見る。私は、私胸にほの暗い充足感が広がっていくのを感じた。
「疲れた、し。・・・私、お兄ちゃんの部屋行きたい」
未だうろうろと視線を彷徨わせていたお兄ちゃんは、ようやく覚悟を決めたようにこくりと頷いた。
「静来」
なんだかお兄ちゃんの部屋に、久しぶりに来たような気がした。実際にはさして久しぶりではない。その証拠に前回来た時に雑に部屋の片隅に積まれていた洗濯ものはそのままだし、私のよく知る配置で、お兄ちゃんの匂いで何も変わっていない。でも、ここ数日っで色々ありすぎた。平瀬さんと付き合って、お兄ちゃんと少し疎遠になったような気がして。私が勝手にそう感じただけだし、そうなるように仕向けたのは他でもない私なのだが、お兄ちゃんと心理的に距離が離れているというのは本当にきつかった。お兄ちゃんも久しぶりに部屋に来た(何度も言うが実際にはそんなことはない)私に落ち着かないのか、部屋に入ってからも黙りこくっていたがようやく口を開いた。
「・・・何、」
基本的に私から話題を振ることはないのでお兄ちゃんから話しかけてくれないと私たちの間には沈黙が降りたままなのだが、普段はそれを気まずいと思うことはまずない。だが、今回に限っては私でも少し気まずいと感じるほどの沈黙だったので、お兄ちゃんがやっと声を出してくれて私は幾分かほっとした。
でも、私も緊張しているのか少し固い声が出た。それをお兄ちゃんがどう解釈したのかは不明だが少し傷ついた顔をされた、気がする。
「・・・静来は、平瀬を付き合っているのか」
お兄ちゃんは何をいうのか迷って、迷って、最終的に前回最後に話した時と同じ質問をした。
「この、前、言ったじゃん。・・・そうだよ」
「だよな・・・」
それだけ言うと、お兄ちゃんは再度沈黙した。お兄ちゃんはもじもじと足先を擦りあわせている。乙女か。乙女なお兄ちゃん可愛い、と思ってしまうから私はもう末期だ。
「静来は、平瀬のこと好きなのか・・・?」
意を決したお兄ちゃんは、ようやく聞きたいことを聞けた、というすっきりとした顔をしていた。形勢逆転、お兄ちゃんのターン、という感じだ。
「は・・・?」
「は、って。平瀬のこと、好きじゃなきゃ付き合わないだろ」
「お兄ちゃんは、どう思うの?」
「質問にそうやって返すのは、ずるくないか」
「じゃあ、先に答えて。・・・なんで、そんなこと、聞くの?」
「静来が俺以外の人を好きになるなんて、俺が考えたことなかったから」
はっきりと言われ、明らかに動揺する。心臓がどくどくと脈打っている。なんだ、これは。
傲慢。でもそんなお兄ちゃんの傲慢ささえ、私のものだ。
「私が、お兄ちゃん以外の人、好きになるの、いや・・・?」
縋るような目でお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんはもう怖いものなんてないみたいに私を見ていた。
「嫌だよ」
「なん、で・・・」
「だって、俺が一番、大事にしてきたのに。あの日、静来が自分のことを汚いって言った日。俺は静来は俺も含めてもう男なんて誰も駄目になったんじゃないかと思った」
「うん・・・」
「だから、兄貴でよかったんだ。静来を一番傍で守れるなら。・・・だから納得出来なかった。平瀬でも静来と付き合えるなら俺でもいいじゃんって・・・」
お兄ちゃんの大きくて熱い手が、私の頬を撫でる。でも、撫でられる前から私の身体は沸騰しそうなくらいに熱くて。死んでしまう、と思った。お兄ちゃんに触れられるだけで。だって、お兄ちゃんも私と同じだった。お互いの一番になりたくて距離を図っていた。
「なあ、静来。・・・俺にしない?」
私に甘えるようにすり寄ってきたお兄ちゃんを見て、堕ちた。と思ったのだ。熱に浮かされた部屋で、ただ一つ冷静な私の脳は、予想以上の結果に一人ほくそ笑んでいた。




