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第3話 あなたの知らない花の名を⑤



 その後、校門前で家族が迎えにきた小早川と別れ、俺とみずほ姉ちゃんは二人で下校した。

 坂道を下ってからしばらく歩き、今朝通った桜並木のある河川敷を通り、まばらに歩く同じ高校の生徒たちに混じって俺たちも帰路についていた。


「直の家、今日は家族で焼肉なんだってさ。すっごい高級なお店みたいだよ。私ずっと勘違いしてたんだけど、『松阪牛』って『まつざかぎゅう』じゃなくて『まつざかうし』って読むんだって。衣彦は知ってた?」


「…………」


 路脇の縁石の上を歩きながら、さっきのみずほ姉ちゃんの様子を思い出す。

 みずほ姉ちゃんは俺が美珠姉妹を邪険に扱うと嫌な気持ちになるらしい。

 それもそのはず、みずほ姉ちゃんと美珠姉妹の絆はただの友達関係に留まらない。聞くところによると、かつて下宿の大家である秋子おばさんが認知の病に伏した際、先輩が驚くべき胆力で下宿と伊藤母娘の生活を統治し、伊藤下宿の窮地を最小限に食い止めたそうだ。また、潤花はみずほ姉ちゃんにとって初めてできた年下の友達で、つい先日はその類まれなルックスと無垢な人柄について『もう見てるだけで幸せ』と推しアイドルへのノロケのような賛美に夜な夜な付き合わされたばかりだ。そんな二人を無下にされてみずほ姉ちゃんが苦言を呈するのはある意味必然とも言えるかもしれない。


「衣彦?」


 口数が減ったことを不審に思ったのか、みずほ姉ちゃんが顔を覗き込んできた。


「みずほ姉ちゃん……」


「なに?」


「さっきはごめん。言い過ぎた」


「さっき? ……あ、帰りに話したときの!? やっ、私の方こそごめん。あそこまで言うことなかったよね……あれが衣彦の本心じゃないってことくらいわかってたし、あんなの私がただ……」


「ただ?」


「……何でもない。あの子たちと仲良くして欲しいっていうのは本心だけど、それを衣彦に押し付けるのは、私のわがままだよねって言いたかっただけ」


「いや、その気持ちは大事だし、正しいと思うよ。根本的な問題は、俺がみずほ姉ちゃん以外の女子に対して苦手意識消えないってだけで、あいつら個人の問題は……四? 三割? くらいしか」


「比率多いなぁ」


「これでも他の女子よりはマシだから」


「衣彦とあの子たち三人とも、相性良いと思うけどな。誰と話してても楽しそうだし、一緒にいたらそのうち女の子と話すのも楽しくなってくるんじゃないかな……って、これじゃあまた押し付けになっちゃうね」


 みずほ姉ちゃんはそう言って困ったように微笑んだ。

 俺にはそう思えない。

 俺がハニカム計画に参加したのは秋子おばさんが守ってきた伊藤下宿とみずほ姉ちゃんを守るためで、下宿女子との疑似恋愛の案に乗ったのもその目的に必要だと思ったからだ。自ら決意したからには小早川や美珠姉妹にトラブルがあったときには彼氏役としてフォローしなければならないし、秋子おばさんの代わりに下宿生とみずほ姉ちゃんを笑顔で卒業させるための責任が課されている。

 だから正直、責任感の方が大きくて、一緒にいて楽しいなんて感じる余裕はない。

 ……ん? 待てよ?

 ここで一つ新たな疑問が生じる。

 責任感といえば、みずほ姉ちゃんはハニカム計画に対してどういう気持ちで臨んでいるのだろう。

 先日の話し合いでいの一番に賛成の意を示したのはみずほ姉ちゃんだ。その時にははっきりと「俺を守りたい」と言っていた。

 それはもともとのお人好しな性格由来で、幼馴染みの立場としての心配か。はたまた管理人としての責任感か。もしかしたら、多感な十代女子として目新しいイベントのノリに流されたっていう可能性もある。

 最悪なのは、弟分である俺のあまりにも情けない姿を見て、長い付き合いの惰性で半ば義務感で恋人役を買って出たことだ。だとしたら、俺のせいでみずほ姉ちゃんの貴重な高校生活の時間を無駄に消費させてしまうことになる。それだけはなんとしてでも避けたい。

 二人きりになった今まさに、その本音を聞くチャンスだった。


「みずほ姉ちゃん、変なこと聞いていい?」


「何?」


 きょとんとした顔のみずほ姉ちゃんと目が合う。

 あどけなさを残した無垢な表情。少しの罪も知らないその曇りなき眼差しは、水のように澄んだ彼女の清らかな心を表しているようだった。

 胸が痛んできた。

 これは……せっかくモヤモヤした気持ちが少し晴れてきたのに、俺の泥水のように卑屈な質問によって再びみずほ姉ちゃんの表情を曇らせてしまうのが忍びなくなってきた。


「みずほ姉ちゃんは、俺にまた新しい彼女できた方が安心する?」


「えっ!?」


「そんな驚く?」


「だって……衣彦、彼女欲しいの?」


「いや全然」


「だよねだよね! あ~良かっ……じゃなくてね。私はただ、衣彦に早く元気になって欲しいだけだから。彼女とかそういうのは、その気がないのに無理して作る必要ないと思う。ハニカム計画は衣彦が前向きになるための練習みたいなものなんだし、焦ることはないよ」


「そっか。なるほど……」


 反応を見るに、みずほ姉ちゃんとしてはあくまで長年の友達として俺を励まそうとしてくれているようで、惰性や消極的な姿勢で臨んでいる線はなさそうだ。

 ほっとすると同時に自己嫌悪感がこみ上げてくる。少し前ならこんなことで疑心暗鬼になったりしなかったはずなのに、元カノの裏切り以来みずほ姉ちゃんさえ信じきれなかった自分に嫌気がさす。

 そんな俺を励ますかのように、みずほ姉ちゃんは明るい笑顔で胸元に手を当ながら俺の顔を覗き込んだ。


「衣彦も遠慮しないで、私のこと、どんどん練習台に使っていいからね!!」


 パァン!!

 俺は自らの頬を叩いた。

 

「何で!?」


「や、ついムラっとして……」


「どういうこと!?」


「特に意味はないから気にしないで」


「意味がないのに自分叩く方が怖いよ!」


 言えない、口が裂けても……エロ漫画のセリフを連想してしまったなんて。


「もぉ~何やってるの……」


 そう言ってみずほ姉ちゃんは困惑しながら俺の頬をさすってきた。

 やばっ……顔近っ。吐息がかかる。心臓がバクバクする。何でこの人はこんな無防備に人のほっぺたに触れるんだ。

 こんなに近くで顔を見るのも久しぶりだ。近くで見ると余計に可愛いいなおい。

 目も鼻も、健康的な血色の唇も……


「うぉぉちょぉい! 危ね!!」


「ふゎぁっ! 何!? 何なの!?」


 とっさに我に返った俺は、みずほ姉ちゃんの両手を掴んだまま慌てて万歳した。


「みずほ姉ちゃん!!」


「ひゃい!?」


「危ないところだった……けど、俺は今世界一大丈夫な男だから。安心して」


「い、い、いいから手ぇ離してぇっ!!」


「あ、ごめん」


「……ん」


 みずほ姉ちゃんは顔を赤くして肩で息をしている。俺がいきなり手を掴んだせいでビックリしたんだろう。

 かけがえのない幼馴染みをこんなに怯えさせてしまったというのに、俺はというと鼻の下を伸ばしながらいまだに劣情に囚われている。最低だ。

 確かに、久しぶりに会ったときのみずほ姉ちゃんがちょっと色っぽくなってドキドキすることもあった。寝巻き姿でリビングにいるだけでも気になってつい目で追ってしまうこともある。だが、こんな万年発情期みたいな性欲で女子四人と一緒に暮らしていると知られたら、いくら彼氏彼女(仮)の関係であったとしても、軽蔑されるに決まっている。

 俺は彼氏であっても……否、たとえ彼氏であったとしても、いかなる誘惑にも負けず紳士として接しなければならない。


「衣彦……私も変なこと聞いていい?」


 しばらく沈黙が続いてから、みずほ姉ちゃんがうつむきながら呟いた。


「え? うん……いいけど」


「もし……私が本当の彼氏が欲しいって言ったら……どうする?」


「は!? 欲しいの!?」


「もし! もしもの話!」


「もし……?」


 想像してみる。俺がみずほ姉ちゃんの彼氏として認めて良い相手は幼馴染みの男子三人のみだ。

 それ以外のどこぞの馬の骨がみずほ姉ちゃんにすり寄って来ようものなら……


「……刺す」


「刺しちゃダメだよ!!」


「ははは、刺すって違うよ。みずほ姉ちゃんに変なことしないように釘を刺すって意味だよ。五寸釘にしようかな」

 

「目が笑ってないよ……」


「でもさ、そんな相手いないだろ? もしかして龍兄だったりする?」


「え? えっと……うん。今のところ他に良い人いないし……龍もないよ。友達だもん」


「うーん、それはそれで面白くないな」


「おっ、おもっ──面白く……ない……!?」


「この世の終わりみたいな顔するじゃん」


 みずほ姉ちゃんは顔を青くしてよろめいた。様子がおかしい。もしかしたら何か誤解をしているかもしれない。


「ほら、やっぱ仲間内で良いことあった話聞くのって、楽しいだろ? しかもそれが身内同士ならなおさらさ。俺が彼女できたときだってキャプテンがすげー良いリアクションして騒いでだし、もしみずほ姉ちゃんにもめでたいニュースがあったらきっと──」


「私、“おもしれー女”じゃ、ない……?」


「みずほ姉ちゃん? 聞いてる?」


「待って!! ちょっと待って!!」


「あっ、う、うん……」


「嘘……これが直の言ってた“駆け引き”……? 思ってたのとなんか全然違うし私何か間違った? このままじゃ私一生つまんねー女で雑なメシ炊き……!」


 えぇ……独り言怖っ……。

 ぶつぶつと小声で何を言ってるのか全然聞き取れない。

 季節の変わり目だから心の調子が悪いのかもしれない。俺はみずほ姉ちゃんの顔色を窺おうとちらりと顔を見ると、みずほ姉ちゃんは突然頭を抱えてしゃがみ込んだ。


「そんなのイヤーーー!!」


「うぉおビックリした! 何!? どうした!?」


「衣彦っ!!」


「はいぃ!!」


 みずほ姉ちゃんはすぐさま立ち上がり、並々ならぬ眼光で俺を射抜いた。その鬼気迫った形相に思わず背筋が伸びる。


「明日のデート!! 私! がんばるから!!」


「えっ!? お、おう!! 俺も実は百八パターンほどデートプラン考えてきたから期待してて!!」


「それもう全部行っちゃおう!! 一昨年貯めた定期積立、解約してくる!!」


「待って! それはやめて!!」


 なんだか知らないがみずほ姉ちゃんのやる気にスイッチが入ったようだ。

 反射的に俺も明日への意気込みを二百倍ほど盛ってアピールしたが、それを上回るパッションが返ってきた。

 一体どうしたんだ今日のみずほ姉ちゃんは。二度目の入学式を迎えてハイになっているのか。春の陽気にやられたのか。


「と、とりあえず俺、部屋で明日の準備してるから、ご飯食べたら打ち合わせしよう」


「うん。今日の晩御飯、特別にウナギにするから、みんなには内緒だからね……!」


 ふんす、と再び気合を入れて両拳を握るみずほ姉ちゃん。

 俺もまた歯を食いしばりながら込み上がってくる色情を抑えた。漫画だったら、固く握り締めた拳から血が出ているほど堪えた。

 みずほ姉ちゃん……やっぱりその無防備さ、思春期の男子には危険だよ……。



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