プロローグ
伊藤下宿の住人たちは、どこにいたってかしましい。
笑い声がでかい。そそっかしい。お節介が過ぎる。ちょろちょろどこかへ行ったと思ったら、いらんトラブルを起こして帰ってくる。
気分は動物園に閉じ込められた飼育員だ。
あのツラの良い珍獣たちにとって古賀衣彦という人間は格好のオモチャらしく、朝から晩まで引っきりなしに続くウザ絡みと過干渉のおかげでプライベートの時間なんてほぼ皆無。そんな切実な訴えに対し返ってきた答えは「可愛いくてごめん」である。話にならない。そんな戯言で許されると思っているのが大正解だから余計に腹が立つ。
今日も今日とて事件は起きた。
「ごめんね古賀くん。その傷もし治らなかったら、責任取ってうちの潤花お嫁に送り出すから」
「だってさ~衣彦♡ どうしよっか?♡」
「黄泉に送り出された方がマシ」
下宿のみんなで行った墓参りの最中、優希先輩がいきなり木に登り始め、落ちた。
シブイロカヤキリというキリギリスの仲間を捕まえようとしたらしい。
間一髪のところで俺と潤花が受け止めたから良かったものの、その拍子に先輩の踵が俺の顔面に直撃し、右瞼がぼっこりと腫れてしまった。濡れたハンカチで冷やしている今もズキズキ痛む。墓場で先輩が直翅目に夢中になっている傍ら、その後輩は悲しい現実を直視させられた挙句あわや虫の息。なんて理不尽だ。
「でも、打撲だけで済んで良かったよ。私が眼底骨折させた子たちみんな、眼球陥没したり視神経傷付いたりしてて、しばらく視界が二重になってたんだって」
「……貴重な体験談どうも」
五人で帰りの駅へと向かう道中、血生臭い解説付きで腫れた目を診てくれたのは今年俺と同期で宿入りした美珠潤花だ。
すらっとしたスタイルと腰まで真っ直ぐに伸びた長髪。大きな杏眼に目鼻立ちが整ったそのビジュアルは見目麗しい美人で、芸術品のような気品とオーラがある。実態はそんな高尚なものとはほど遠いお調子者の蛮族なので、見た目に騙された人間は一度その本性を知ると幻想はあえなく打ち砕かれるだろう。
対して、俺に踵落としをキメた姉の優希先輩はというと、謝りこそすれど反省した様子はまるでない。
「ノリで入籍してみたらいいじゃん! 二人お似合いじゃんハッピーじゃん!」
最年少みたいな最年長である。
姉の方も黙っていれば可愛い見た目なのに、言動は先の通り、超が付くほどマイペースな虫マニアだ。
ゆるふわなショートボブにくりっとしたつぶらな瞳。(こちらも黙ってさえいれば)凛とした雰囲気の妹とは見た目も背格好も正反対で、幼さの残る顔つきは無邪気で眩しい。
ポジティブに捉えれば目の離せないおもしれー女と言えなくもないが、実態はまるで二足歩行を始めたばかりの子どもだ。わんぱくが過ぎて心労が絶えない。
「い、言っておくけど優希も潤花も! いくら付き合ってるからって、卒業するまでそういうのはルール違反だからね⁉ 私たちまだ学生だし、まして重婚だなんて……!」
「みずほちゃん、優希ちゃんそこまで言ってないよ……!」
横並びで歩くのは、幼馴染みの伊藤みずほと下宿の同期である小早川真由だ。
みずほ姉ちゃんは子供の頃からの付き合いで、俺にとって第二の姉のような存在である。ウェーブがかった亜麻色のロングヘアにくっきりとした濃いめの眉。ふっくらと丸みのある頬の薄いそばかすが印象的で、ころころと変わる感情表現豊かな表情は誰にとっても親しみやすい愛嬌があった。
対して小早川は鼻先まで伸びた長い前髪の下に瓶底メガネをかけ、つばの広い帽子を目深に被るという徹底的に人目を避けた格好をしている。今日の道中では不慣れな帽子の視界でたびたび足元がおぼつかなくなっていたらしく、その都度みずほ姉ちゃんからスイカ割りの指示みたいな誘導を受けていた。
「衣彦くん前見える? 手、繋ぐ?」
「いや大丈夫だ小早川。見えるから。お先真っ暗な未来がバッチリ」
「でも衣彦、さっきより腫れてきてる……」
隣から小早川のみずほ姉ちゃんが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
二人とも顔が近い。
無防備な距離感にドキッとしてしまう。
「みずほ姉ちゃんも心配し過ぎ。これくらいなんてことない」
「そうかなぁ。衣彦、いっつも身体張ってケガするから心配だよ」
「それは諸悪の根源に言って欲しい」
「優希、もう衣彦に心配かけちゃダメだよ?」
「はーい。真由ちゃん、二人で反省会だね」
「私も……⁉」
「違うの真由。全部うちのお姉ちゃんが可愛いから悪いの。見てこの可愛さ」
「ジャキーン! ウデムシの捕食ピース!」
「わっ、ほんとに可愛い」
「……助けなきゃ良かった」
「とか言ってけど、あの状況でお姉ちゃんのピンチに気付くところはさすがだよ」
「そうだよね……気付いたら衣彦くん、すごい速さで優希ちゃんのところまで走ってたからビックリしちゃった」
「お前ら勘違いするなよ。優希先輩を倒すのは重力じゃなくてこの俺だから助けてやったんだ」
「私いつのまにか古賀くんのライバルになってた」
「もう……言っても聞かないんだから」
「みーちゃん、そんな生優しい言い方じゃダメだよ。彼女なんだから、もっと強引でワガママにいかないと。ぐわっと」
「ぐ、ぐわっと? こう?」
「ふぁっ⁉」
いきなり手を両手で包み込まれ、全身の力が抜けた。
「お、お願いだから……彼女の言うことくらい聞いてっ」
耳まで真っ赤にしながら、みずほ姉ちゃんが上目遣いで訴えてきた。
あ、温か……ダメだ、死ぬ。このままじゃドキドキし過ぎて心臓が内側から爆散する。
俺は慌ててみずほ姉ちゃんを引き離し、後ずさった。
「だぁっ! もう! とにかく、俺だって好きであんなことしたわけじゃ──って何そのむすっとした顔! 俺悪くないよね⁉」
「別にぃ~」
出た。
こういうときの『別に』は、全然『別に』なんて思っていない。古事記にもそう書いてある気がする。
「そうやってみんなに優しくしてたら、衣彦の身が持たないんだからね」
「別に優しくはないって。普通だし。龍兄たちだって、俺と同じ状況だったら絶対そうしてる」
「みんなは衣彦みたいに何人も彼女なんていないもん」
「じ、事情があるんだから仕方ないだろ! っていうか、みずほ姉ちゃんだって当事者じゃんか!」
「みずほちゃん、きっと衣彦くんに、自分のことを大事にして欲しいんだと思う」
「そんなことないぞ? 俺はいつだって自分が一番可愛い」
「はいっ。私はむしろ、古賀くんにはスパダリとして胸を張って欲しいなっ。本当に大切なものは傷付かずして守れないものなのか……今まさに優しさとリスクの特異点に立ってる古賀くんの『ハニカム計画』にはこれから期待しかないよ」
「誇らしいことは何もしてないし事の発端がなんかおこがましいこと言ってるし、ついでにそのスパダリって呼び方も不愉快なんで、全部やめてくれません?」
「潤花ちゃん、スパダリって何?」
「スーパーダーリンって言って、何でもできる完璧な彼氏って意味」
「そうなんだ……確かに衣彦くん、スパダリ」
「しッ!」
「うひゃう! ごめん……!」
「そんな怒ることないじゃーん。みんな衣彦のこと褒めてるんだよ?」
「嫌味以外に聞こえないし、そんなの解釈違いだ。俺の性根なんてネトゲで泣いて詫びる対戦相手を冷酷非情にぶちのめす野蛮人だぞ」
むっとして反論すると、下宿生女子たちはそれぞれ呆れ顔や苦笑い、果ては冷笑混じりの視線を俺に向けてこう言った。
「イヤイヤ期?」
「いつもの衣彦くんだね」
「泣いて詫びる相手なんてネットにいないよ」
「子どもや動物が出てる番組見たらすぐ泣くくせに」
「それとこれは関係ないでしょうがよぉぉ‼」
俺は激怒した。
必ず、この冷酷非情の下宿生たちを除かねばならぬと決意した。
「もういい! 俺はもうあんたらが危ない目にあっても一切助けないからな。たとえ木から落ちようが川に落ちようが知らんぷりだ」
「あーあ、衣彦が拗ねちゃった」
「古賀くんごめ~ん。次は気を付けるからぁ~」
「いーや決めたね。俺はもう二度と面倒事に関わらない。いつも怪しい虫やオバケの盾にされる俺の身になって、全員恐怖に打ち震えればいいんだ」
「それはそれでイヤ」
「何でだよ! みずほ姉ちゃんから言ったくせに!」
「だって……」
「だからね、みーちゃんも私たちも、衣彦にそういうことをやめて欲しいわけじゃなくて、ずっと『無理をしないで』って言ってるだけだよ」
「う~……潤花が私の言いたいこと全部言ってくれた」
「別に無理なんかしてないし」
「それならそれでいいよ。でもね衣彦。無理をしないにしても、相互扶助の理念だけは忘れないでいて欲しいの。『計画』のルールだからっていう理由だけじゃなくて、それを忘れちゃったら、みーちゃんのお母さんが大事にしてきたものまで否定することになるでしょ?」
「だったら俺にどうしろって言うんだよ」
「難しいことじゃないよ。衣彦は今まで通り人が──」
「人が倒れてる」
「そう、人が──え? 人?」
「えっ、えっ? 何? 優希、どこ?」
「あそこ。あの橋の手前」
「わ、ほんとだ……」
「えー! 大変!」
「みずほ姉ちゃん、ちょっと待っ……小早川も! おい! 二人とも待てって!」
二人に続いて慌てて駆け寄ると、カーキのコートを着た髪の長い女性は、地べたに座り込んで膝を抱えたままうずくまり、反応がない。
「大丈夫ですか⁉ ……て、え⁉ 比呂美お姉ちゃん⁉」
「あー、似てると思ったらやっぱりかぁ」
「みーちゃんの従姉の人だっけ? 私初めて会うかも」
「寝てるのかな……動かないけど」
「っていうか、この臭い……」
「……酒くせぇ」
ただの酔っ払いだった。
近くまで寄ると鼻をつく酒気が辺りに漂っており、その原因は『ストロング』と書かれた缶チューハイの空き缶だった。今は休日の真っ昼間。酒の臭いだけではなく、ダメな大人の臭いまでプンプンした。
「……ぎぼちわるい」
「お姉ちゃん大丈夫⁉ 動ける⁉ こんなところで寝ちゃ風邪引いちゃうよ⁉」
「んぅ~? みじゅほ? 何でいるろぉ?」
「さっき下宿のみんなでお母さんのお墓参り行ってきたんだよ! お姉ちゃんもお墓参り来たの⁉」
「うん、来たのぉ……来たんぁけどねぇ? 昨夜ねぇ? モモさんとこで飲んでぇ、秋子お姉ちゃんに献杯ってことでぇ、朝まで飲んでぇ……っぷ……そっからねぇ、うち帰っておとぉさんに怒られれぇ、そっからねぇ? 記憶ないにょぉ」
「あ、あの、私みずほちゃんじゃありません……!」
「ちょっとお姉ちゃん⁉ 本当に大丈夫⁉」
「お酒って怖いんだね」
「ねー。お酒混ぜた蜜飲ませたときのクワガタみたい」
「そんな実験してる優希の方が怖いよ!」
「わ、私お水買ってくる……!」
「待って。俺も行く」
小早川が帽子を目深に被り直して踵を返そうとしたので、俺もついて行くことにする。
一人にして何か起こったら大変だ。それに小早川がひた隠しにするその素顔をこの人に知られたら何を言われるかわかったもんじゃない。
「あるぇ~⁉ 知ってる! わらし、キミ知ってるよぉ!」
気付かれた。最悪。
数回しか会ったことがないのにしっかり憶えられていた。
「人違いじゃないですかね」
「んなことないよぉ! みずほのいいひとだもん! 何で目ぇ腫れてんのぉ⁉」
「わーちょっとお姉ちゃん! 衣彦は確かに良い人だけど! そうじゃないから!」
「みずほのことよろしくねぇ~! この子ね、すっごく優しい子らの! わらしずっと子供の頃からこの子のこと見てきたけろ、こんなに良い子見たことない! 下宿の手伝いもぉ、お姉ちゃんの介護もぉ、ほんっと一生懸命でぇ……っぷ……!」
「…………あぁそう」
こめかみの青筋がうずき、自然と眉間に力が入る。
鼻で大きく深呼吸し、平静を保つように努めた。
落ち着け。酔っ払いの戯言だ。
こんな日に揉め事を起こすわけにはいかない。
「と、とにかくお姉ちゃん、動ける⁉ こんなところじゃなくて、どこか座れるところでちょっと休も! ね⁉」
「ぅぇ~、でも、お墓ぁいり……」
「お姉さん、立てます? ちょっと移動しましょっか? 私の肩掴まってくださいね。ゆっくり」
さすがに見かねたのか、潤花が比呂美さんのそばにしゃがみ込み、移動を促した。そのときさり気なく俺の腕を掴む手を離したのだが、やけに手際が良いのは脳震盪を起こした人間を介助してきたからだろうか。
「らいじょぶらいじょぶ……ってぇ、あなたすっごいキレイねぇ! 私の自キャラみたい!」
「あーあははは、毎度ありがとうございますー、立てますー?」
「ごめんね潤花! 私反対側持つから」
「いいよみずほ姉ちゃん。俺やるから」
「みんぁごぇんねぇ……出来損ないの社会不適合者が迷惑かけてさぁ……」
「自覚あったんですね」
「ちょ、ちょっと衣彦! お姉ちゃん情緒不安定なんだから、そんなこと言ったら泣いちゃうよ……!」
「あーっとっと、お姉さん。そこ、お触り禁止です。うちはお触り禁止ですよー」
「あっひゃひゃひゃっ! ごべぇーん!」
「ウル変われ。川に捨ててくる」
「ダメー!」
「うんうん、これぞ伊藤下宿って感じの光景だね……優しい世界」
「そ、そうは見えないよ……」
「とりあえずどうしよう……近くにファミレスみたいなところあったっけ……」
「──あぇ。お父さん」
「え? 叔父さん?」
「…………」
俺たちは比呂美さんの視線を追う。
そこには、険しい顔つきでこちらを睨んでいる黒髪の男がいた。
年は四十代後半くらい。上下黒のジャケットとパンツ姿で、その手には小さな花束が握られている。
顔立ちはどこか見覚えのある面影があり、状況から判断して目の前の男が誰なのかすぐにわかった。
会うのは初めてだが、俺はその人のことを知っている。
「お、叔父さん……これは、その……」
やはりそうだ。
秋子おばさんの死後、みずほ姉ちゃんの養父となった叔父の伊藤孝明だ。
みずほ姉ちゃんがしどろもどろに説明をしようとするが、男性は怒りの形相を浮かべながらつかつかとこちらへ近付いてくる。視線の先には、比呂美さんがいる。
「ちょっと一旦、落ちつきましょう」
とっさに俺がその前に立ち塞がった。
そうでもしなければ堅く握られたその手は実の娘に向けて振りかぶってしまいそうだった。
「邪魔だ……!」
「気持ちはわかりますけど、すみません。どけません」
孝明氏は舌打ちをして忌々しそうに俺を睨むが、俺の腫れ上がった目に気付いたのか、目が合うとわずかに動揺が見えた。
後ろでは潤花が比呂美さんを庇うように抱き留めている。
「比呂美、お前はもう帰れ」
「えぇ~? まらお墓ぁいり終わってらぁい」
「…………」
「叔父さん……お姉ちゃん、ちょっと具合悪いみたいだから、今ちょっと休ませてあげようと思って……」
「放っておけ。自業自得だ」
「でも、お母さんに会いに来てくれたから」
「この体たらくでか?」
「それは……」
傍から見ても自業自得なだけに、擁護は難しい。
みずほ姉ちゃんなりに比呂美さんを庇おうとしている気持ちは伝わるが、言葉が出てこないようだった。
「比呂美さん、昔からよく下宿に来て、よく仏壇に線香上げに来るんです」
そんなみずほ姉ちゃんに助け船を出したのは、優希先輩だった。
「話を聞いたら、昨夜も秋子さんの後輩さんのところで飲んでたみたいですし……やっぱり、比呂美さんは秋子さんのことが大好きで、それで、会えなくて寂しいんだと思います。飲み過ぎちゃったのも、それを紛らわすためかもしれませんし……だから、少しだけ娘さんの気持ちを汲んでくれたら、比呂美さんの友人としてありがたいです」
親子ほどの歳の差があるであろう男が憤慨しているにもかかわらず、少しもひるんだ様子もない。大した胆力だ。
ついさっき木登りをしてはしゃいでいた人物とは思えない、冷静で落ち着いた口調だった。
「どうでもいい」
孝明氏はため息を吐いて、かけていた眼鏡を直した。
「こいつを、あいつの下宿に通わせたのも間違いだった。大学には入れても、まともな定職にも就かずこんな恥を晒すくらいなら、最初から関わらせなければならなかった」
「……ごめんてぇ」
「みずほ」
「えっ、あ、はい」
「休学していた分、勉強をおろそかにするなよ」
「うん……わかってる」
「下宿のことなんて二の次でいい。でないと取り返しのつかない失敗をすることになる。お前の母親のように」
「っ……!」
「その心配はないですよ」
「何?」
「みずほさんは、毎日俺たちの食事を作って、下宿の家事や経理を全部一人でこなしてるのに、学校の成績はいつも平均以上なんです。それに、そのことで機嫌を悪くしたり愚痴を言ったりすることだって、今まで一度もありません。これってすごいことじゃないですか? 勉強を頑張りながら、下宿のことも二の次にしてない。俺はそんなみずほ姉ちゃんのこと……友達としても、家族としても、誇らしいと思いますよ」
「みーちゃんのご飯、いっつも美味しいよね」
「うん、お店開けそうなくらいだよね。学校でも先生たちから評判良いんだよ。『美珠も見習え』ってよく言われる」
「あの!」
美珠姉妹が口々に賛同する中、小早川も振り絞るような声を上げた。
「みずほちゃんは本当に、頑張ってます……! だから……もうたくさん頑張ってるみずほちゃんのこと、『頑張れ』って言うんじゃなくて……もっと褒めてあげてください」
「真由……みんな……」
孝明氏は依然として表情を固くしたまま、深いため息を吐く。
俺たちのフォローにも納得していないようだ。
「まるでこっちが悪者だな」
「おじさん、ごめんね。私、勉強頑張るから……だから、下宿のことも、同じくらい大事にしたい」
「あ~、まぁまぁまぁ。みんな、ね。とうさんも、少年も、こんな日にギスギスすんのやめよ? ね? 天国の秋子お姉ちゃん、泣いちゃうよ?」
元はと言えばあんたが酔い潰れているせいだろう。
父親も同じことを思っているのか、仲裁をしようとしている娘をまるでゴミを見るような目つきで見ている。
「いや~本当に、少年。見ない間にすっかり大きくなったんだね。お姉さんは嬉しいよ」
「はぁ……」
至近距離にいると余計に酒臭いな。
ふらふらと力ない足取りで近付いてくる○○さんに対し、俺は本能的に一歩後ろ足を引いた。
「ありがとう。みずほと秋子お姉ちゃんのこと、守っ……おっぷ」
吐瀉物。
「ぷぼふろぉっっろろろろろろ」
「ああああああああああ」
ビチャビチャビチャビチャビチャ。
「きゃーーーーーー‼」
「わーーー! ちょ、衣彦、大丈夫⁉」
酔っ払いから盛大にゲロを吐き出された。
鼻をつく強烈な刺激臭。
ぬるく、どろりとした最悪の感触。
血の色にも似た赤い吐瀉物が、三万もした俺のゴ〇テックスのジャケットにぶちまけられる。
「この、バカ……」
「あっ、お、お姉さん……! 血……⁉」
「あーそれ多分赤ワインかな。チーズっぽいのもある」
「最悪……」
「ゔぇほっ! ゔぇほっ! ごべ……っぷ……! るろぇっ」
「お姉ちゃん! 大丈夫⁉」
「ぁぃじょぶぅ」
「衣彦! 服、早く拭かないと……!」
「ストップ! みずほ姉ちゃん、俺今ばっちいから寄らない方がいい!」
「でも──」
ゲロまみれの俺にみずほ姉ちゃんが手を差し伸べてきたその時、
「逃げろーーーーーーーー‼」
優希先輩がみずほ姉ちゃんの手を掴み、走り出した。
その勢いで動線上にいた小早川の手も引っ張り、半ば二人を引っぱるように強引に連行する。
「へ⁉ ちょ、優希⁉ は、待っ……離してぇ!」
「ゴーゴーゴーゴー‼」
「ゆ、優希ちゃん⁉ 何で私も……‼」
「みんなで走れば、怖くないから‼」
「意味わかんないよ!」
「行こ! 衣彦も!」
「っ……んでだよ!」
躊躇いなく俺の腕を掴んできた潤花に引かれ、俺も三人の後ろをついて駆け出した。
ここで逃げる意味もわからないが、俺一人取り残されたところで仕方ない。
孝明氏は驚くような、恨めしいような視線をこちらに向けたまま立ち尽くし、比呂美さんは何が面白いのか、能天気に笑い声をあげながら腹を抱えていた。
「みんな速ーい! 私体力もたない!」
「みーちゃん大丈夫! 駅まであとちょっとだから!」
「田舎のちょっとは当てにならないよー!」
数十メートルは走った頃だろうか。
橋のふもとに差し掛かったとき、小早川の帽子がふわりと飛んだ。
風で運ばれた帽子は一度大きく舞い上がり、ゆりかごのように揺れながら、頭上から橋の外側へと落ちて行く。
「っ!」
反射的に身体が動いた。
地面を蹴り、欄干に飛び乗りながら目の前に落ちてくる帽子をキャッチする。
間に合った──と思ったのも束の間、飛び乗った慣性を完全に殺すことはできず、欄干の外に引っ張られるような形で大きく体勢が崩れた。
ずるり、と軸足が滑り、足元から重力が消えていく。
落ちる。
浮遊感とともに、視界が急降下するや否や、
「衣彦‼」
遠くで誰か悲鳴が聞こえると同時に、ガクンと衝撃が肩にはしった。
強い力で手首を握られ、俺は腕を伸ばし切った状態でぶら下がっていた。
この状況を咄嗟の判断で反応し、男の体重を腕一本で難なく支えられるような超人は、一人しか思い当たらない。
潤花だ。
「やっぱり私がいなきゃダメだね、ダーリン♡」
「お前、俺がゲロ吐かれたとき逃げたよな⁉」
皮肉混じりに言うと、潤花はいたずらっぽく笑った。
余裕の表情だ。さらさらした長い髪が風でなびき、幻想的な光を纏っていた。
後ろでみずほ姉ちゃんと小早川がわぁわぁと騒いでいるのが聞こえたが、潤花の声だけが凛響く。
「ねぇ、続けなよ。人助け」
「こんなときに何言ってんだ! いいから手離せ!」
川の規模からして、最悪この高さから落ちても泳いで何とかなる。それよりも問題なのは潤花の腕の負荷だ。いくら超人的な身体能力といえ、無理をすれば脱臼の可能性だって否めない。
だが、潤花は静かに首を振った。
「衣彦が危ない目に遭ったときは、私がこうやって助けるからさ」
「しなくていい! 危ない真似すんなって言ってるだろ!」
「私、恋人らしいことなんて何もしてあげられないから」
「⁉」
潤花が何のことについて言及しているのか、すぐにわかった。
『ハニカム計画』。
俺たちの特殊な関係性を示す、ある計画のことだ。
「これくらいしかしてあげられないから。だから衣彦のこと、私が守るの」
「だからって、ウルが──」
一瞬の焦燥感。
それも束の間、
「潤花! 肩にヤガタアリクモ付いてる!」
「えっ⁉ やだぁっ‼」
先輩の一言によって、俺の手首を握っていたその手はパッと離れ、再び浮遊感が俺を襲った。
「あっ」
「あ、ごめ──」
肺が浮き、ドクンと心臓が跳ねる。
ふいに脳裏を過ぎったのは、さっきまでいた恩師の墓前。
ほかのどの墓よりも多くの花が供えられていた。
──さっき、言ってやれば良かったな。
目の前の光景がスローモーションのようにゆっくり流れていく中、遠くから誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
大丈夫だ。
俺は死なない。
お前らを無事に卒業させるまで。
秋子おばさんの意思を継いで、この計画を成し遂げてみせるまで。
『ハニカム計画』。
ルールその一。当計画は相互扶助の理念のもと、主体者である古賀衣彦(以下、甲)が、同じく主体者である伊藤みずほ、美珠優希、美珠潤花、小早川真由の四名(以下、乙)各自と疑似恋愛関係を結び、男女共生の心得を学ぶことを目的とする。
ルールその二。この関係は下宿生以外には秘密にする。
ルールその三。甲は乙と定期的に恋人らしいデートやスキンシップをする。
ルールその四。計画の期間は甲か乙のどちらかの卒業まで。もしくは、甲か乙に本気で好きな人ができるまで。なお、後者の条件を満たした場合、期間内であったとしても疑似恋愛関係は解消する。
ルールその五。期間中のルール追加、変更等については参加者同士で協議を行い、全員の同意をもってその定めを決定する。
浮遊感に身を委ねながら、俺は頭上に向けてピースサインを掲げる。
誰一人取り残さない。
俺たちは、友達で家族。
そして恋人。
目指すところは、天下無敵のハッピーエンド。