冷静な判断
ここは先程まで文化交流祭で賑わっていたのと同じ学園なのだろうか。
追い立てられ、隠れ、時にユルゲンとソフィアに護られながらリアムはまばたきを忘れたまぶたを瞬かせた。
自分にとって好ましくなかった環境だった過去ですら、学園自体は平和な顔を作っていた。
ここは子供達のための穏やかな箱庭だったのだ。だが、今は外からもたらされた血と死の匂いで満ちている。
ここまで知った顔の死体がないことだけがリアムにとって幸いだった。学園内に転がる死体はオリヴェルかライモンドの仕事だ。
彼らはきっちりと敵を減らしていて、そのおかげでリアム達は生き延びる可能性をいまだにその手の内に掴んでいる。
「アネット! しっかりなさい!」
やや後方からソフィアの叱咤する声が耳に入ってリアムは二人に視線を投げ、足を止めた。
常に淑女らしく穏やかな微笑みをたたえているアネットの顔は今や強張り、唇は青ざめて息が荒い。
ソフィアやレジーナと鍛錬をして過ごしていたせいで忘れていたが、普通の令嬢はこんなに長く走ることはないのだ。
「ごめん! 少しペースを落とそう」
「もうし、わけございません。置いて、いって……殿下たち三人でお逃げください」
「寝言はここから逃げ切れてからお言いなさい! あなた一人を置いていけない!」
「でも、もう、走れ、ません……」
「走れないじゃない! 走るのよ!」
常になく切羽詰まったソフィアの声の強さに、アネットは唇を強く噛み締めて頷き、よろよろと足を動かし始めた。
「まだ少し離れているが敵影が見えた。ソフィア、先行してくれ! 俺がしんがりを務める!」
ユルゲンの声に応じてソフィアを先頭にリアム、アネットの順に並んで細道に入る。
両側を生垣と壁に挟まれた狭い道だ。
そこでアネットが上がらなくなった足を生垣の木の根に取られて、派手に転んだ。
「きゃっ!」
「早くお立ちなさい!」
「あ……っ! その……痛くて、無理です……」
青白かった顔をさらに青ざめさせて、一筋涙をこぼしたアネットは足首を見せた。
リアム達が注視したほんのわずかの時間で歩けないと判断できるほど腫れあがり、細く嫋やかなくびれが消えて、すねと同じ太さに変わっていく。
「ユルゲン!」
「言われなくても俺が背負って逃げます!」
だが、アネットはへたり込んだまま首を振った。
「置いていってください。殿下。私がこの身をもって、ここで幾許かの時間を作ります。お三方でお逃げください」
「 ダメ! 絶対にダメよ!」
「ソフィア。いいんです」
「あなたは分かってない! 戦場で穢される者達がどんな目に遭うのか! 知らないからそんなのんきなことを言えるのよ!」
「ソフィア、ならばなおさらです。足手まといは捨てていかないと。あなたをそんな目に遭わせるわけにはいきません」
めずらしくひどく取り乱したソフィアをアネットが静かな声で諭す。だがソフィアは泣きそうな顔で首を振った。
「実際にそうなったら絶対にあなたは後悔する! 戦場で歪んだ雄の支配欲と加害欲をその身ひとつで受け止める事になるの! そうされた人間はほぼその場で死ぬし、生存者は死んだ方がましだったと長年苦しむ。だから、足が砕けても逃げるのよ!」
嫌味も棘も毒もない必死さで、ソフィアはアネットに言い募った。
ベルニカはこの国の最前線でいまだにノーザンバラ帝国と刃を交えている。
悲惨な現実に裏打ちされた説得力が重い。
だが、アネットはソフィアの言葉からそれを察しているに違いないのに一歩も譲らなかった。
立ちあがろうというそぶりも見せず、かといってユルゲンに体を預けることもせず、ソフィアにではなくあえて静かな声で自分に声をかける。
「殿下、私を置いてお逃げください。あなたはちゃんと冷静な判断が出来るでしょう? 私は殿下達が気にかける必要のない身分になるとご存知なのですから」
「どういうこと!? リアム」
「文化交流祭の前に、アネットから、ロスカスタニエ侯爵とノーザンバラ帝国が通じた証拠を受け取っている。処分がどれほど穏当でも侯爵位を維持することは難しいだろう」
手短に苦くその事をソフィアに告げて、リアムはアネットからその手紙を渡された時のことを思い返した。
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