願い事は慎重に
「はぁ……なんてついていないんだろう……」
マックスは溜息交じりにそう呟いて、背を丸めながら道を歩いていた。
これといって特徴のない男である。
しいて言うなら彼は運が悪かった。
性格は悪くないはずだ。友達はいる。
彼女は欲しい。けれど、生憎とできそうにない。
不細工ではないと思う。友人たちはなんでお前に彼女ができないんだろうな、お前いいやつなのに。と言ってくれるし、実際女友達なんかを紹介してくれたりもした。
紹介された女の子は可愛かったけど、お互いに恋に落ちるという程ではなかった。今でも良いお友達というやつである。
彼女ができない原因は何となくわかっている。
家が貧乏なのだ。
何もお金がない事を彼女ができない理由として棚上げしているわけではない。
あまりにも貧乏すぎてマックスはバイトを掛け持ちしている。つまりは、彼女を作る時間もなければ、もし幸運にも彼女ができたとしてもデートをする時間すらないのだ。
そう考えると、欲しくてもできない現状はある意味でまだマシかな、と思えるのだ。
だって既に彼女がいたとしても、間違いなくデートする時間はないし、ちょっと会って話をする、なんていう余裕すらないのだ。
下手すれば数か月単位で会わないまま、
「わたしたちって何のために付き合ってるの?」
なんて言われて破局するのが目に見えていた。
そんな想像をしてしまえば、いなくて良かった、と強がりであっても思うのだ。
マックスの家が貧乏なのは、色々な不幸が重なった結果である。
マックスの父は家出同然で逃げてきたのだという。
父の家族――マックスからすれば祖父母やその他の親戚――は、どうしようもないロクデナシで、借金に借金を重ねるような連中だったのだとか。
父はその環境に嫌気がさして、着の身着のまま逃げるように家を出て、そうして行き倒れ寸前で助けられた。
助けた相手は父にそれなりに同情し、父の年齢は既に働けるものだったので仕事を紹介した。
父はあんなロクデナシ共と同じにはならないぞ、と決意して一生懸命働いた。
そうして父を助けてくれた恩人が紹介した相手が、マックスの母である。
二人はお互いがお互いに一目惚れとやらをしたようであっという間に結婚。
そうしてマックスが生まれたというわけだ。
これだけなら貧乏要素はないように思える。
父の親類が金をたかりにやってきた、とかそういうのは今まで一度もなかった。
言葉を濁していたが父の故郷は随分と遠いので、父の居場所を探るにも自力では難しいだろうし、人を雇うにしても金がいる。そんな事に金をかけるくらいなら、自分たちの楽しみのために使うというような印象だったし、父が大成功して誰もが羨む金持ちになっている、とかでもない限りは親族も父の居場所など知る由もないのだろう。
たかるにしても、ここまで来るとなれば徒歩での移動ですぐに来れるような所でもないし、交通機関を使うにしてもかなりの金額になる。金をもらいにくるための金がない。そんなところだろう。
仮に来たとしても、既に父はいないのでどうしようもないのだが。
マックスの父は、どうしようもない連中に囲まれて育った結果ロクに学ぶ事もないまま成長してしまった。恩人が紹介してくれた仕事を真面目にこなしていたけれど、やはり学の無さというのは色々と不便だったので。
今以上の仕事を任されるにしても、必要な資格だとかがなければできないもの、というのがかなりあった。
資格をとろうにも、マトモな読み書きもできなかった父はその資格を取ることができず。
稼いだ金の一部を勉強のために使い、コツコツと学びながら仕事をしていたのだが。
今までの無理がたたったのか、父は三年ほど前に亡くなってしまった。
さて、稼ぎ頭の父が亡くなってしまった事で、母が幼いマックスを育てるために頑張ってはくれたものの。
母もまた、お金の無い人であった。
父に出会う前の母は、そこそこいいところのお嬢さんだったそうなのだが、両親が詐欺にあい家の財産根こそぎ奪われ両親は自殺。父と会わせてくれた恩人は両親の知り合いで、どうにかその伝手で仕事をしていたけれど生まれつきあまり丈夫な方ではなかったため長時間仕事をするというのが無理だった。
父と出会ってからは家の中で内職をしたりしていたけれど、その稼ぎだけではマックスを育てていくのは厳しい。
母一人子一人を養うために、と無理をした結果母は倒れ、今では家で寝たきりであった。
マックスも家の手伝いをしたりしていたけれど、早朝の短時間をバイトし、それから学校に行き勉強して帰ってきてから家の事をして、再び短時間ではあるがバイトをして、となると一日が何時間あっても足りる気がしない。
予習や復習をする時間も欲しいし、けれども母の世話もある。バイトばかりに時間を費やせないし、家事はしないと家の中はどんどん汚れていく一方。
家の中にあった売れそうな物は一通り売って一時的な金を手に入れたけれど、母の薬代だとかですぐになくなってしまった。
学友たちは事情を知って、その上で親しくしてもらっている。
その友人の一人に割のいいバイトの話を聞いて、マックスはどうにか雇ってもらえないかと足を運んだのだが。
なんと残念なことに既に必要な人数雇ってしまったのだとか。
もしそのバイトに雇ってもらえるのなら、今やってる方のバイトは辞めるつもりだった。ちょっと悪いかな、と思いながらも今日はそのバイトを休んだ上で面接にきたのに、既に決まってしまったので完全に無駄足。今日休んだ分の給料も無駄になってしまった。
やっぱり睡眠時間削って深夜のバイトとか掛け持ちするべきかなぁ……なんて声に出さずに考える。
正直今でもかなりギリギリの生活だった。今はまだかろうじて家賃を払えているけれど、下手したら数か月後には家賃以外の光熱費だって払えなくなりそうなくらい生活はカツカツであった。
重たい足を引きずるようにして家に帰る途中、マックスの視界に女性と歩いているマックスと同年代の男の姿が映った。
彼は隣のクラスにいるちょっといい家のお坊ちゃんだ。一緒に歩いている女性もそういえば見覚えがある。お互いいい家の出で、着ている服や身に着けている物のどれもがマックスでは手も出せないようなものだった。
同じ学校に通ってるのにこの差よ……と惨めな気持ちになりながらも背を丸めて縮こまるようにして道の端へ寄っていく。
二人の視界に入るのが怖くて、入らなくてもいい横道にマックスは足を踏み入れていた。
「へいおにーさん、いいものあるよ!」
そんなマックスにかけられた声は、薄暗い路地裏に酷く場違いに思えた。
見ればさながら占い師のような風貌の女……いや、男かもしれない。いかんせん見た目からでは判断できないが、ともあれその人はマックスに声をかけていた。周囲を見ても自分以外はいないようなので、どう考えてもこれは自分に声をかけているのだろう。
「セールスとか間に合ってます」
そもそもお金がない。何を言われても、何を押し売りされようとも、そもそも払える金がないのだ。
けれどもその人はそれを知ってか知らずか、にこにことした笑みは崩さなかった。
「まぁまぁそう言わずに。面白い物扱ってるよ。どうだい?」
「お金ないんで」
「えー? お金とかいらないよぅ。興味があるならどれか一つ譲ってあげる」
「うまい話すぎて裏があるとしか思えない。怪しすぎる。なんですか、犯罪教唆とかされても困りますから」
「いやいやいや、警戒しすぎ。まぁちょっと聞いてよ。あのね、ボク、魔法使いなんだけど」
「は?」
「魔法使い」
にこにことしたまま言ってのけるそいつに、マックスは何かおかしい人なのかな、と思ってしまった。多分顔にもそれが出ているだろう。
「まぁ魔法が廃れて結構たつものね。馴染みがなくても仕方がない。でもさ、興味ない? 魔法」
「……頭大丈夫ですか」
「わぁ辛辣。ボクが作った魔法の道具のさ、あー、なんていうのかな、モニター? になってほしくて?」
正直胡散臭くて仕方がないが、魔法、という部分に興味がないわけではない。どうせ子供だましだろ、と思う内心と、もし本当だったら、という気持ち。まぁ、本当だとは思っていない。けれども、一ミリぐらい夢を見たって罰は当たらないだろう。何気ない子供の戯言を聞くくらいの気持ちでマックスはその人が台の上に広げた品々を見た。
「えーっとね、こっちはいつでもどこでも水が出せる魔法道具。とはいえ使用者の魔力依存だから、出せる量には限りがある」
そう言われて示されたのは、水色のプラスチックだと思われる物でできたリングだった。指輪、とするにはあまりにも子供っぽくてこんなの着けているのを誰かに見られたいとは思わない。
「使用者に魔力とやらがなかったら? 大体僕は今まで魔法なんて使えた試しがない。魔力なんてあるはずないのさ」
「あー、言われてみれば君、魔力すかんぴんだねぇ。あはははは。じゃあ、そういうアイテムは除外しよう。えーっと、あ、じゃあほとんど使えるのないな……」
「……もう行っていいですか?」
何でか足を止めて話を聞いてしまったけれど、これ以上関わっても意味がない。
今なら引き返してもさっきの二人はとっくに通り過ぎてるだろうし、会う事はないだろう。
「あ、これなんかどうかな。願い事を叶えるやつ」
引き返そうとした足が、思わず反射的に止まっていた。
「あきらかに自然の摂理に反したお願いとかは叶えられないけど、でも大抵の願いは叶うようになってるよ。どうかな」
「自然の摂理に反した、っていうのは?」
「えーっと、死んだ人間を生き返らせる、とかかな。壊れた道具を直したい、とかそういうのはまだしも、とっくに死んで埋葬されてる人間を生き返らせようとしたら、ねぇ……?」
言いたいことは理解できた。あまりにも無茶が過ぎる願いは叶えられないが、できる範囲なら可能、と。
「それは魔力依存じゃないのか?」
「うん、そうだよ。これは登録した人間の一部を使って叶えるやつ」
「途端物騒に聞こえてきた」
「あ、大丈夫だよ。いきなり死んだりしないから。爪とかいきなり短くなるかもしれないけど願い事の内容によって消耗するものが変わるとかじゃなくて、どんな願いでも消費する量は一緒」
爪がいきなり短くなる、くらいなら確かにそう大した事はないかもしれない。
伸びてからまた願い事をすれば安全に叶えられるというわけだし。
「どうかな、興味ない?」
「……モニターって言ってたな。それ、いつまで使っていいやつなんだ?」
「あ、観察はこっちで勝手にやるから好きなだけいいよ。これ刻印タイプだからさ。返す返さないじゃないんだよね」
その人が手にした願いを叶える道具、というのはどうやらスタンプのようだが……
「それ、どこに刻印するとか決まってるやつか?」
「別に。刻印した直後はともかく、その後は見えなくなるから」
話に聞いたテーマパークから一度外に出る時に手の甲にするスタンプみたいなものかな? という気がしてくる。刻印してそれが消えた後でも願い事はかなうという。
好きなだけ使っていいし、返すとかいう以前の話。
ごくり、とマックスは自然と喉を鳴らしていた。
あまりにも、都合が良すぎやしないだろうか。けれども、願いを叶えることができるというのなら。
まずは、母さんを元気に。次に、食料を。それから、家の中の古くなった家具を新しくしたい。寝具なんてもうすっかりくたびれて、寝ても疲れなんてとれやしない。
靴だって擦り切れてちょっとした小石を踏んだだけで痛いくらいだし、それから、それから。
金が手に入るなら、バイトをしなくたっていい。そしたら、その分学校の勉強に時間を費やせる。学校帰りに友人の誘いを断らなくてもいい。遊ぶ時間だってできる。
パッと浮かんだ望みは当面の生活をどうにかしたい、という細やかなものだ。それらが解決した後、どんな願いを叶えようと思うかはまだ想像もつかないが、少なくとも金の事ばかり考えて毎日カツカツな暮らしをしなくても済む。バイトをしなくても裕福な暮らしをしている友人を妬まなくて、済む。
「本当に、それ使っていいのか……?」
「え、モニターしてくれるんだ。やった。いいよいいよ好きに使ってくれちゃって。でも、叶える願い事は慎重にね。あ、それから。願いの譲渡もできるけど、対価を支払うのはあくまでも君だから、願いの譲渡をするような時はホントに慎重にするんだよ?」
自称魔法使いの言葉に、そんなことするかなぁ、と考えたけれど一応説明は聞いておく。
この願いを叶える事ができるのは、基本的にマックスだけだ。マックスの願いを叶えると、マックスの身体の一部が消失する。とはいえいきなり死ぬようなことにはならないはずで、多分なくなるのは爪だとかのなくなってもすぐに困るような部分ではない。使う頻度とかタイミングを考えて使えば、基本的にはノーリスク。
自分がもう叶えたい願いがない、となったら誰かに願い事をする権利を譲渡する事も可能ではあるけれど、対価を支払うのは相変わらずマックス。譲渡する相手次第でマックスが大変な事になりかねないから、それについては気を付けるように、との事だった。
譲渡はマックスの意思で決まるので、誰かに脅されて望まぬ契約だとかをする事はない。そうなった時は脅してきた相手がいなくなることを願えば済む話だ。
自分が譲渡してもよい、と思えた時に譲渡されるのだそうだ。
言い終わった魔法使いはマックスの手の甲にポン、とスタンプを押した。
何だかわけのわからない紋様がマックスの手の甲に浮かんだけれど、それもすぐに消える。
本当にこれで、願いが叶うようになったのだろうか。
「今履いてる靴を、新しくしたい」
試しにその場で願いを口にする。この場で母親を元気にしてほしい、と言っても叶ったかどうかの確認ができなかったので、すぐにわかるやつを願った。これでダメだったらこの胡散臭い魔法使いを一発殴ってやろうという思いもあった。
マックスの願いに応えるように、足元が一瞬淡く輝く。次の瞬間、自分が履いていた草臥れてボロボロになっていたスニーカーは買った時と同じくピカピカに戻っていた。どこか謎時空から新しい靴がぽん、と出てくるわけではなかったことに安堵する。
もしそうなったら、知らぬ場所から泥棒した事になるかもしれないと思ったのだ。
次にマックスは自分の手を見たが、特に爪が短くなるだとかはなかった。
何となく手で身体をぽんぽん叩いてみたり頭から下に向けて撫でられる範囲を撫でてみたけれど、目立った変化はない。
「本当に対価を払ったのか?」
「うん、払ってるよ」
何を払ったのかわからないけれど、魔法使いが言うならそうなのだろう。新しくなった靴は靴底がしっかりしていて、足の裏が痛くない。信じられない気持ちはまだあったけれど、しかしどうやらこの力は本物らしい。
マックスは興奮して、家に向かって駆け出していた。
家に帰ったマックスは早速、
「母さんが元気になりますように」
と願う。一日のほとんどを身体を壊したせいで寝たきりだった母が一瞬淡く輝けば、次の瞬間には目を開けて、それからむくりと上半身を起こしたではないか!
「母さん! どこか痛むところはない? 大丈夫?」
「え、えぇ大丈夫よマックス。どうしたのそんなに慌てて……」
「ううん、なんでもないんだ。でもよかった、本当に大丈夫だね?」
「えぇ、むしろ今日は調子がいいみたい」
にこ、と微笑む母に、マックスは叫びだしたい気分だった。
本物だ! この願いを叶えるやつは本当に本物なんだ!!
医者にかかってもロクに解決しなかったけど、でももうこれからは医者にかかる心配だってしなくていい!
神様って本当にいるんだな! あいつは魔法使いって言ってたけど、でも僕にとっては神様だ!!
咄嗟に部屋に入って枕に顔を埋めてわぁぁ、と声を出す。そうでもしないと絶叫レベルで叫びかねなかった。興奮するなと言う方が無理だ。学校から帰ってきてバイトに行って、帰ってきてから母の看病をして、ご飯支度をして、と家の事を何もかもやっていたけれど、母が元気になったので看病はもうしなくてもいい。
家事だって、母が元気になったのならマックスが全部やる必要もない。手伝いはするけれど、何もかもを全部自分でしなくて済むのだ!!
胸の中はまさに熱狂。だがしかし、ふとマックスは身体を起こして鏡を見た。
爪が短くなっているでもなく、鏡で見る限り特に何かが減っている様子もない。
一体何を対価に支払っているのだろうか……?
具合が悪くなったりしている様子もないので、大丈夫だとは思うけれど……
何となく胴体を撫でまわしてみる。いきなり内臓が一つ二つなくなった、とかではなさそうだけど……
何がなくなっているのかが具体的にわからない。
それだけが、気がかりだった。
それからマックスは一度に大量の願い事をするでもなく、少しずつ、願いを叶えていった。
願いの内容に関わらず対価は同じ、と言われていたとはいえ無茶なものは無理とも言われていた。
死者を蘇らせるなんていう願いはせずとも、どこまでが無理か、もしその願いが叶わない場合でも対価は払われるのか……今にして思えば微妙な疑問が残ってしまったが、常識の範囲内の願いであればきっと大丈夫だろう。そう信じて。
当初の予定通り、家の中の古くなってもう修理しても追いつかないボロボロの家具を直す願い。
食べる物が欲しいという願い。
勉強に使う参考書が欲しいだとかの、物に関する願い事。
一度にたくさんしてしまえば、母が不審に思うだろう。だからこそ、日をあけてから願った。
対価に何かを払っているようだが、いかんせん相変わらず何を払っているかわからないまま。
大金を一度に手に入れると色々と問題がありそうな気がしたので、定期的に金が手に入りますように、という願いをした。
その後例えば懸賞に当たったりだとかで、少額の金券などが手に入るようになり、それ以外でもこまかな臨時収入が入るようになった。
友人たちが最近お前ツイてるなぁ、なんて言う程度には色々と潤ってきたので、バイトを辞めた。
身なりも、以前はボロボロな服を縫って直して着ていたけれど、今はそんな事しなくてもよくなってきた。
勉強に費やしていた時間を、ふと思いついて、頭がよくなりますように、と願ってみた。
結果として、教科書や問題集を見ただけでなんとなく答えがわかるようになってきた。全てがわかるわけでもなかった。マックスが把握している内容に関してのみだ。
それでも以前は問題を読んでそこから答えを読み解いたりしていたものが、今ではすんなりと理解できるようになったのだ。
とはいえ、自分の能力以上のものは手に入らないようだったので勉強は続けた。理解度を深めればわかる問題に関しては見ただけでわかるようになる。結果としてわかる問題はすぐに答えられるので、わからない問題に関して集中的に勉強した。
友人たちにはお前最近要領よくなった感じ? なんて言われた。
最近色んな意味で恵まれてきたマックスを、友人たちは妬むでもなく素直に喜んでいた。
今までが今までだったので、お前頑張ってたもんな、報われて良かったよ、と。
家が貧乏だった時も変わらなかったが、こんなにいい友人を持てて自分はなんて幸せなんだろう、とマックスは思い、この友人たちが幸せになれますように、と願った。
幸せ、がどれくらいの規模かはわからない。願いが叶ったかもわからなかったが、友人たちにも小さな幸せがいくつか起きたようなので、きっと願いは叶ったのだろう。
そうやってどんどん願いを叶えていくと、余裕が出てきた。
今まで欲しかったけどでもなぁ、と尻込みしていた彼女が欲しいと願った。
素敵な彼女が欲しい。できるなら将来のお嫁さんになってくれるような人。
願った結果、友人と遊びに出かけた先で知り合った女性と付き合うことになった。
彼女は美人で、今までの自分だったらきっと見向きもされなかっただろう。
趣味が合って、一緒にいて話も弾んで面白い。親しくなるのに時間はほとんどかからなかった。
彼女ができて、学校もそろそろ卒業となる前にマックスは就職先が見つかりますようにと願った。
働かなくても金に困らない生活がしたい、と願えばもしかしたら叶ったのかもしれない。けれども、仕事もしていないのに金だけはある、というのが周囲の人間に知られたらあまりよろしくない気がして、短時間でそれなりに融通のきく仕事を望んだ。
結果として、マックスの家からそう遠くない所でまさにうってつけの仕事にありつくことができた。マックスが勉強して得た資格がまさに必要とされていたところで、だからこそマックスは短い時間であっても給料はそれなりという周囲が知れば羨むかもしれない職場を得たのである。
職場が決まり、学校を無事卒業し、彼女と結婚した。
トントン拍子すぎて大丈夫だろうかとマックスが不安を覚える程であったが、結婚しすぐさま子に恵まれ、子もすくすくと育った。子供が無事に生まれますように。子供が元気に育ちますように。そんな願いもしたけれど、やはり何を対価にしているのかわからなかった。
子がある程度大きくなって学校に通うようになってから、職場でマックスは昇進した。といっても、仕事内容はそこまで大きな変化もない。確かにちょっと増えたけれど、それでも時間内に仕事を終わらせることができる程度の量だ。その上で給料が上がったのだから、これは喜ぶべきだろう。実際妻もお祝いしてくれた。
今までの不幸のどん底にいた人生が、今ではひっくり返って驚く程に幸せであった。
やがて子も成長して恋人ができて、結婚相手を連れてきた。
相手はマックスとその妻が見てもいい人じゃないか、と言える程で。
素直に祝福した。
それからすぐに孫が生まれた。
まだ早い気がするけれど、自分ももうお爺ちゃんと呼ばれるようになるのか……なんて感慨深い気持ちになった。母は、あらじゃあ私は曾おばあちゃんなの? なんて言って笑っていた。
仕事は順調。家庭は円満。文句のつけようがないくらい幸せな人生だった。
我が子が生まれた時も可愛いと思っていたけれど、孫は更に可愛かった。なんでこんなに愛おしいのだろうか。好きな人と結婚して生まれた子が、更に好きな人を見つけて結婚して生まれた子だからかな。
きっとあの日魔法使いに会わなければ、この幸せは得られなかったのだろう。
心の中で感謝して、日々を過ごす。
マックスは初孫にメロメロだった。妻も勿論メロメロだったが、マックス程ではなかった。
「キリシアちゃ~ん、可愛いねぇ、じいじが何でもお願い事を叶えてあげようねぇ」
「ほんとう? おじいちゃん何でも叶えてくれるの?」
「もちろんだとも。じいじはね、なんでも願いを叶えられるんだよ」
「えーっ、凄い、おじいちゃん魔法使いみたいね!」
「あっはっは」
キラキラとした目で見られて悪い気はしなかった。
それを聞いていた妻は、何でもは言い過ぎよなんて言っていたけれど。
けれどもマックスはこの可愛い可愛い孫の願い事ならば、それこそなんでも叶えてあげたくて仕方がなかった。孫が喜んでおじいちゃん大好き、と笑顔を浮かべて言う光景を想像しただけで、胸がいっぱいになる。あぁ、これが幸福というやつなのだな、と改めて実感する。
孫の願い事は最初、可愛らしいものだった。
あのね、この前食べたお菓子がおいしかったからね、また食べたいなぁ。
あのね、お友達のアマンダちゃんが持ってるぬいぐるみがね、とっても可愛いの。わたしもあれが欲しいなぁ。
そんな、ちょっとお金を出せばどうにでもなりそうなお願い事。
マックスはそうかそうかともう微笑みの形から戻らないのではなかろうかというくらい表情をにこにこさせて、孫の願いを叶えてやった。
キリシアは顔を輝かせてきゃあきゃあと歓声を上げて、ありがとうおじいちゃん、なんて言って抱き着いてくる。あまり甘やかさないでくださいね、と言われてもお願いの内容が可愛らしいのでこれくらいは大丈夫だろうと思っている。
そんなある日、キリシアは他の人に聞こえないような小さな声で、もじもじとしながらマックスを見上げた。
「あのね、あのねおじいちゃん、わたしね、仲良くなりたい子がいるの。隣のクラスのメイシーちゃん。とってもお歌が上手なのよ」
「そうかぁ、仲良くなれるようにじいじがおまじないをしてあげようねぇ」
言いながら、キリシアがそのメイシーちゃんとやらと仲良くなれますようにと願う。
後日、何らかのきっかけがあってキリシアはメイシーと話をするようになって、無事仲良くなれたようだ。おじいちゃんのおまじない、凄い! そういってきゃあきゃあはしゃいでいた。
その後も、何名かお友達になりたい人ができたらしく、キリシアはおじいちゃん、おまじないやって! とねだってきた。それをマックスは快く叶える。
そんなある日。
この日は少しばかり違った。
「あのね、あのねおじいちゃん。わたしもね、そのおまじないやりたい。メイシーちゃんがね、三つ隣のクラスの子と仲良くなりたいって言ってるの。でもお名前教えてくれないの。だからね、わたし、おじいちゃんが仲良くなれるおまじないを知ってるよって言ったんだけど、恥ずかしいからって教えてくれなかったの。
わたしにだけは教えてもいい、って言ってたけど、おじいちゃん、どうやったらそのおまじない使えるようになる?」
にこにこしながら聞いていたマックスは、なんとなくメイシーちゃんが仲良くなりたいのは男の子なんだろうなぁ、と察した。好きな子を明かすというのは中々に難しいし恥ずかしいと思う子もいる。揶揄われると思うと余計に言いたくなくなるだろう。
ましてや、お友達にこっそり打ち明けるだけならともかく、その子の家族にまで広まったらと考えたら、例え内気な子じゃなくたって嫌がるだろう。
マックスはちょっと考えた。
メイシーちゃんが仲良くなりたい人と仲良くなれますように、で願いは叶うとは思う。
けれども、キリシアは自分がおまじないをしてあげたいのだと訴えている。
適当なおまじないを教えて、かわりに自分が願い事をすればいいだけの話かもしれないが、もしその後で他の子にもおまじないをして、その事をマックスに言ってくれなかったら。
おまじない効果ない、おじいちゃんの嘘つき! なんて言われるかもしれない。
それは流石にいやだなぁ、とマックスは思った。
マックスはキリシアにとってなんでもできるヒーローみたいな立場でいたかったのだ。
だから、ちょっと考えた末に、
「いいかいキリシア、これはね絶対他の人に言ってはいけないよ」
マックスは願いを譲渡する事を決めたのだった。
「ねぇあなた、最近ちょっと頭の後ろ、薄くなってきてませんか?」
そう、妻に言われたのはキリシアに願いを譲渡してしばらくが過ぎたころだった。
あれからキリシアは一度に大量のお願いをしてはいけない、という事を約束させた。そうして一日に何度かのお願いとして友達の縁結びをしているようだ。
対価に何を払っているかわからないけれど、特に何も変化がないので大丈夫だろう。そう考えていた。
「えぇ? そう言われてもなぁ。僕だってもういい年だよ、髪が薄くなっても仕方ないんじゃないかな。……もしかしてみっともないかい?」
「みっともないっていうよりは……ストレスか何かで禿げたのかなって思うような感じだから」
「えぇ……?」
言われたけれど後ろなので自分では見えない。とりあえず手を後ろに回して触ってみれば、確かになんていうか髪の毛が薄くなって地肌の感触が手にやってくる。それもかなり広範囲のようだ。
「う~ん、下手に増毛させるよりは、いっそ剃った方がいいかもしれないね」
「そう、かもしれないわね……カツラはちょっと不自然になりそうだし。私は貴方が禿げてても気にしないわ」
元気づけるつもりかはわからなかったが、妻の本心であるというのはわかったのでマックスは苦笑を浮かべるだけだった。
実際植毛だとか増毛だとかで足掻くにしても、抜けて薄くなっていく速度がはやくてきっと追いつかないだろうな、と思える程の勢いで髪の毛は日に日に薄くなっていったので、マックスはそれならいっそ……という思いで綺麗さっぱり剃ってしまったのである。
見た目でわかる変化はそれくらいだった。
なんだか日に日に他の毛も抜けていくなぁ、と思ったのは、ちょっと鼻がムズムズして鼻をかんだ時だった。
何の気なしに鼻の穴に指を突っ込んでみれば、思った以上につるつる。あれ? と思って鏡で見れば、生えてるはずの鼻毛が消えていた。
「年のせいかなぁ……」
年と共に抜け毛が増えていくし、最近そういや腕に生えてたムダ毛だとかすね毛だとかも生えなくなってきた。脱毛したみたいにつるつるになっていってるのが恐ろしいが、よく見ればまつげや眉毛も薄くなっている気がする。
全身つるつるになるのかなぁ、それはそれでどうなんだろう……なんて思いながらも、マックスはそれを異常だとは思わなかったのである。
さらに数日後、ふと見ると爪がかなり短くなっていた。
そろそろ切ろうと思っていたのに、切る前から気付いたら勝手に短くなっているのだ。
流石に切ったのを忘れているとかではない。まだそこまでボケてはいない。
最近すっかり全身がつるつるになってしまったのを、キリシアは、
「お爺ちゃんすっかり何もなくなっちゃったのね、つるつる」
なんて言いながら頭なんかを触って来るのだが、まつげもまゆげもなくなったあたりで、もしかして何かの病気の前兆とかじゃない? 大丈夫? 病院行ってみたら? なんて心配し始めた。
とはいえ、毛がないくらいで特にどこかが痛むだとかそういう事もない。自覚症状もないうちから病院は、とマックスは様子見を選んだ。
――ある日、キリシアが凄まじい勢いで部屋に駆け込んできた。
「どうしよう、どうしようお爺ちゃん! お爺ちゃんから教えてもらったおまじないを使ったらとんでもない事になっちゃった!!」
「一体何をしたんだ、キリシア」
嫌な予感がした。今までは縁結びに関して使っていたおまじない。一日に何度も使ってはいけないよという教えを守って使っていたはずだ。一体何をどうしたというのか。
「ごめんねお爺ちゃん、でも、でも私……!」
キリシアにはあくまでも縁結びのおまじないとしてマックスは願いの譲渡をした。誰かと仲良くなれますように。あの人との仲が上手くいきますように。
そういった願いであれば一日にそう何度も頻繁にするものではない。
どうしようと泣きじゃくるキリシアの背を撫でながら、マックスは孫の話に耳を傾ける。
勿論最初は自分と誰か、または友達と誰かの仲を取り持つのに使っていたおまじない。
けれどもある日ふと、キリシアが大好きと公言してはばからないアイドルのライブがあり、そのチケットがどうしてもほしくて、キリシアは人同士の縁ではなく人と物――この場合は抽選で当たるチケットだ――との縁は結べないだろうかとおまじないをした。
その結果、見事にいい席があたりキリシアは大喜びであった。
その話はマックスも覚えている。確かに去年くらいにそんなことがあったなと。
そこから、キリシアはこのおまじない、人以外でも通じるんじゃない? と思って色々な物で試したのだという。
例えば新作のプチプラコスメ。人気が出すぎてドラックストアでは品切れ。次の入荷がいつになるかもわからず、また入荷してもすぐに売り切れ。キリシアの家はそれなりに裕福とはいえ、まだ自分の年齢じゃデパコスは高すぎる。けど、ノーメイクはいや。
だから、新作のコスメが手に入るようにとお願いしたり、他にも色々。
願い自体はこの時点で細やかなものではあった。
あったが、頻度が多すぎた。
幼い頃は友達と仲良くなるためのおまじないとして使っていたものが、別の事でも効果を発揮するとわかったのだ。ある程度大きくなったキリシアの欲望はあっという間に肥大した。
そうしてある程度身の回りが物で満たされてくると、今度は年頃の乙女らしく素敵な彼氏が欲しいと願った。
一つ上の先輩。かっこよくて、どうしてもあの人と付き合いたい。でも、先輩には彼女がいる。
彼女もまた素敵な人で、きっと自分には見向きもしてもらえない。彼女と別れて自分と付き合う可能性は、ほとんどゼロに近かった。
けれども願った。願ってしまった。
結果として先輩とその彼女は性格の不一致だとかで別れ、そうしてなんとキリシアは先輩に告白された。天にも昇る気持ちだった。
だが、キリシアはあまりにも恵まれすぎているように周囲からみられてしまったのである。
大して美人でもないくせに調子に乗ってるだとか、先輩にもきっと身体使ってたらしこんだんでしょ、だとか、心無い噂が駆け巡った。
仲の良かった友達とも少し距離ができてしまった。
欲しい物は願えば手に入るから、だから今使ってる物が壊れてもあまり気にしなくなっていた。
そういえば、友達からもらったものもその中にはあったけれど、でも同じ物ならまた手に入るから、とキリシアは気にも留めなかった。
けれども友人からすればいくら物は同じでも、自分がキリシアの事を考えて選んでプレゼントした物と、後からキリシアが自分で買ったものとではやはり心情的に異なる。大事に使った上で壊れて、また同じものを買ったならそれだけ気に入ってくれたのねと思えたが、友人からすれば折角選んだプレゼントは雑に扱われ、同じものを用意してこれでいいでしょ? というようにしか見えない行為。
前はキリシアちゃん、こんな子じゃなかったのに……と思ったからか、少しずつ、やんわりとではあったが距離は離れつつあった。
そうして少し孤立しかけているように見えたからこそ、そこで素敵な彼氏ができて浮かれたキリシアを気に入らないと思った一部がここぞとばかりに悪評をばら撒いた。
そこまで言われることだろうか、と思ったキリシアは我慢できずに、
「あいつらなんかどっか遠くに行っちゃえばいいんだ!」
と強く願ったのだそう。
その結果は、思ったよりも早くに現れた。悪口を言っていた一人は事故で重傷を負い入院。しばらくは出てこれないだろう。
もう一人は親の仕事で転勤が決まり遠く離れた土地へ引っ越し。他にもちょっと悪質な校則違反がバレて停学や退学になった者もいる。
その中で一人、それでもキリシアに悪意を向ける事をやめなかった者に、キリシアはとうとう願ってしまったのである。
「死ねばいいのに」
――と。
そしてその願いを向けられてしまった人物は、教室の窓から転落したのだとか。誰かが突き飛ばしたとかではなく、風で飛ばされた私物を取ろうとして、結果身を乗り出してバランスを崩して落ちたという事故であったが。当たり所が悪く病院へ搬送され、そうして死亡が確認されて――本日のホームルームでキリシアはそれを知ったのだ。
その知らせを聞いて、キリシアは内心気が気じゃなかった。まさか本当に死ぬなんて思ってなかったのだ。
どうしよう、このおまじないがそこまで効果を発揮するなんて……!
周囲の反応としては、悲しいと泣く者だとか、彼女とそう親しくなかった者でキリシアに嫌がらせをしていた事を知っていた者たちなどは、罰があたったんじゃないか? なんて言う者もいた。
なんにせよ、自分に嫌がらせをしていた相手が消えたとなればキリシアがさぞ喜んでるのではないか、と穿った見方をしていた者たちは、まるで親友が死んだかのように顔を真っ青にさせているキリシアを見て流石にその考えをひっこめた。
あれは邪魔者が消えて嬉しいって顔じゃない。そんなのは誰が見ても一目瞭然であったからだ。
彼女が窓から落ちた時、キリシアはその場にいなかった。だからこそお前が突き落としたんだろう、なんて言いがかりを向けられる事もない。
もしかして、表向きあんなだったけど、実は前から仲、良かった? と思う者もいた。
ちょっとしたすれ違いで喧嘩をしていただとか、そういうものを想像したのだろう。
周囲のキリシアに向ける目や感情なんて、キリシアにはどうでもよかった。
ただ、自分がやったおまじないのせいだというその事に意識がいっていて、周囲を気にする余裕がなかったとも言う。
これが本当にたまたま偶然で、自分のせいじゃないと思いたい部分もあった。
だからこそ学校から帰ってきてキリシアはこのおまじないを教えてくれたお爺ちゃんのところに真っ先に来たのだ。
おまじないにそこまでの力はない、そう言って安心させてほしい。
これはたまたま、本当に凄い確率の偶然が起きただけで、キリシアのせいじゃないととにかくそう言って安心させてほしかった。
マックスはその話を聞いて、どうしたものかと思った。
まだ成人していない娘だ。お願い事だって本当に嫌な人を遠ざけたい一心からだっただろう。
本当に人を殺したいわけじゃなかった。
それは、キリシアの態度からもよくわかる。
けれどもここで気休めのように、そのおまじないにそんな力は無いのだと言ったところで。
それで安心して、再び日常へ戻って。
また何か嫌な事があった時に心の中で、あいつマジうざいから消えてくんないかな、みたいな事を願ったら。
他者にそういった感情を向けるだけでも恐ろしいが、家族に向けてしまったら。
自分の軽率な嫌悪感で家族を失ったりしたら、きっとキリシアは耐えられないだろう。
何だかんだ心根は優しい子だ。それはマックスだってわかっている。
優しい子だからって悪意を持たないわけじゃない。本人にとって嫌な事だと思えばそれらと関わりたくないと願うのは当然の感情だ。
だから、気休めを今ここで言うのはよろしくない。
マックスは心を鬼にして、このおまじないの事をもう少し詳しく説明する事にした。
これはただの縁結びではなくて、実のところ願いを叶えるまじないなのだと。
必死に自分のせいじゃないと思いたかったキリシアはそれを聞いて、祖父に裏切られた気分になった。私のせいじゃない、そう言ってほしかった。そんなのたまたま、偶然で、キリシアは何も悪くないのだと。
だが、そうじゃなかった。
今までに願ったあれこれを思い返す。
ちょっとした物を欲しがっていたくらいなら何もなかったが、では、先輩と付き合えたのは。陰でこそこそ悪口を言ってきた相手が遠くに行ってしまったのは。
彼女が、死んでしまったのは。
全部、全部自分のせい。
もしそんなことを願わなければ、先輩はきっと今でもあの彼女だった人と付き合っていたのだろう。それを知らず自分は引き裂いた。
傍から見てあんなにお似合いだった二人を、彼女程先輩の事を好きだったか? と問われればよくわかっていない自分が軽率に。先輩の事は嫌いじゃない。けれどもどちらかといえばそれは憧れに近いように思う。恋、も確かにしているかもしれない。けれども、先輩の彼女だった人と比べてあの人の事を自分の方が好きなの! と言える熱量があったかはもうわからなかった。先輩かっこいいな、あんな人が彼氏だったら。そんな、とても気軽な気持ちだった。
嫌な人たちと関わりたくないから遠ざけようとした事も。
もし願わなければ事故に遭って入院する人はいなかったかもしれないし、親の急な転勤で引っ越すことを余儀なくされた人もいなかったかもしれない。
校則違反がバレたのは……流石にそれは自業自得じゃない、とキリシアだって思うけれど、けれども死んでしまった彼女に関しては。
間違いなく自分が向けた悪意のせいだ。
「ど、どうしよ、だってこんな、こんなことになるなんて……」
直接手を下したわけじゃない。けれどもキリシアは人を殺したのだ。それがたとえ法で裁かれる事がなかったとしても。
「キリシア」
マックスの声にハッとする。
「そ、そうだ。なんでもお願い事が叶うなら、今からでもまだ遅くないはず、だよね? お爺ちゃん」
そうだ。まだ、まだ遅くない。
お葬式はまだだ。今からならまだ、無かったことにできるかもしれない!
そう思ってキリシアは両手を組んでひたすら祈った。
あの人が生き返りますように。今ならまだ、奇跡的な生還を果たしたって事で間に合うかもしれない。どうか、どうか……!!
先輩も、先輩もきちんと自分が好きな人と幸せになれますように。
それから、それから……!!
「キリシア、やめなさい。死んだ人間は生き返らない。願いは何でも叶うわけではないのだよ」
マックスの制止を、しかしキリシアは振り払った。
「どうしてそういう事言うの!? 今ならまだ間に合うかもしれないのに!! お爺ちゃんは黙ってて! 邪魔しないで!!」
縁結びのおまじないなどではなく、願いが叶うって言ってたなら、この願いだって叶うはずなのに。
どうして邪魔をするような事を言うの……!?
キリシアは既に冷静ではなかった。自分のせいで人が死んだと聞かされて、先輩が自分と付き合う事になったのだって自分が軽率に願ったからだ。
一生この先先輩と添い遂げるというのであればまだしも、きっとこの先の人生でキリシアは軽率にかっこいい人を見てはあの人かっこいー、なんてミーハーな事を思って、あんな人と付き合えたらなぁ、なんて浮かれた事を思ったかもしれない。
ただ思うだけならいいが、願い事として叶う場合、相手にもし恋人や妻子がいたら……?
単純な思い付きで人の人生を狂わせたと思っているキリシアは、とにかく元に戻さなければという思いで一杯であったのだ。
だから、やめなさいと制止した祖父の言葉を冷静に聞ける余裕なんてなかった。
どうして。
大体おじいちゃんがこんなおまじない教えなかったら良かったのに!
そしたら先輩と付き合えたらなぁなんて考えても、私は先輩と付き合う事なんてなかったはずなのに!!
どう考えても八つ当たりであったが、キリシアはそうでもしないと精神を保てなかった。
違う、わかってはいるのだ。勿論お爺ちゃんだって、こんなことに使うと思ってなかったに違いない。
でもやってしまった。
とにかくひたすら願うものの、果たして本当に叶ったかどうかはわからない。
けれども叶うはずなのだ。今までの願い事は全部、全部叶ってきたのだから。
「お願い……お願いだから……」
きつく手を組み、目をぎゅっと閉じ、ひたすらにキリシアは祈っていた。
ぐ、と胸が詰まる感覚に見舞われて、マックスは思わず片手を胸に当てた。
声を出そうとしたけれど、上手く出せなかった。
一体何が――? いや、先程のキリシアの言葉によるものだろう。
死んだと言われている彼女とやらが生き返るまで、きっとキリシアは願うことをやめない。そしてそれを止めようとしたマックスに黙ってて、と言ったそれも、願いとみなされたに違いない。
それだけではない。
かつての、魔法使いの言葉を思い返す。
もうずいぶんと昔の話だ。だからこそ朧気であるけれど、死者を生き返らせる事はできないと言っていた。どれだけ願ってもそれは叶う事がない。
そして、自分はそんな無茶な願いをしないからと気にしなかったけれど、叶わない願いを望んだ時も果たして対価は支払われるのだろうか……とふと思ってしまった。
ここに来てマックスも薄々気付き始めていた。
支払っていた対価。
正直何が減っていたのかもわからない対価。
だから、あまり気にしていなかった。
願いの譲渡をした後も、そう頻繁にキリシアが願いをしなかったと思っていたから気付くのが遅れてしまった。
人と人とを結びつける以外の――あれが欲しいこれが欲しいといった願いを気付けば頻繁にしていたと聞いて、そこで今更ながらにマックスも対価について思い至ったのである。
恐らく気付かない程度に最初は髪を。
例えば毎日ブラシで髪を梳かした時に抜ける程度の数が、きっと対価であったはずなのだ。
それくらいなら毎日頻繁に願いを望まなければ、対価として支払われたとしてもそう気になる量ではない。
だが、知らず願いの量が増えていたとすれば。
てっきり年のせいだとばかり思っていたけれど、髪が薄くなったのは。それだけじゃない。その他の体毛も。
髪がなくなって、次にそちらが対価として支払われた。
そして今、マックスの身体に存在している毛はほぼ消えている。
ふと視線を手に落とせば、ごっそりと爪が短くなっていた。残ってはいる。いるけれど、深爪一歩手前といったほどに短くなっている。
これ以上なくなれば、指先が血で真っ赤になってしまうのではないだろうか。
どうにかキリシアを止めようとして腕を伸ばすも、それよりも先に。
こてん、とマックスの身体は力を失って倒れてしまった。年を取ってすっかり軽くなってしまった身体は、思ったよりも倒れた時の音が小さくて。
いや、それだけではない。
こうしている間にも願いの対価が支払われている……そう思いながらもマックスはどうにかキリシアに手を伸ばす。
固く目を閉じたまま祈っているキリシアが気付くかはわからない。
息が苦しくなって、目がかすむ。きっと今支払われている対価は、微量ではあるが血液か。叶わない願いを何度も何度も祈るキリシアが、願うことを止めない限りは消費し続けられる。
どうにか伸ばした腕が、キリシアの身体に触れた。しかし力が入らない。
「……っ、おじい、ちゃん?」
それでも、その手に気付いたのだろう。
目を開けたキリシアがマックスを見る。
「え、え、おじいちゃん? おじいちゃんどうしたの……!? ねぇ!? もしかして私がさっき黙ってって言ったから!? え、やだやだ、おじいちゃん、何か言ってよ、ねぇ!?」
己のやらかしを無かったことにしようと祈っていたが、知らず更にやらかしていた事に気付いてキリシアは倒れたマックスの身体に手を添えた。どうにか起こそうと思ったのかもしれない。
けれども。
「……ぁ……」
「お爺ちゃん!?」
多分、もう先は長くない。
マックスはハッキリと感じ取っていた。
体中の血液を失ったわけではない。まだ残っている。しかし、少量ずつとはいえ何度も祈られた結果対価は支払われ続けた。献血にいって血を抜かれたなんて量で済むどころではないくらいに、きっともう消費されている。
息をするのもつらく、目も霞んでまだ明るい時間のはずなのにやけに薄暗い。キリシアの声はまだ聞こえているけれど、起き上がろうと思っても身体はちっとも動いてくれそうになかった。
あぁ、死ぬんだな……と意外と冷静に受け止めた気がする。
「……ィ、シア……ぅか、し、ぁ、わせに……」
きっと、願いを譲渡するべきではなかったのかもしれない。それはとても今更な話で。
対価を支払うべき人間が死ねば、もう願いはいくら望んだところで叶わないだろう。
「おじいちゃん!? やだ、やだお爺ちゃん!! っ、救急車! そうじゃない、お母さん! あっ、あぁ……!?」
何をするのが最善なのか。あまりの事に混乱しおろおろしている孫娘に、
「ごめんなぁ……」
果たしてその言葉が届いたかは、定かではない。
――とある一室。
そこにはかつてマックスに魔法使いだと名乗った者の姿があった。
机の上にやたらファンシーな鏡が置かれて、そこにはマックスの姿が映っている。
既に事切れて、そんな老人の死体に孫娘が泣きながら縋りついていた。
「ふーん」
それを無感動に一瞥して、魔法使いは卓上ミラーをパタンと伏せる。
低コストで大抵の願いを叶える魔法道具。大抵は願いに見合ったコストが消費されるけれど、それを低コストで実現できるようになったという点でなんて画期的! と思ってはいたがやはり色々と問題点やら改善点があったようだ。
身体の一部が消費される、と言っていたからマックスは願いを頻繁にしなかった。だからこそ、何が消費されてるかもわからなかったのだろう。
けれども願いを譲渡した後。
孫娘は対価の存在を知らされていなかった。多分、それが悪かったんだと思う。
知っていたら、縁結びのおまじないだと思ったものがまさかそれ以外の願いもかなえてくれるだなんて気付いた時に、欲望に負けてポンポン願ったりはしなかっただろう。
「やっぱまずは願いを譲渡って部分を見直すべきかなぁ……でも、道具そのものを譲っちゃうと、大盤振る舞いで誰彼構わず刻印押す奴出そうだし……
譲渡するなら対価の支払いもそっちに移すべきだったかな。他人の支払いだとやっぱ、色々とハードル下がるみたいだし」
呟いて、自分で納得する。
そうだ、自分の稼ぎで焼き肉する時はそりゃあメニューとにらめっこするけど、他人のおごりだと思うと遠慮なくあれもこれもと頼むわけだし。そう考えれば願いの対価は常に願った相手が支払うようにするべきだった。
叶わない願いをしてもその分対価が消費されるのもよろしくない。
一応願いを叶えようという力は発動してるから対価が発生するけれど、それでもやはり叶わないものは叶わないのだ。コストが大変リーズナブルなので消耗しても消耗したとすぐに気付けないのもダメだったのかもしれない。
無理な願いは無理だとわかるようにしておかなければ。その上で延々無駄コストを支払う馬鹿はいないだろうけれど、わからなければあの孫娘みたいに延々願い続けるだろう。
他にも……
と考えて、はぁ、と溜息が漏れた。
「そうなるとやっぱ、一から作り直しかな……」
いけると思ったんだけどなぁ……なんて呟きながら、魔法使いは手にしていた願いを叶える魔法道具をポイと放り投げ――それは部屋の片隅にあった屑籠に見事に落下していった。