プロローグ
真っ白で何もない空間に、ゆらゆらと動く青い影。
そして、いつものセリフを吐くのだ。
「イヴ。さあ、俺と一緒に最高の旅をしよう!」
イヴとは、誰のことなのか。
私に向かって言っているのか。
小さな頃から幾度となく見るこの夢。懐かしいような、全く知らないような、ふわふわとした不思議な夢。
青い影は、揺らめきながら、私に近づいてくる。私の手を取り、口付けをする。
あなたは、誰なの?
口からは泡が出る。大きなシャボン玉。口を動かしても、声帯からは何も出ない。青い影が、笑ったように見えた。顔なんて見えないのに。
そこまでで、いつもこの夢は終わる。
「君に会いたいよ」
影は、いつもと違うセリフを吐いた。
なんで。どうして、悲しい顔をするの。顔なんて見えないのに。
影は、私の手を離し、ゆっくりと私から離れる。
待ってと、追いかけようとしても身動きが取れない。夢なら私の思う通りにしてよ。
行かないでほしかった。そばにいてほしかった。あなたに会えるのが、私のーー。
「杏奈。杏奈!朝ですよ」
「えっ?」
杏奈が目を開けると、天井が見えた。声の主の方を見ると、男性が立っていた。
杏奈は猫耳族の少女で、頭の上の耳をピクピクと動かした。
「おはようございます。チィランさん」
「おはようございます。おバカさん」
チィランと呼ばれた男は、カーテンを開けた。眩しくて杏奈は目をつむる。
「遅刻しますよ。今日は、マジックナイト学園の入学試験の日ですよ」
「起こしてくれて、ありがとうございます。寝坊するところだったわ」
杏奈はゆっくりと起き上がった。チィランは、カーテンをまとめ、机に置いてあるマグカップを杏奈に渡した。まだ、少し湯気が出ている。
「ホットミルクですよ。ワームは、もう試験会場に行きましたよ」
「えっ!?早いですね。相変わらず、せっかちだなあ」
杏奈は、ふーっと息をふきかけ、ホットミルクを冷ましていた。杏奈は、猫舌なのだ。少し冷ましてあるが、それでも熱いものは熱い。
「さあさあ、おバカさん。朝食を食べる前に着替えなさい」
「はーい」
杏奈は気の抜けた返事をした。チィランは、ため息をつき、一足先に部屋から出ていく。
杏奈は、ホットミルクをゆっくりと飲み干してから、着替えた。
あの夢、いつもと違ったなと考えながら、階下へと行く。
「今日は、お魚ですよ」
「やったー!ありがとうございます。チィランさん」
「門出ですからね」
杏奈は席につき、いただきますと言ってから、食事にありつくことにした。チィランは、洗い終わった食器を拭いて、棚にしまう。
「今日、またあの夢を見たの」
杏奈はポツリと呟いた。チィランは、少しだけ杏奈の方を見る。
「……そうですか」
「でも、いつもと違ったんです。影が、私に会いたいって言ったんです。不思議だった。いつも同じ夢だったから、あんな事言われるなんて」
チィランは、杏奈に見えないように、口角を上げる。
「それは、いい夢でしたか?」
「え?どうだろう。ちょっとだけ、悲しかったかも。でも、会いたいって言ってくれた時は嬉しかったですね」
「そうですか。いい夢だということにしましょうか」
杏奈は、ふふふと笑いながら、魚を口に持っていく。
「チィランさんに話して良かったです。なーんか、あの夢を見るとモヤモヤするのよね」
「その気持ちは大事にしてくださいね」
「はーい」
杏奈はまた気の抜けた返事をした。
朝食を食べ終えた杏奈は、荷物を持ち、玄関に立つ。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい。おバカさん」
「帰ってきた時にはおバカさんって呼べなくなりますよ」
「入学試験に受かっただけでは、偉くはなれませんよ」
「ちぇー」
杏奈は扉を開け、外の世界へ飛び出して行った。チィランは、満面の笑みで、それを見送った。
「杏奈。君の人生はここから始まる。そして、アダムに会い、じっくりと海の底へと沈んでいく。運命という海に」
チィランは、杏奈聞こえないように、そう言って扉を閉めた。