3 ノックス伯爵邸の王妃 ~王妃の困惑
マーゴットはノックス伯爵邸に到着すると、冷静になった頭で実家のゴドウィン公爵家宛に、現状を知らせる手紙を書いた。
現当主は兄のサイラスである。結婚破棄を申し渡され、勢いのまま侍女の家に転がり込んだとなれば怒られるかもしれない。
(でも知らせないわけにいかないし)
マーゴットは渋々手紙に封蝋を押すと伯爵家執事のケネスに手渡した。
「お願いするわ。なるべく早く届けてくれる?」
「かしこまりました」
王妃マーゴットが黒猫獣人ジジと共にここへやって来た時、突然の訪問だったにもかかわらず、きちんと屋敷が整えられていた。テキパキとしたメイドたちのそつのない働きぶりから、執事ケネスの管理能力の高さが窺える。
デイジーには十歳になる息子がいて、今年から寄宿学校に入っている。この屋敷に帰って来るのは長期休暇の間だけで、王宮勤めの主人たちも留守がちだ。
「だからこそ、ですよ。いつお帰りになってもいいように準備しておくのが我々の務めというものです」
そう言ってケネスはウィンクしてみせる。王妃という身分にも臆せず接するこの男のことをマーゴットは信頼できそうだと判断した。
「大丈夫ですよ、マーゴット様。ここには軽々しく噂話をする使用人はおりません。一国の王妃がここにいるなんて、外に漏れたりしませんから」
デイジーは請け合ったが、夜になって実家から屋敷を警護するための騎士が送られてきた。
やはり書類上の王妃とはいえ、何かあっては都合が悪いのだろう。当主の兄からは「当分、大人しくしているように」との言伝だけで、お小言はない。
(なーにが『大人しくしているように』よ!)
騎士たちはただの警護ではなく、監視も兼ねているのだ。自分の一挙一動が報告されるに違いない。マーゴットはそれが不満だった。
マーゴットは気持ちを落ち着けようと紅茶を啜った。
「これからどうしようかしら?」
心の中がポツリと声に出る。
振り返れば、人生のほとんどを夫ランドルフと過ごしてきた。
初めて会ったのは十歳の時。お妃選びの王宮のお茶会だった。とはいえランドルフと年回りの合う公爵令嬢は三人だけだったので、全員が婚約者候補として定期的に交流を持つことになった。
月に一度、ランドルフと令嬢たちだけのお茶会が開催された。それがいつしか二人だけのお茶会となり、お妃教育を受けるようになった。
「生涯、君一人を幸せにするよ」
はにかみながら婚約指輪を贈ってくれたのは、忘れられない思い出だ。
王宮の庭園を手を繋いで歩いた。ドキドキした。
子どもたちが生まれた時の夫の嬉しそうな顔。
全部、壊れてしまった。
もう子どもたちも十歳と八歳で、あまり手が掛からない。もうずっと家庭教師や養育係と勉強やら剣の稽古で忙しくして、母親など見向きもされない。
夫は若い側妃を迎えるつもりだ。
自分だけ、何もかも失ってしまった。
王妃として夫を支え、子を産み家族に尽くすことが、マーゴットのすべてだったのだ。
「王妃様は何かやりたいことはないんですか?」
ジジに問われて、マーゴットは我に返った。
「そう言えば、考えたことがなかったわね。ジジはどうして薬師になったの?」
「私ですか?」
ジジはモゾモゾとソファの上で身じろぎをして、うーんと唸った。
「母が薬師だったからですかねぇ。小さい頃から薬の作り方を習って……物心ついた時にはもう薬師になるものだと思ってましたね」
「私もね、気がついたら陛下と婚約していて、王妃として生きてくものだと思ってたの。いざそれが無くなると、どうしていいのかわからないのよね」
「そっかぁ、私にとっての薬師が、王妃様にとっては結婚だったんですね。どうしていいのかわからなくなる気持ち、よぉくわかります」
ジジが神妙な顔をして何やら考え込み、少ししてから閃いたようにパッと顔を上げた。
「王妃様、やっぱり一緒にシベンナ王国へ行きましょうよ。今後を考えるのに、何もここでじっとしていなくてもいいはずです。場所を変えれば、したいことも見つかるかもしれません」
マーゴットは自由なジジを羨ましく感じた。彼女はまだ成人前だというのに、一人で立派に逞しく生きている。国や身分や立場に囚われている自分とは大違いだ。
(それもいいわね。少なくとも気分転換になるもの)
マーゴットの心は揺らいでいた。
国王ランドルフが伯爵邸を訪ねて来たのは、翌日の早朝のことである。
「王妃殿下、国王陛下がいらっしゃいました」
執事ケネスに告げられ、マーゴットとデイジーは慌てて飛び起きると、身支度を整え大急ぎで応接間へ向かった。
(何でここがバレたのかしら?)
マーゴットが王宮を出てまだ二日目である。まだ兄にしか居所を教えていない。実家に問い合わせたにしても、何の駆け引きもなくあの兄がそう易々と教えるだろうか。
立ち聞きされていたことなど知るよしもないマーゴットは、不思議に思いながらも部屋の扉を開けると、泣いたような赤い目をしたランドルフが立っていた。
「マーゴット! 迎えに来たのだ。さあ、一緒に王宮へ帰ろう」
マーゴットはわけがわからなかった。何を言い出すのだ。あんなにハッキリ別れを切り出しておいて。
「わたくしたちの結婚は破棄されました。それを言い出したのは陛下です。よもやお忘れではありませんわよね?」
「あの時、余はどうかしておったのだ。決して……決して本心ではない」
「いいえ。陛下は結婚破棄によって王妃が被る不利益を承知の上で切り出されたはずです。それを無かったことには出来ません。今さら王宮に戻ったとして、誰がわたくしを王妃と認め、尊重しますか? 皆に名ばかりの妃だと後ろ指をさされて生きてゆけと?」
ランドルフはグッと言葉に詰まり下を向く。
「あの日、わたくしは悟ったのです。陛下の愛は、もうここにはないのだと」
「そんなっ……マーゴット…………!」
「急な王妃の不在でご不便なのは理解できます。でもそれは宰相閣下がどうにかなさるでしょう。彼もそのつもりでしょうから。別れた妻を当てになさらずともよいはずです」
きっと断れない隣国の式典とか、急な王妃同伴の案件が発生したのだろう。こんなに早く迎えに来る理由はこれくらいしか思い浮かばない。
(それにしてもバカにしてるわ。都合の良い時だけ私を利用しようだなんて。こんな男だったかしら)
マーゴットは今までの良い思い出までもが穢れていくような気がした。
「私たちに話し合うことなど、もう何もありません。さあ、もうお帰りになってください」
衝撃を受けたように口をパクパクしているランドルフを一瞥すると、マーゴットはくるりと背を向けその場を去った。
部屋の入口でオロオロしながら見守っていたデイジーが後を追いかける。
「マーゴット様…………」
気遣し気に呼びかけたデイジーにハンカチを差し出され、マーゴットは初めて自身が涙を流していることに気づいた。
「これでいいのよ、これで…………」
震える声で答えると背中を優しくさすられる。嫁入り前からずっと仕えてくれた侍女の前で、マーゴットは溢れる涙を止められずに嗚咽した。
貰い泣きする侍女と共に、伯爵邸にはいつまでも泣き声が響いていた。
これで終わったのだ。そう思っていた翌朝、執事の信じられない一言でマーゴットは飛び起きた。
「王妃殿下、国王陛下がいらっしゃいました」
「はあ?」
かくしてマーゴットは泣きはらした酷い顔で、再び夫と相見えることになったのである。
「おお、マーゴット。そなたは今日も美しいな」
(目が充血して、瞼も腫れてパンパンなのにっ?!)
会うなり猫なで声で見え見えの世辞を言うランドルフのことが、マーゴットは本当にわからなくなった。