1 愛が壊れるとき ~王妃マーゴットの怒り
『黒猫魔女リンリンの結婚』のスピレル国が舞台のお話ですが、関連性はありません。単品でお読みいただけます。
ここは人間と獣人が暮らす世界。その結婚のあり方は実に多様で、一夫多妻制の国、唯一無二の番を愛しすぎる竜人や狼族、自由気ままに結婚と離婚を繰り返す猫族、もはや結婚の概念すら風前の灯である無節操なネズミ族などがひしめき合っている。
人間が治めるこのスピレル国は、一夫一婦制で離婚が禁じられている。
婚姻とは神に誓った契約であり、それを破ることは神への冒涜だとされているからだ。
その上、この国では国王を頂点とした厳格な身分制度があり、平民はともかく貴族たちの考え方はどの国よりも保守的だ。
淑女は、常に優雅な立ち振る舞いを心掛けるべし。
淑女は、結婚まで純潔を守るべし。身持ちを固くし慎み深くあれ。
淑女は、夫を立てるべし。万事、控えめに、出しゃばることなかれ。
淑女は、忍耐強くあれ。多少のことに荒波を立ててはならぬ。
淑女は、――――――
「淑女は、淑女は、って五月蠅いのよっ」
王妃マーゴットがトランクに荷物を詰め込みながら声を荒げると、腹心の侍女デイジーがビクッと身を震わせた。
マーゴットは元来ヒステリックな性格ではない。いつも口元には慈愛の微笑みを浮かべ、たおやかに振る舞う姿は淑女の手本のようだ。
なのに先程から自らの手でドサッ、ドサッと乱暴にドレスを選り分ける様子を見て、これはただ事ではないと王妃付きの侍女たちは慄いている。
それもそのはず。マーゴットはたった今、夫である国王ランドルフから「結婚破棄」を告げられたばかりなのだ。
結婚破棄。
それは離婚が認められていないこの国において、事実上の離婚を意味する。
結婚相手と別れる場合、籍はそのままで他人同然に別居するか、新たなパートナーと夫婦同然の生活をする事実婚が一般的だ。
教会と法の目をかいくぐった最も簡単で合理的な方法である。
「女にばかりアレコレ求める癖に、自分たちはどうなのよ? なーにが『生涯、君一人を幸せにする』よ。たった一つの約束も守れない嘘つき野郎め。それに見てよコレ! いくら私の名前がマーゴットだからって、誕生日プレゼントがすべて真珠なんですけど。とりあえず贈っておけばいいだろうって? 手抜きよね。バカにしてるわっ!」
マーゴットは夫から贈られた宝石箱を次々にポイッ、ポイッと放り出した。真珠のネックレス、真珠の耳飾り、真珠のブローチ、真珠の指輪、そして真珠のネックレス、真珠のネックレス、真珠のネックレス、真珠のネ…………である。
「あー、わかります。ウチの夫、私の名前がデイジーだからって、何かっちゃ雛菊の花束なんですよね。たまには赤いバラとか貰ってみたいもんです」
「でしょ?! 私だって本当は真珠よりダイヤモンドが好きだし、ルビーやサファイヤに惹かれることもあるのよ。十二年間も一緒にいたのに何もわかってないんだから」
マーゴットはゴドウィン公爵家の令嬢で、十六歳のときに二歳年上の王太子ランドルフと結婚し、その後、第一王子ダニエルと第二王子マシューを出産した。
王家の血統を絶やさないようにするため、結婚して三年経っても子が授からない場合、側妃を持つのがこの国の慣習である。が、既に二人生まれているため、妃はマーゴット一人であった。
「そもそも陛下は何で結婚破棄なんて言い出したんですかぁ?」
黙って様子を窺っていた黒猫獣人ジジがおずおずと嘴を挟んだ。
彼女は薬師だ。一年ほど前、平民街でトラブルに遭って追われているところを侍女デイジーに助けられ、以来、王妃専属としてこの王宮に匿われている。
緑色の瞳、黒髪の楚々とした少女だが、王宮では獣人が珍しいので茶髪のカツラを被って変装している。
「ハンソン侯爵が進言したのよ。そろそろ側妃を持つべきだって」
「えー、ですが、既に二人の王子がいらっしゃいますよね?」
ジジが首を傾げる。
「それが去年、二人同時に風邪に罹ったじゃない? それを持ち出してきて『もう一人、王子を儲けるべき』だって」
「そんな無礼な。マーゴット様は二十八歳。まだお子が望める年齢だというのに何ということを!」
腹心の侍女は不快感を露わにした。
「ハンソン侯爵は野心家よ。自分の娘を側妃にしたいのよ。腹違いの子が生まれれば後継者争いが勃発しかねない。冗談じゃないわ」
「陛下は拒否なさらなかったのですか?」
「ルビーを献上されて、まんざらでもなさそうだったわよ? だから喧嘩になったのだけれど」
「陛下は何を考えているのでしょう」
ため息を吐くデイジーに、マーゴットは肩をすくめた。
「さあね。きっと私に飽きて若い娘と結婚したくなったのでしょう。なんでもハンソン侯爵令嬢は十七歳だそうだから」
それを聞いたジジが「ぐへぇ~」と呻く。
猫族の平均寿命は五十歳だ。ジジからすれば一回りも年の離れた男との結婚など考えられないのだろう。対して人間では、あり得ない年の差ではない。
(まったく男なんて、皆自分勝手なんだから)
世の中の、いやこの国の男たちは隙あらば他の女にちょっかいをかけたがる。浮気を繰り返したり、何人も愛人を囲ったり、年の離れた若い娘に夢中になったり。
ということを考慮すれば、夫側からの結婚破棄は滅多にあることではない。貴族は政略結婚も多い。王族なら尚更だ。どうせ離婚は出来ないのだ。新たな相手は外で囲えばよい。その方が余計な荒波が立たず家門同士のいざこざを避けられ、社交界での体面を保てるからだ。
わざわざ男性側から言い渡すのは、余程、妻を嫌っているか、それほど新しいパートナーを愛しているか……。
いずれにせよ社会的不名誉を負うのは、不品行な夫ではなく貞淑な妻の方だ。
マーゴットはグッと眉間に皺を寄せた。
自分の尊厳が大きく傷つけられ、地に落ちたような気分になった。
ランドルフは曲がりなりにもこの国の王だ。歴代の中で抜きん出たものがなく凡庸ではあるが、馬鹿ではない。己の発言がこの国の王妃の体裁をどれほど損なうものであるのか、想像していないはずがない。
なのに敢えて「結婚破棄」を口にした。
(そこまで嫌われていたのね)
マーゴットは夫との甘美な思い出や、共有した苦悩の数だけ深めた絆、夫と子どもたちと一緒に過ごす一家団欒が虚構であると悟った。
「まあ、離婚もいいですよねぇ。猫族は二度、三度結婚するのはよくある事なんです。人生は我慢するより楽しんだ方が絶対にいいに決まってます。王妃様もまだまだお若く、綺麗なんですから勿体ない。えっと、実は私、来年成人を迎えたら、お隣のシベンナ王国で薬学研究所の入所試験を受けようと思っているんです。あそこは移民が多いし、実力主義で自由な国です。ここで苦労するくらいなら、いっそのこと一緒に移住しませんか?」
さすが自由気ままな猫族である。ジジから誘われると鬱々とした気持ちがたちどころに晴れ、元気が湧いた。
(そうよ、前を向かねば――――)
「それは追い追い考えるとして、とりあえず、これからどこへ向かうかよね。口うるさい兄がいる実家には戻りたくないし…………」
「それなら、ぜひ我が家へお越しください。王都の屋敷に夫はほとんど帰りませんから」
デイジーの夫である文官のエイベル・ノックス伯爵は、普段は王宮に詰めている。王妃の侍女として出仕しているデイジーも王宮に部屋を持っているため、王都の伯爵邸はあまり活用されていなかった。
マーゴットはデイジーの申し出を受けることにした。
「そうと決まれば、出発ですわ!」
憂いを振り払うように威勢よく声を張り上げると、マーゴットは颯爽と王宮を後にした。
こうして王家始まって以来の離婚騒動、もとい結婚破棄騒動が幕を開けた。