林檎は赤いか丸いか
大半の管理職がそうであるように、中井教頭も例に洩れず事なかれ主義だった。
学校長の密命を受けて美術室に向かう彼の足取りは決して軽いものではない。中井教頭は近々に自主退職する予定である美術教諭の身辺調査を指示されていた。
「湯川先生の自主退職が決定したわけですが、その前に美術室の視察に行ってきてくれませんか。不適切と思われるような物があるようなら、教頭先生の判断で速やかに処分してください」
庭いじりが生きがいの女性である学校長は、窓から見える花壇に咲き誇る紫陽花を愛でながら、何気ない調子で教頭に指示を与えた。「処分」という剣呑な言葉は、咲き乱れる紫陽花とはひどく不釣り合いで、中井教頭は学校長の残忍さを思って密かにため息をつかずにはいられなかった。
件の美術教諭がこの学校に赴任してから、だいたい五年が経とうとしている。「可もなく不可もなく、うっすらとした影を残すばかりの教員」というのが、中井教頭の湯川明に対する印象だった。
――まさか、精神病を患っていたとは知りもしなかった。問題を抱えている類の教員には見えなかったのだがなあ――
美術室に近づくにつれて塗料に含まれた薬品の臭いが彼の鼻腔を強かに刺激する。教頭は美術室に生徒の姿がないことを確認すると、美術教師のアトリエにこっそりと踏み入った。嫌な仕事はさっさと済ませてしまうに限る。
「教頭先生、お疲れ様です」
思いがけない人の声に中井教頭は横面を叩かれたように驚いた。美術教師の湯川明は黒板の前に据えられた教壇で――そこは教室の入り口の真横に設えられていたので死角になっていた――生徒の描いた絵の鑑賞と添削をしている最中だった。
「ああ、びっくりしましたよ。先生が退職される前に一度だけでも美術室の見学をしてみようと思いましてね」
中井教頭は美術教師の不在を狙って密命を果たすつもりでいた。思わぬ邪魔者が残っていたことに苛立ちながらも、中井教頭は慣れた口ぶりで小さな嘘をついた。
「この度はいろいろとご迷惑をお掛けしてしまってすみませんでした。今日は子ども達の新しい作品が出来上がった日なんですよ」
美術教諭は穏やかに微笑みながらそう言うと、手にしていた紙の束を教頭にそっと差し出した。教室内に不審な物がないかを傍目に確認しつつも、教頭は差し出された紙の束を素直に受け取ったが、そこに描かれた異様な絵の数々(かずかず)に仰天してしまった。
「私には美術の教養はほとんどないのですが、これらは一体全体、何を描かせたものなのでしょうか」
紙の束を捲るごとにグロテスクともいえる彩色で紙面を塗りたくっただけの絵が万華鏡のように教頭の目前に繰り広げられていく。それらは湯川明という人間の病んだ脳髄を表現しているようだった。教頭の背筋を冷たい汗が伝ったが、美術教諭は教頭の心中を察することもなく言った。
「これらは子ども達の目に映った林檎の絵です。教頭先生にこれらがどのように見えていますか。何色をして、どのような形をしていますか。僕たちは赤くて丸いものが林檎のあるべき姿であるように思い込んでいますが、それが林檎を林檎たらしめている重要な要素ではないのです。実際に手に取って、口にしてみるまで、目の前にある丸くて赤い物が林檎であるとは断定できないのです。いや、それらの感覚ですら、実は夢幻であるかもしれません。林檎は甘いという感覚でさえ、独りよがりの幻想なのかもしれないです。
これらの絵は子ども達の目に映った林檎の絵を描かせたものです。何一つの偏見を含まない純粋な林檎の姿形を描いたものなのです。僕にはこの一つひとつの絵が堪らなく愛おしい。林檎の一つに無限の可能性を見出す彼らこそ、新しい時代の担い手なのです。彼らの目は林檎に宇宙を見出すのです。
僕は安心しながら、この職を退くことができる。僕が子ども達にしてあげられることは、これくらいのことに限られています。彼らの目から曇りを払うこと。それが僕のできる精いっぱいの仕事です」
熱っぽく語る美術教諭の様子を仔細に観察した上で、中井教頭はそれらが狂人の誇大妄想だと判断した。子ども達の描いた林檎の絵を握る教頭の手の力が入った。今こそ、学校長の命令を執行する時だった。教頭の手が紙の束を縦に裂こうと動こうとしたとき――、美術室の引き戸を勢いよく開ける者が現れた。それは一人の生徒だった。彼は頬を上気させながら言った。
「見えた。見えたよ。僕の目にも林檎が見えたんだ」
そう言いながら生徒は誇らしげに自身の作品を掲げた。湯川先生は彼の目が澄み切っていることに満足しながらにっこりと笑うのだった。
(了)