橋姫
過去に葬ったはずの記憶が、ふとした瞬間にまざまざと蘇ることがある。きっかけ自体は些細なものだが、それがいつ訪れるかは知る由もない。
鈍色にたゆたう川面が斜陽に照らされて胸の悪くなるような光沢を放っている。橋の欄干に身を寄せながら、いやらしく粘り蠢く川波を見下ろしているうちに、やがてこれが夢であることを覚った。
――最後にこの橋に立ったのはいつのころだったか――
初めて訪れる場所ではないことだけは確かだった。落胆と絶望を繰り返す度に見てきた夢。錆の浮いた欄干の手触りは不思議な懐かしさすら覚えるほどである。ここに至るまでの経緯は霧がかり、容易には分かりそうにないが、これより先に自分が何をすべきかは、経験的に知っていた。
――あの日に成し遂げるべきだったことを成せばこの夢も終わるはずだ――
橋の上に人影は見当たらない。私は高欄に手をかけて大きく半身を乗り出すと、ぬらりぬらりと脈動する川に唾した。数秒の間を置いて、それは鈍く輝く川面に飲み込まれて消えていった。
――これだけ高さがあれば大丈夫だ――
錆でざらつく手摺を固く握り締めながら、徐々(じょじょ)に体重を前に乗せて前傾姿勢に移っていく。橋の欄干を支点にした前屈運動に伴って眼下に広がる川面との距離は縮まっていく。
私が行う危険な運動は重力に従って、やがては致命的な一線を越えるだろう。だが、あの日のようにそれを咎める者は現れそうにない。
――これでいいのだ――
この寂寞とした夢幻の空間から逃れる方法は充分に心得ているつもりだ。橋から身を投じて濁流に飲まれること。
懊悩が生み出した世界は、私がかつて躊躇して実現できなかった行為を執拗に求めてやまない。私は夢の中で幾度も落下を繰り返し、数え切れぬほどの仮初の命を落としてきた。
――今さら何を怯える必要がある――
だらしなく弛んだ腹肉に鉄棒が食い込む。不恰好な弥次郎兵衛のような体勢を保ったまま、後にも先にも引くことができず、時間ばかりが無為に過ぎ去っていった。
重々(おもおも)しい川の流れは橋脚に遮られ、うねりとなって渦を巻いている。平均台にまたがって逡巡する私をまるで手招いているように、小さな泡沫が結んでは消えていく。大口を開けて待ち構えている水域から思わず目を逸らした。
心臓は早鐘を打ち、口腔は熱く粘る唾液で満ちている。背けた両眼は蘆の生い茂る川岸を掻き分けてしばらく彷徨っていたが、じきにこの継ぎ接ぎだらけの心象風景につきづきしくない存在を見つけ、少なからず動揺した。
――まさかここで彼女を見ることになるとは思わなかった――
忘れがたい女性の姿がそこにはあった。折から吹き始めた夕風に蘆の原はさざめき、彼女が着ている白いワンピースの裾は軽やかに翻る。私は女の白い腿があらわになるのを見逃さなかった。息苦しさを覚えるほど甘酸っぱい女性の匂いが鼻腔の奥で花開き、在りし日の思い出が激しい明滅を繰り返しながら脳裏を過っていく。
彼女の肉体を再び掻き抱いてみたいという欲求が腹の底でふつふつと煮え始めていた。獣欲に塗れた泥のような眼差しで、彼女を注視している自分に気が付き、我に返るとともに己の浅ましさを恥じずにはいられなかった。
吹きすさぶ風に黒髪を舐られながら、彼女はひとり寂しく川岸に佇んでいる。悩ましい思いに駆られつつも、熱心にその姿態を見詰めているうちに、彼女が白布に包まれた小さな箱を胸に抱いていることに気が付いた。
ほどなくして彼女は白い服が土で汚れることも厭わずにひざまずくと、抱いていた箱を静かにひと撫でし、たゆたう川面にそっと浸してから手を離した。小箱は浮きつ沈みつしながらも早瀬に沿って下っていく。
――あの小箱には何が篭められているのだろうか――
それは永遠に解くことのかなわぬ謎であるような気もしたし、明白な解をとうの昔に導き出しているような気もした。小箱は川の流れに乗って見る見るうちに遠ざかっていく。
茜色の空に何羽となく集った鴉が小箱の行く末を見守るようにして飛び回っていた。腐肉を啄む鋭い嘴はいずれ小箱の中身を暴くに違いない。彼らの黒曜石の瞳は箱の中に何を見るのだろう。
橋の上から望む光景はあまりにも鮮烈であった。ここでは屠ったはずの記憶が蘇り、欺き続けてきた過去が復讐する。私はその責め苦から逃れるためにも、この橋から身を投げなければならぬらしい。何も告げずに私のもとを去って行った女性の亡霊に見守られながら。
(了)