構内ポスター
殺意が巨大な渦を巻いて脳髄を痺れさせている。握りしめた拳が行き場を求めて壁に穴を開けた。怒りは腹の底で煮詰まり、泥を沸かしたようになっている。
――この男だけは許しておけぬ――
私は勤め先の社内新聞をポケットから取り出すと、印刷された小さな写真に目を凝らした。執拗に読み返された新聞は擦り切れて文字を判別することさえ難しい。
社内の部署を紹介するために撮られた一枚の集合写真。大勢の社員に囲まれて安穏と笑っている初老の男こそ私の目当てである。彼は私の所属していた部署の部長であり、私を辞職に追いやった張本人でもある。
「君の気持ちは痛いほどわかるよ」
精神科の医師はそう言って私をなだめるが、怒りの炎は容易には鎮まりそうにない。神経の糸はぴんと張りつめ、今にも盛大な音を立てて切れてしまいそうだ。いかなる名医であろうとも、この傷の痛みは分かち合うことはできないし、また分かち合う気もなかった。
『つい、カッとなった。人生、ガラッと変わった』
精神科病院への通い路にある駅構内に掲げられたポスターの標語を思い出す。スーツ姿の男性が拳を振り上げるイラストと共に、でかでかと印字されたスローガンは駅員への暴力行為の防止を訴えている。しかし、私には全く別のことを暗示しているように思えてならない。
――この救いのない人生も変わるのか――
行き着く先が地獄でも構わない。もはや私の人生は収拾がつかないほどに損なわれてしまっていた。それならば……。
写真に映った元上司の姿を目に焼き付くほど凝視する。私の未来を滅茶苦茶に蹂躙し、唾を吐き捨てた醜悪な人間への殺意。それが脳髄で肥大していくのを感じた。
私の摩耗した神経が導き出した計画は至極単純なものであった。仇敵の足取りを追い、機会を見定め、背中を突き、電車に轢かせる。
計画と呼ぶにはあまりに粗忽な考えであることは分かっている。しかし、その浅慮さがかえって計画が不首尾に終わる懸念を薄めているのも不思議な事実であった。
先々(さきざき)のことは考えていない。事態がこれ以上に悪くなるとは思えないからである。警察に逮捕されようが、死刑を宣告されようが一向に構わない。今や、復讐心だけが私をして突き動かす源泉であった。私は不倶戴天の敵の後ろ姿を追い、躊躇することなく切符を改札口にねじり込んだ。
時計の針は午前七時を指している。ダイヤに乱れもない。あと数分もすれば電車は定刻通りにやってくるだろう。
私は人いきれするプラットホームの群衆に紛れて仇敵の後ろ頭を見詰めた。距離にして数十メートル先に目標はいる。アナウンスを聞き逃さないよう耳をすませた。
「まもなく電車が参ります」
弧を描くように大きく湾曲したレールを辿りながら、圧倒的な質量の塊が駆けてくるが見えた。それを合図に人垣を縫うようにして私も走り出す。猛烈な勢いで敵の背中を目掛けて突進する。耳の奥で心臓の鼓動が響いている。あと数メートルで手が届く。その時、
――あっ――
小さな老婆が私の行く手を阻んだ。腰を曲げて人の群れに隠れていたせいであろう。突如として目の前に老婆が現れた感じすらした。
「すみません」
意外な存在を前にして私の口をついて出たものは素直な謝罪の言葉であった。
「人が仰山おるでな。走ると危ないよ」
老婆は幼子を優しく諭すような口調で私に言い聞かせると、穏やかな微笑みをたたえながら、今しがた到着したばかりの電車に乗るために歩き出した。足取りは弱々(よわよわ)しく、後ろ手には一本の杖が握られていた。
私の復讐劇は一人のか弱い老人によって阻止されてしまったことになる。しかし、不思議にもそれを悔しいとは感じなかった。人目を忍ぶようにして、後ろ手に握られた一本の杖が私の中で燃え盛る炎を鎮めたのだ。
―誰しもが痛みを抱えているんだ―
そこに至るまでの経緯は異なれども、生きていればいずれは傷を負い、痛みに悶えることになる。それを思うと、ことさらに騒ぎ立てず、穏やかに微笑んですら見せた老婆が急に高尚な人間に思えてきてならなかった。
物思いに暮れながらも、とにかく帰路に就こうと歩いていると、改札口の前で駅員が新しい掲示物を壁に貼っているのを見かけた。
『お酒の失敗じゃない。あなたの失敗です』
標語のみが変えられてはいるが見覚えのあるポスターである。
――失敗は誰のせいでもないんだなぁ――
なるほど、確かにその通りだと思った。
(了)