丸窓への恋
「丸窓に掛けられるカーテンはやはり丸い形なのだろうか」
そぼ降る雨に打たれて肩を濡らしながら、私はある家の二階を見上げていた。御影石に掘られた名前は「椿」となっている。風情ある苗字だな、と思いながら私は雨に濡れた表札を撫でた。
こんなことをしても意味がないのは分かっていても、この家の前を通る度に同じことをしてしまう。つい呼び鈴へと手が伸びてしまいそうになるのを、御影石の表札を撫でることで踏みとどまっているのである。
三ケ月前に非常勤講師の職を辞任させられた。それまで私は教育に献身的なまでに身を捧げてきたつもりであった。保護者や子ども達も拙いながらも額に汗して教鞭を振るう新米講師を応援してくれていた。しかし、上司との相性は最悪であった。学校長の授業妨害、教頭の暴言、教務主任の突き上げに私の精神は次第に摩耗していき、とうとう手を上げて降参してしまった。残されたものといったら去り際に浴びせられた罵詈雑言の記憶と磨り減って一本の頼りない糸と化した神経だけであった。
教壇から降りた私は驚くほど矮小な存在であった。他に勤めるあてもなく、頼りとなる友人もいない。医者から手渡された抗鬱剤と精神安定剤、それといくつかの睡眠導入剤が心の拠り所となった。
何をするのも億劫であったが、時間だけは刻一刻と過ぎていく。ほどなくして私は焦燥と不安から逃れるために、あてのない彷徨をするようになった。丸窓の家と出逢ったのはそのようなときであった。
都会の一戸建てにしては珍しい窓を付けているな、と初めはそう思った。私にとって丸窓といったら、明り取り用の窓の形であり、当然その向こうには和室が広がっているはずであった。しかし、二階に和室を設けるというのも少しばかり妙な感じがする。調べてみると最近は和室でなくともモダンなインテリアとして丸窓を付ける家もあるという。それではあの家の丸窓もその類のものなのだろうか――。
気が付けば、あてのないはずの彷徨にいつしか目的地ができていた。丸窓の家の間取りやそこに住む人々のことを考えている間は自然と嫌なことを忘れることができた。私は丸窓の向こうに広がる世界を夢想した。それはときには甘美な恋の世界であったり、ときには豪奢な美の世界であったりした。世界は万華鏡のようにくるりくるりとその都度、様相を変化させたが、その中心には必ず可憐な乙女がいるのは不思議であった。そして私はいまだ見ぬ丸窓の君との逢瀬を密かに夢見ずにはいられなかった。私は大学時代に学んだ平安朝に生きた貴族らの恋模様を思い、あるいはシェイクスピアの戯曲を思い出した。丸窓への恋は私に束の間の安息と生気を与えたのである。
その日も私は呼び鈴を鳴らすという欲望を抑え、雨に濡れた御影石の表札を撫でて帰るつもりであった。「椿」と刻まれた文字をなぞり、あてのない彷徨に戻ろうと踵を返したときである。
「あの、すみません」
私は一人の少女に声を掛けられた。振り返ると門柱に半身を隠すようにして可憐な少女がこちらを凝視している。その鋭い視線に敵意が含まれているのは明らかであった。
「うちに何か用ですか。最近、ずっと来てますよね。あの窓から見てました」
少女が丸窓を指さしたので、私はしどろもどろになってしまった。丸窓の君は実在したのだという喜びと自分が不審者だと思われているという恐れがあべこべに入り交じった感情であった。咄嗟に弁解する必要があると思ったが、なるほど少女の言う通りだなと納得してしまうのが悲しかった。
「すみません。珍しい窓だったので――」
「はあ、何を言ってるんですか。頭おかしいんじゃないですか。本当に警察を呼びますよ」
これ以上、この丸窓の家に関わるわけにはいかない。私は少女の言う通り矮小な頭のおかしい精神病患者に過ぎないのだ。目を逸らし続けていたものを叩きつけられた心持ちであった。私は途端に襲ってきた虚しさと悲しみを噛み締めながら乾いた口で少女に尋ねた。
「あの丸窓に掛けられるカーテンはやはり丸いのでしょうか」
「はあ、普通のカーテンですが。やっぱり頭おかしいんじゃないですか。もういいです。帰ってください。次来たら警察呼びますから」
苛立つ少女の解答を聞き、丸窓の君はやはりいなかったのだなと思った。私のささやかな恋は終わりを告げた。丸窓の向こうに広がる世界は、味気ない平凡な家庭とそれを包み込む冷徹な世間であった。私は最期に丸窓を一瞥すると、一刻も早く世間から逃れるために小糠雨の中を駆けて行った。
(了)