デートスポット
麗らかな秋の陽射しが窓から注ぎ、磨かれたテーブルを照らしている。和やかな日曜日の昼下がりを過ごす人々の顔は晴れやかであり、抜けるような秋の空模様につきづきしいさっぱりとした雰囲気に溢れていた。
清澄な空気に包まれたカフェの一席に、ひとりの身なりの良い老紳士が腰を掛けていた。湯気の立つコーヒーを前にして瞼を閉じて穏やかに微笑を浮かべる姿は優雅な印象を与える。老人はぽっかりと空いた余暇を有意義に過ごす術を知り尽くしているように見えた。
いくらかの時間が過ぎたころ、たっぷりと太った店の主人が歩み寄り、夢と現の狭間を行きつ戻りつしていた老人に声を掛けた。主人の後ろにはどこかに幼さを残した女性が顔を赤くしながら控えている。
「もしよろしかったらこちらのお客様と相席していただくことはできませんでしょうか」
老紳士が頷くと店の主人はほっと胸を撫でおろした。主人は何度も頭を下げながらカウンターの暗がりへと消えていった。大きな体でちょこまかと働く主人の姿が滑稽だったので老人と女性は目配せをして微笑み合った。
「ありがとうございます。どうしてもこちらでお茶をしたかったものですから」
ユニークな店主のおかげで肩の力が抜けたらしく、女性は顏をほころばせて老人に礼を言った。カップを掌で弄びながら彼は答える。
「忙しいときに席を独り占めしてしまっていたようで心苦しかったところですから」
慎み深い老紳士の物腰が女性を安心させたようだった。少女に戻ったかのようなそぶりで身を乗り出すと声を小さくして訊ねる。
「あの店主さんとはお知り合いなんですか。お邪魔してはいけないと思って諦めていたんですけど、あのお客様なら大丈夫だ、と言い張るものですから」
老人はしばらく首を傾けて考えていたが嘆息とともにかぶりを振った。
「すみませんが思い出すことができません」
そう答える老人の目は、どこか遠いところを見見つめる虚ろなものであった。その声は頼りなく、彼の存在が途端に希薄になった感じすらする。。
「そうですか。それはそうとタバコを嗜まれるようですが、禁煙席をお選びくださっていたので助かりましたわ」
老人の記憶の穴を埋めるように女性が声を弾ませた。ころころと変わる表情は大げさだったが嫌味なところがなく溌溂としていた。
「あなたはまるで探偵ですね。どうして私がタバコを吸うと分かったのですか」
老紳士は感心したという口ぶりで女性にタネ明かしを求めた。彼女は悪戯っぽく笑いながら彼の胸を指さした。
「スーツの胸ポケットが不自然に膨らんでいますし、右手の薬指と人差し指が薄く黄がかっています。そこから想像してみたのです」
秘密を見抜かれてしまった老紳士は胸ポケットからタバコを取り出してみせた。
「恋人がタバコを嫌っていましてね。お店で待ち合わせをするときは必ず禁煙席に座るようにしているんです」
女性はゆったりと椅子に身を預けると、思い出を懐かしむように静かに瞼を閉じた。小さな唇から吐息とともに漏れたつぶやきを老人は聞き逃さなかった。
「そう、約束は忘れていないようね」
老人は女性の言葉を訝しんだ。霧がかかってよくは見えないが自分は何か大切なことを失念しているような気がした。それを思い出そうと心を砕くほど遠近を失っていく感覚に襲われて不安になっていく。いつしか老人の手はぶるぶると震えていた。
「気分を害されたのなら謝ります。それでも今日だけはあの人のことを思い出して欲しかったのです。ねえ、その薬指の指輪は誰のためのものですか」
老紳士の頬を一筋の涙が伝った。彼の目を覆っていた霧が晴れたようだった。
「これは亡くなった妻のためのものです」
女性が老人に優しく微笑みかけた。その姿が若かりし日の妻のものとぴたりと重なった。心の底から愛した女性が遠い過去からやってきたようだった。
「分かったかしら。わたしはあなたの孫。今日はおばあちゃんの命日だったからどうしても思い出して欲しかったのここは二人が待ち合わせをした思い出のお店よ」
老人は束の間の正気を取り戻していた。やがて時が来れば病のために忘却してしまうだろう。彼は涙でかすむ目を瞬かせながらも孫娘の手を握った。温かく柔らかな掌に冷たく乾いた掌が重なる。かりそめの逢瀬ではあったものの亡き妻が待ち合わせに応じてくれたことに、老人は深い幸福を感じていた。
カフェの扉が鐘を鳴らしながら開かれる。たっぷりと太った店主があいさつをする。また誰かが待ち合わせに訪れたようだった。
(了)